モラトリアム トーキョー [Ansicht Tokio]
と言いながらも心のどこかでは、モロッコでは家などの構造物が日干し煉瓦が主体だから…とか、トルコの場合も必ずしも耐震基準が守られていなかったのでは…とか、関東大震災も当時は街自体がほとんど木造で耐火性に乏しかったから…とか、なんとか自分たちの街はそこまではいかないのではないかと思い込もうとしているのかもしれない。
しかし、阪神淡路大震災のことを考えると今の日本のビルや街が安全という思い込みはできないし、安全と言われた高層ビルにしても次第に明らかになってきた長周期振動の恐怖もぬぐい切れない。ぼく自身は被災しなかったのだけれど、ぼくは今でも1995年に起きた阪神淡路大震災の時の経験を忘れることができない。
1995年、年初の正月気分がやっと抜けた1月17日、地震が起こった。朝出勤前に家でテレビを見ている限りでは、神戸で今本当に何が起きているか定かには分らなかった。当時、ぼくは企業の東京の本部に在籍しておりいつも六時前には自宅を出て七時過ぎには会社のデスクに座っていたが、そこに神戸支店長が悲痛な声で電話をかけてきた。
今、神戸支店のあるビルに入ろうとしたのだが、オフィスのある4階フロア全体がすっぽりと潰れて無くなってしまっている。ビル自体も傾いている、と。そのビルの姿はその後のニュースの画面に何度も登場したが、その報告に全身から血の気が引いていった。電話の向こうでは支店長の嗚咽の声が響いていた。もし、それが平日のオフィスアワーに起こっていたら数十人の職員が犠牲になっていたかもしれない。
東京はいつかは分からないが、大地震が必ずくると言われている稀な世界的大都市である。南関東のどこかで、マグニチュード7の地震が30年以内に約70%の確率で発生すると予測されていて、それは東京という大都市の真下でも発生することを意味している。
東京は、いわばいつかは大きな利子をつけて支払わなければならない債務を抱えていながら、とりあえずはそれを支払猶予(モラトリアム)で先延ばしにされている、言ってみればモラトリアム都市だ。人々は恐れながらもそれは確定的な未来ではないことにして、その間に都市は海へと、そして空へと増殖してゆく。
それも地盤が磐石な北東部へではなく豆腐のような地盤の臨海部へ、そして限りなく不安定な高い空を目指して繁茂してゆく。お台場、有明、汐留、そして丸の内、日本橋、原宿、六本木と次々にきらびやかな高層建築物と街並が出現してゆく。
今東京都が「TOKYO強靭化プロジェクト」なるものを推進しつつあるが、喫緊でやらねばならないことも山積している。例えば地震の際に真っ先にぼくらを頭上から襲ってくる、ビルから突き出た袖看板などは法的規制も甘く見逃されている感じもする。
ぼくもカミさんも東京生まれの東京育ちだからここが故郷なわけで、何があってもほかに行き場もないのだけれど、与えられたモラトリアム期間のうちに是非とも災害に強靭な都市になってほしいと願っているが…。

その時の動画をYouTubeで限定公開にしてアップしていたことを思い出したので下に載せました。東京のできるだけ多様なスポットを入れたいと思い、ちょっと欲張りすぎてバックに東京にちなんだ曲が3曲も入って13分の長尺になってしまいました。冗長ですが、お時間の許すときにでもご覧いただければ嬉しいです。
父からの便り [新隠居主義]
21世紀になってまだ二十余年にして大きな変化がひたひたと近づきつつある気がする。20世紀末、日本のバブルは剝げたけれど、当時のぼくには来るべき世紀への明確な期待もなかったかわりに、形になった不安も見えていなかった。ただ、当時教えを受けていた永井陽之助先生の21世紀はテロと地域・民族・宗教間戦争の時代になるだろうという言葉が能天気なぼくの頭を打ちすえたのを覚えている。
その21世紀になったばかりのある日、一通のハガキが届けられた。それはハガキよりひとまわり大きな透明のファイルに入れられていた。昭和60年(1985年)9月30日の日付だった。送り主は父で、文面から父は7月22日にこのハガキをしたためていたことがわかる。父は当時開催されていたつくば科学万博にいって会場から「20世紀の私から、21世紀のあなたへ」というイベントでぼくとカミさん宛のその便りを書いた。
つまりそのハガキは16年後の21世紀、2001年になってから配達されるというものだったらしい。父からはそのハガキのことは聞いていなかったので受け取ったときは驚きもしたし、感慨深くもあった。内容は家庭を大事にして暮らしなさいというようなものだけれど、最後に自分が海外旅行をしたようにこのハガキが着くころにはぼくらも月旅行にでも行けるようになっているかもしれないと結んでいる。
その頃もう老齢だった父にとっての21世紀という新しい世紀の距離感がなんとなく漂っている。父は残念ながらこのハガキを投函した10年後の夏に他界した。父は根っからの職人だったから手紙を書くというようなことはほとんど無かった。覚えている限りぼくが父から何らかの便りをもらったのはこれを含めても二度。
一度はぼくがまだ二十歳過ぎのころドイツに居る時に手紙をもらったことがあった。ぼくは下町の育ちだったから父のことはずっと「とーちゃん」と呼んでいたけれど、さすがに二十歳を過ぎてからは「おやじ」と呼ぶことが多かったけれど、でも面と向かって「おやじ」と呼びかけたのは記憶にない。
当時のその手紙の文面はいかにも父らしかったけれど、一番驚いたのは手紙の中でぼくのことを「君(キミ)」と言っていたことだ。家では子供の頃からずっと父にはぼくの呼び名の「ケン」で呼ばれていたけど、手紙とはいえ「君」と呼びかけられると何とも言えない距離感を感じた一方、自分のことを客観的に見てくれるようになったのかと少し嬉しくもあった。
父は酒を飲まなかったので一緒に暮らしていても酒を飲みながら親子で馬鹿話をするということはあまりなかったし、どちらかと言えば寡黙な父だったので「最近忙しいのか…」「うん、まぁ、何とかやってるよ…」みたいな、そばにいるからあたりまえの日常トークが殆どだった。今思うと、なんかもっといろいろと話しをしておけば良かったなぁと…。

つくば万博の"…つくば万博は、科学技術に対する理解と協力を深め、人類の輝かしい未来の創造に寄与することを目的とし、「人間・居住・環境と科学技術」を統一テーマに掲げ…"というパローレは今のぼくらの心には複雑に響きます。
晩夏光 [gillman*s park]
本来は頭の中で、過ぎてゆく夏の体験をリフレインしつつ晩夏の情緒に浸りたいところだけれど、日中には34度を超すようではそんな気にもなりにくい。とは言いながらぼくが公園散歩の中でずっと感じてきたのは季節の変化というものは、例えば夏であればまさに盛夏の時からその兆しがみえているという実感だ。
昼間のうるさいような蝉の声がある一方で、早朝に散歩するとそこここの茂みから虫の集く声が聞こえてきたり、でも昼間はまだ蝉の天下だ。また写真を撮っていると、あ、光に力がなくなってきたなぁ、とか…。矛盾するかもしれないけれど、季節の移り変わりはシームレスに動いているという感覚と、あ、今日からはっきり秋になったなという感覚と、その両方をいつも感じている。
先人たちもそういう感覚があった、というより自然と共に生きていたから今のぼくらの数倍そういう感覚は鋭かったのだろうと思う。「晩夏光(ばんかこう)」という言葉も、夏のある日ふと気が付くと日の光が盛夏の時ほどの力がないということに気づいて季節の移ろいを感じるということなのだ。
この歳になると桜の季節を迎えるとああ今年も生き延びたなぁ、という感慨が湧いてくるけれど、目の眩むような暑さの夏が終わろうとする晩夏には、暑さを乗り切った疲れとそれでも親や先人のおかげで今日も生かされているという感謝が湧いてくる。
■祈りとは 膝美しく折る 晩夏 (攝津幸彦)

**晩夏光としての句は角川春樹の下の句が好きです。
■存在と 時間とジンと 晩夏光 (角川春樹)
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盛夏 [gillman*s park]

元来、盛夏と言えば梅雨明けから八月中旬くらいまでで、今頃の時候は残暑とか晩夏とかの表現がふさわしいのだろうが、今年はどうしてどうしてまだ盛夏、それも夏の真ん中みたいな気になる。うんざりだけれどこればかりはどうすることもできない。蓮池をのぞくと池の上にはまさに盛夏の空が写りこんでいた。
その日は作夜来の雨があがって台風一過とはいかないが、晴れて少し涼しい風が吹いていて気持ちいい朝だ。季節は時には牙をむいて襲って来るけれど、人に力も与えてくれることがある。多少苦しい思いはしても毎朝この蓮池に来るのが楽しみで、その度に季節に力を貰っているような気がする。
池の畔の落羽松の林にはたくさんの気根が地上に顔を出しているので、よちよち歩きの自分は気を付けないと足をとられる。昨日の雨で、大分水位が下がっていた池も元に戻って、通路にはそこここに水溜りが出来ている。木漏れ日の向こうの小さな丸い空。
それもショートカットのズルをしての到着で、今までは渡らなかった信号を渡って池に向かう。それでも、以前通りの光景と静謐な時間に浸れるのはほんとうにありがたいことだ。池の向こうに広がる空に真夏の証しの雲が浮かんでいる。お散歩カメラはまだ持って歩けないのでスマホで我慢だけれど、それでもシャッターを押す喜びは蘇って来る。
今まではほんの目と鼻の先にあると思っていた場所がどんどん遠ざかっていった。公園も今までは入り口まで数分で行けたのが、今はまずはその入り口までたどり着くことが大変な作業だ。やっと今までの散歩の終着点である池の畔のベンチ迄辿り着けるようになったけど、それは何度もの休憩を挟みながら痛みとの妥協点を探りつつの道のり。でもここのベンチはぼくにとってそれだけの価値がある。毎朝、この静謐な空気に出会えるというのは、それだけでも感謝しなければならない。この光景に元気をもらって前を向いてリハビリに励みたいと思っている。
腕にはめているスマートウオッチが何度も耳元で「心拍数が早すぎます、呼吸を整えて下さい」と連呼します。少し立ち止まってから息を整えてまた歩き出す。以前の歩幅は65センチくらいだったが、今は45センチくらい。よちよち歩きのレベルかなぁ、と。まぁ、前を向いている限り何とかなると思っていますが…。
猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その44~ [猫と暮らせば]
レオは牛乳が好物で、特に明治の「おいしい牛乳」が好きだ。朝晩のご飯の後何回かそしてお昼にも小皿一杯の牛乳を飲む。一回分は量が少ないけれど一日にすると結構な量になるかも。
厄介な事は、牛乳パックの大きい方でも小さい方でも残りが三分の一位になると。「これ古いよねっ」という感じでプイと飲まなくなってしまう。もちろん賞味期限は十分残っているのに…。
仕方なく買ってきたりして新しいのを出すと、一口飲んでブルっと身体を震わせて「これ、これ、これじゃなくちゃ」みたいな感じで飲んでいる。残った古い(レオにとっては)牛乳は結局ぼくやカミさんが飲むことになる。
昨日もお昼にあげた牛乳にまさかのダメ出し。買いに行くったって外は37度近くの猛暑。歩いていくことはできないけど、車だって億劫なことに変わりはない。でも、レオは頑としてキッチンから離れず鳴いている。根負けして車に乗る。
う~ん、なんか映画「ロンググッドバイ」(The Long Goodbye[1973])のイントロを思い出してしまった。チャンドラーの私立探偵小説フィリップ・マーロウ・シリーズの映画化だが、イントロではマーロウが飼い猫に振り回されるシーンが延々と続く。
疲れ果ててベッドに倒れ込んでいだマーロウは、夜中に自分の飼い猫にお腹が空いたと起こされる。いつものキャットフードが切れているので、キッチンにあったそこら辺の缶詰を手当たり次第に混ぜ合わせて即席のキャットフードを作るが、そんなもの食えないと猫に拒否されてしまう。
マーロウは渋々キャットフードを買いに夜の街に出て行く。スーパーに行くも飼い猫の好きな銘柄の猫缶が今日は品切れ。スーパーの店員が「ほかのやつでも大して変わらないョ」と言ったときに、マーロウは「ははぁ、こいつは猫を飼ったことがないんだな」とつぶやく。
仕方なくそれを買って、家に戻ってその違う銘柄の猫缶をお気に入りの猫缶の空き缶に入れ替え、「ほら、いつものやつだよ」と言いながら差し出すも、猫に見抜かれて無視され猫ドアから出て行ってしまう。茶虎の猫の演技がマーロウ役のグールドに負けず渋い演技だ。
で、レオ牛乳の件は何とか…、レオは手がかかる猫だ。今の時期は冷房は嫌いだけと暑がりなので、冷房の時期になると玄関のタイルとか浴室のタイルの上とかで寝ている。ということで真夏になると冷えたアイスパックをタオルにくるんで廊下に置いてやると枕にして寝ている。
猫のトイレは二か所あるんだけど、ちょっとでも汚れていると「汚れていたので他所でしました」なんてことがしょっちゅう。フローリングの上はまだ良いけれど、絨毯やソファの上にされると即、救急掃除隊(ぼく)の出動となる。トイレは日に何回も掃除する羽目になる。
毛玉は出来てもブラッシングは大嫌い。全く手のかかる…。確かに、猫ケアの指南書"Your Older Cat"の著者スーザン・イーストリーの言うように「猫と人間の新たな関係を成功に導く鍵は、忍耐である」かもしれない。でもその忍耐はいつも苦痛とは限らない、それどころか時には愉悦ですらある、と言うのがおおかたの猫飼いの心理なのだと思う。


五月闇 [gillman*s park]
もう何か月も公園に散歩に行けていないので、自分の中から季節感が段々と薄れているのが感じられる。と言っても闇雲に季節感を取り戻そうとしている訳ではないけれど、それでも季節感に触れたいという気持ちがあってか最近はよく手元の俳句歳時記をみることが多い。
母の使っていた俳句歳時記が何冊かあるのでそれをよく覗いていたけど、そのうちの一冊は如何にも字が小さい。母も晩年はそれはよく見えなかったんじゃないかと思う。ぼくもそう言う歳になったという事だな。
角川版の四季別で分冊になっている歳時記のデカ文字版があるので今はそれをよく見る。そのうちの「夏」巻は電子書籍のKindleでも買ってみたが、やっぱり歳時期は紙の本の方が親しみが持てる。Kindle版の方はまた旅行に行けるようになったら旅先で読んでみたい。
歳時記を見ながらつくづく感じるのは、季語というのは日本人の季節感の精髄のようでどの言葉にも言霊が宿っているという事だ。俳句は詠めなくても、その言葉に出会うだけでも何か心の琴線に触れてくるものがある。
ぼくの好きな夏の季語の一つに「五月闇(さつきやみ)」というのがあるけど、これは五月というよりは梅雨の合間のいやに暗い日を指しているので、今頃も通じる季語だ。
梅雨の降るころの厚い雲に覆われた、昼夜を問わぬ暗さをいう。ちょっとジメッとした闇の空間を思い浮かべて日常にありながらどこかに潜む異空間を感じさせるし、これは他の季語同様多分に心的な意味も含んでいるような…。長谷川櫂のこの句はその五月闇の中に白い花がポロッと溢れた刹那がイメージとして浮かんでくる。好きな句だ。


*母はよく俳句を詠んでいたけれど、ぼくは観賞専門で詠むことはないが、人生で折に触れて自分の好きな句が少しづつ増えてゆくのは嬉しい気がします。そういう句の中の季語のイメージが写真で捉えられたらいいなあと思うのだけれど、とても難しいなぁ。
備えあっても、憂いあり。 [新隠居主義]
こうなった一因は長く続いたコロナ自粛生活にもあるのだけれど、それも5月8日からは新型コロナが「5類相当」に移行されたということで新しい段階に入ったことになる。と言ってもコロナがなくなった訳ではなくて感染者の数字をとらなくなったので本当はどの位流行っているか分からないといった方が正しいと思う。
何はともあれ少しでも動きがとれるようになってきたというのはありがたい事ではある。去年の12月、友人と二泊三日で房総半島へ行った頃はまだ冬の流行時期に差し掛かる頃でヒヤヒヤだった。万一旅先で罹ったら検査もままならないということで、友人と二人分の検査キットを含めたコロナ対策ポーチなるものをこさえて持って行った。
中身は、①予備のマスク、②体温計、③パルスオキシメーター、④タイレノール(アセトアミノフェン系解熱剤)、⑤新型コロナ抗原検査キット(医療機関用)その頃は、コロナ熱に効くといわれていたアセトアミノフェン系統の解熱剤が品薄になっていたので、以前買っておいたのがあってよかった。
結局その時はそのポーチのお世話にならなくて済んだのだけれど、最近になってそのポーチの出番が回ってきた。今月初め6回目のワクチン接種を受けて、また何の変化もないねぇ、などと言っていたら翌々日から39度近い熱が続いてひどい目にあった。今まで5回のワクチン接種は何の副反応もなかったけれど、6回目にして大当たりという感じ。
今まで副反応にあったことがないのでワクチンを打った日から類推するしかない。医者に行くにも5類になってからはどこも発熱を伴う症状については予約をしないと診てもらえない。巷では5類になればどこでも診てもらえるようになる、という説と逆に感染拡大を恐れてどこでも診てもらえなくなるという説の両方を耳にしたけど、実際の所は電話予約をして大抵の場合尚且つ自分で抗原検査をして確認してから来院という手順が多いようだ。
ぼくの場合は多分に副反応の可能性が強いし、ベッドから起き上がるのも無理だったので結局手元にあった解熱剤を飲んで熱が下がるのを待った。なんとか三日目に熱が下がってきたので医者に行かずに済んだのだけれど、今度はぼくと入れ違いにカミさんが39度近い熱を出した。
この判断は難しい。カミさんもぼくと同じ日にワクチンを接種したので副反応にしては日が経ちすぎているし、かといってぼくの副反応が伝染することなどありえないから、今度はインフルエンザかコロナかそれとも風邪かという難しい局面になった。
一晩中熱でうなされているカミさんの隣で、ぼくは頭の中で翌日のシミュレーションを繰り返した。朝になったらカミさんの熱を測って、パルスオキシメーターで酸素量を測って抗原キットでチェックしてから、近くのかかりつけ医の発熱外来に電話をする。ぼくのときは土日に当たっていたからクリニックはやっていなかったけれど、明日は月曜なので大丈夫なはずだ、等など。
幸い朝になってカミさんの熱は下がったのでぼくのシミュレーションは無駄になったけれど、なんだかまだまだ安心して暮らせる状況ではないのかな、と思い知った。


*実は、高熱の後遺症からやっとリカバーしかけて、週初めの夕方から突然首の痛みが出て、翌朝には激痛で起き上がれなくなってしまった。いわゆる「ギックリ首」(急性頚椎捻挫症)だと思うんだけど…。
今のところ手に強い痺れが出ていないので良かったのだけれど、痺れが出てくるようだと単なるギックリ首ではなく、頚椎の手術で入れている人工骨周辺の経年劣化異常の可能性があるので厄介。以前リハビリ病院のCTでも指摘されているのでなんとか持ちこたえてほしい。なんか今月は痛い痛い月間みたいな…。
またまたマンホールですが… [新隠居主義]
上の写真はバルト三国のラトビアの首都リガ(またはリーガ)にあるマンホールなのだけど比較的新しいもののようだ。余談になるけれどリガには色々な時代のマンホールが残っていて蓋フェチにはたまらない街だ。リガの人はソ連時代のものはもう見るのも嫌だという風情なのだけれど、足元にはちゃんとソ連時代のマンホールが残っていたりする。(そのうち一度サイドバーの方で特集したいなぁ)
それはともかくとして、上の写真のマンホールには「Pipelife」という文字と「EN124」それに「D-400」という文字が刻み込まれている。ぼくは街でこういう意味不明な記号や番号を見かけると、その意味が知りたくて夜も眠れなくなるという性癖があって…。旅先で観たマンホールについて旅から戻って色々と調べるのも楽しみの一つだ。
まず「Pipelife」というのはオーストリアに本社を置くマンホールの会社の名前で、同社はヨーロッパで手広く展開しているので時々見かけることもある。次に「EN124」というのはマンホールの欧州統一規格のことで、強制的ではないが今では広く使われているマンホール規格の一つだ。20世紀の末に当時ドイツで使われていたDIN1229(ドイツ産業規格)を発展させて作られたらしい。メーカーにとってはわが社のマンホールはEN124に準拠しています、といえばその品質を理解してもらえるのでありがたいはずだ。
ここからは、マンホールに興味のない向きにはつまらない話になるので、読み飛ばしていただけるとありがたい。次の記号「D」はその欧州統一規格EN124におけるマンホールの蓋のカテゴリーDにあたる、ということでこの蓋は「道路や公共の駐車場など、大型商用車と同等の荷重がかかる場所」に設置されるものでその基準をクリアしている必要がある。
次の「400」というのはカテゴリーDに要求されるいわゆる耐荷重性能が400kN(キロニュートン)以上なければならないということで、正確ではないけれどざっくり言うと40トンの重さに耐えるものであるということらしい。但し、この耐荷重性能の測り方は一点に荷重して測る場合や、複数の点に加圧して測ったり、落下荷重で測ったりといろいろあって、難しいらしい。EN124と同様のマンホールの日本での規格であるJIS A 5506でもその荷重性能の基準は異なるらしい。
この耐荷重性能で一番厳しいのはカテゴリーFの「空港や重工業用地など、航空機の滑走路に相当する荷重がかかる場所に使用する」とされる蓋で900kN、約90トンの耐荷重が要求されるらしい。(らしい…、が連発されているのは何分素人なのでちゃんとした知識もなく、後で誤りを指摘されて叱られた時の保険ですw)
上の写真はぼくの好きな街でドイツのGoslar(ゴスラー)という小さな街のマンホールだ。ゴスラーはローマ時代から銀の鉱山で栄えた街で現在は資源が枯渇して鉱山は稼働していないけれど、この街も含めて今は世界遺産に指定されている。で、このマンホールを見ると「えっ!」となる。
マンホールの統一基準には大事な性能指標として耐荷重性と同時に耐滑性能、つまり雨でぬれた時にどれだけ滑りにくいかという大事な機能を評価する項目がある。歩道であれば人や自転車の転倒、道路ではオートバイなどが特に雨の日はマンホールがすべっては転倒の危険がある。ある意味では即人の命に直結する機能である。
この写真のような坊さんの頭みたいにツルツルでは危なくてしょうがない。EN124ではこの耐滑性能の測定を英国式振り子試験(BPT)というゴム製のスライダーを取り付けた振り子を試験面上で移動させ、スライダーが発生させる摩擦力を測定する方法をとっている。耐滑性能の測定にはいくつか方法があってJISでは靴底も使ったりまた違った方法で測定している。また経年変化で耐滑性は劣化するのでその点も注意が必要だ。
これを考えたら上の写真はどう見たって耐滑性能では合格はしないと思うのだけれど、それは当然文化財保護の違った観点から保存使用をしているのだと思う。今日本はカラーマンホールが全盛だけれど、この耐滑性能という面でいったら果たして大丈夫かと思うようなデザインも時折見かける。
確かに日本では、国土交通省が都市計画や地域計画におけるカラーマンホール蓋の使用に関するガイドラインを制定しており、その中には安全性や機能性を確保することとはなっているけどデザイナーがどこまで理解しているかは定かではない。しっかりと安全な蓋を作って欲しいものだ。
下の写真は東京ならどこでも見かけるぼくも好きな東京都のマンホールで、表面には東京都のシンボルである桜とイチョウとユリカモメがデザインされているが、デザインのへこんだ部分に水が溜まったり、その水抜けの良さなど耐滑性を確保するために何度かデザインを変更した経緯もあるらしい。マンホールは一義的には都市の安全と人の命を守るものであるという視点は忘れられるべきではないと…蓋フェチとしては思うのである。


また右のカラーマンホールはウチの近所にあるものですが、足立区とオーストラリアのベルモント市は姉妹都市になっているので、オーストラリアの国鳥であるワライカワセミをデザインしたものです。同じようにベルモント市の黒鳥をデザインしたマンホールも隣に並んでいました。
Manholerあるいは蓋フェチ [新隠居主義]
ぼくは二十年くらい前から、国内外を旅行した時はその町々のマンホールを写真に撮っていたのだけれど、その度に一緒に行った人間や周りの人から何を撮っているのかと訝られた。そんな感じだったから撮った写真は殆ど他人にも見せないで自分一人で酒でも飲みながら悦に入っていたのだが…。
それが今ではインスタグラムなどのSNSではマンホール専門のアカウントが山ほどある。日本ばかりでなく世界中のマンホールが載っているけれど、その中でも最近は日本のカラーマンホールが目を引く。ご当地の風景や風物詩だけでなくアニメや漫画のデザインまである。各自治体もマンホールカードなどを作りそれを集めるのがまたマンホーラーの楽しみでもあるようだ。
ぼくの住んでいる街にもそこここにカラーマンホールがあって、日本でもカラーマンホールの導入が早い方だった。でもぼくはあまりカラーマンホールには拘らない。というかもっと生活の中に溶け込んだデザインや歴史的要素みたいなものに魅力を感じる。
考えてみるとぼくが最初にマンホールに魅せられたのはドレスデンなどドイツの歴史的な街並みの石畳に囲まれたマンホールの美しさだった。大抵がその街の紋章が鋳鉄に彫り込まれ、それが時間とともにいい具合にすり減っている。(2枚目の写真)
もちろんマンホールにはもともと期待される大事な役割があって、まずはそれを満たしてからの話なのだけれどその最たるものがその丸い形に現れている。中には四角いものもあるけれど、蓋の部分が穴の中に落ちないということを第一に考えれば丸い必要がある。またman-holeというように人が入れる穴でなければならないので丸い方が入りやすいということもある。
さらに下水などが豪雨などでオーバーフローした時にマンホールの蓋が飛ばないように水を逃がす機能も必要だ。そこら辺の機能は昔のより今のマンホールの方が良くできている。下の3枚目の写真はぼくの好きなドイツのバンベルクの特徴的なマンホールで石も使ったデザインが素敵だし水を通す穴もちゃんと開いている。
マンホールは時の流れも教えてくれることもある。バルト三国のラトビアの首都リガにはソ連時代のマンホールが結構残っていてそれが今でも使われている。(下のマンホールリスト写真の2枚目の「K」の彫られているマンホール) またバルト三国のエストニアに行くとフィンランド製のマンホールが多く、ここはある意味ではもう北欧経済圏なんだなぁという感じもする。
最初の写真はリスボンの裏町で撮ったマンホールの写真なのだけれど、サンダルを履いた太っちょのおばさんの足元と何気に可愛いマンホールの模様のアンバランスが楽しくて思わず撮った。生活の中のマンホールという雰囲気が好い。ぼくはマンホールカードを集めるような熱心なマンホーラーではないけれど、これからも素敵な蓋と出会えるのを楽しみにしている。

年年の桜 [gillman*s park]
気が付いたらもう半月以上も公園散歩に行っていない。一度カミさんに付き添われて公園に行ったけれど途中でギブアップ。もう少しリハビリしてからでないと…、と思い知らされた。昨日医者の帰りに公園の脇を車で通ったらもうソメイヨシノも満開みたいだ。明日足の調子が良ければ公園の桜の所まで行ってみようと思っているけれど、朝起きてみなければ分からない。
お散歩カメラもほとんど触っていなかったけれど、今見てみたら河津桜の咲いたころの写真が整理しないでそのままになっていた。ちょっと前なのにもう何か凄い昔の過ぎ去っていった春のような感じがする。この歳になると年年の桜は特別な意味を持っている。その年も生き延びた証みたいな…。
■さまざまの事 おもひ出す 桜かな (松尾芭蕉)

復興の道筋 [新隠居主義]
2011年3月11日の午後3時ちょっと前、ぼくは東京の自宅の二階にいたのだけれどいきなり激しい揺れに襲われ立っていられなくなってデスクの下に潜り込んだ。すぐ目の前のテレビが棚から床に落ちて凄い音を立てる。母とカミさんは一階に居たのだけれど降りてゆくことができない。揺れはかなり長く続いた。揺れが収まってやっと一階に降りるとまた大きな余震がやってきた。
少し気を落ち着けてテレビを観ると、東北が震源地らしいという事がわかり時間とともに津波の生々しい映像が送られてくる。その中で街が津波に飲まれてゆく最も恐ろしい光景に被せて「南三陸町全滅か」というアナウンスが耳に入ってきた。南三陸町という地名を聴いてカミさんが昔から馴染みのある南三陸町の鮮魚店の事を思い出させてくれた。母の時代からそのお店からは季節ごとにワカメなどの海産物を取り寄せていたのですぐにその店の事が心配になった。
その店の社長や家族の無事を知ったのは震災から少し時間が経って店のブログにそのことが載ってからだった。関係者一同は無事だったが、店舗も工場もそして自宅も全て津波に流されたという意味では悲惨な状況であることは変わらなかった。
翌年の春、その鮮魚店も参加する組合方式の復興ファンドが立ち上がることになったので何かのお手伝いが出来ないかと現地に行き、社長にもお目にかかったのだけれど、実際に行ってみると思ってはいたが一年近くたっても想像以上の津波の被害規模を目にして呆然となった。
あの大震災から12年の間その鮮魚店の社長も中心人物の一人になって懸命に復興に取り組んできたお陰で形としては戻りつつあると思うが、復興ファンドの経過を見ていると必ずしも順調ではなく快復できずにいる企業もあるようで、その道は決して平たんではない。
悔やまれるのは復興オリンピックと銘打ちながら結果的には被災地の復興資材の調達を遅らせ、世間の目を逸らすようにして行われた東京オリンピックが今になってさらに金まみれ、利権まみれのものだったことが露呈したことだ。さらに追い打ちをかけるように復興税の一部を防衛費に廻そうなどという目論見まで囁かれている。
東北大震災の復興のありようは、これから首都圏直下型地震や南海トラフ地震など巨大な地雷の上に住んでいるようなぼくら全国民にとっても他人ごとではない。巨大地震からの復興というスキームを確立しておくことはこれからの日本を考えるうえでも欠かせないことだ。しっかりと見つめ検証してゆくことが大切だと思う。


and also...
麗しの国 トルコ [NOSTALGIA]
美しい絵葉書に
冷たいコーヒーがおいしい
ここにいま 私はいる
記憶の中でなら
(谷川俊太郎 詩集『旅』より)
その間に世界もそしてトルコ自身の状況も大きく変わってしまった。旅した外国の中ではトルコは写真を撮るのがとても楽しかった国の一つだ。ぼくの中では今でもトルコは麗しの国のままなのだけれど…。

あれは三年前… [新隠居主義]
コロナ前は冬か春先には毎年沖縄に行っていた。でもその年は田中一村美術館に行きたかったこともあって奄美大島で友人と落ち合って一週間ほど島を旅することにしていた。南国であることは共通しているけれど奄美は沖縄とはまた違った趣きがある。
旅に出るとぼくだけでなく大抵そうなんだと思うけれどあまりニュースを見たりしない。もっともその時は内地でもまだニュースにはなってはいなかったみたいだけれど、後で知ったのだが1月15日と言うのは日本で初めて新型コロナの患者が認識された日らしい。新型コロナ日本上陸の事が初めてニュースになったのはいつかは知らないけれど、とにかく奄美にいるときには思ってもいなかった。
奄美での最後の日は名瀬のホテルに泊まったのだけれど夜になってのどの痛みがひどくて中々寝付かれなかった。結局1月21日には飛行機で東京に戻ったのだが、帰りの飛行機はLCCで中国人の観光客やらで機内は満席に近かった。で、東京に戻った翌日に高熱を出して完全にダウンした。医者に行ったらインフルエンザと診断されたが、その頃マスコミでは新型コロナの話題でもちきりだつた。
新型コロナの日本での発端は中国人観光客だの云々…。とっさに帰りの飛行機の状況が頭に浮かんだが、その時はまだ新型コロナの検査体制も全くなくてインフルエンザと言われたのでそれを信じるしかなかった。正直言って回復するまでは気が気ではなかった。そう、あれは三年前…。もうそろそろ解放されたい。


キッチンの見学者 [猫と暮らせば]
最初は良くぶつかっていたキッチンでのカミさんとの動線も何となく交差しなくなったのと、自分で書いておいたメモを見ないでも作れるようになってきたメニューも増えてきたというのが進歩といえば進歩かも知れない。
新米料理人に対して今でも時折カミさんの厳しい目が光ることがあるけれど、それ以外にも目を光らせている者がいる。キッチンの見学者というかぼくは厳格な調理検査官(strict cooking inspector)と呼んでいるけれども、毎回のように調理をしているぼくの目の前で目を光らせている。
その内レオも何だろうと思ってか、近づいて来るようになった。レオが近づいて来る理由はハルのように好奇心からではなくて、自分に隠れてハルが何か美味しそうなものを貰っているのじゃないかという気持ちからなのは、その態度でみえみえなのだけれど…。
猫たちは先にご飯をもらっているのでハルは純粋に好奇心で見ているのだが、レオは調理の肉なんかがまな板に乗ると、当然自分の分け前もあるものだと思い込んでソワソワしだす。手は出さないがこちらは包丁を持っているので気が気ではない。一日も早くこの厳しい二人の調理検査官に合格をもらって一人前の主夫になりたいものだ。



正義の対決 Akihabara [Ansicht Tokio]
今でも月一位いは行っているかもしれないけれど、それは駅の昭和通り側にあるヨドバシカメラが主で、昔のように駅の反対側の旧電気街の方に足を踏み入れることはめっきり少なくなってきた。ぼくはオタク系ではないけれど、スターウォーズやバットマンやマーベル系のフィギュアも好きで…、ただそこらへんも含めてぼくの関心領域のカメラ、写真関連、オーディオ、フィギュアそしてパソコン関連という領域がその大型店一店で満たされるというのが自然とそこに足が向いてしまう大きな理由かもしれない。
そのヨドバシカメラの店頭のイベントスペースで見かけたのがこの写真の等身大のフィギュアで、それは当時封切られた映画、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016公開、原題:Batman vs. Superman: Dawn of Justice)でそのプロモーションイベントだった。面白いのでその時持っていたスマホで撮ったのがこの写真なのだけれど、残念ながら映画自体は観ていない。観ていないので、ここからは勝手な想像なのだけれどバットマンもスーパーマンもどちらも正義の味方なのでその二人が対決するということは二人の正義の捉え方が違うことから起きるのだろうと…、自分の正義を貫くために。
しかし映画解説を読むと、そうではなくて実際にはスーパーマンは大事な人を人質に取られて、そしてバットマンはそそのかされて、というどちらも正義のための戦いではなく、意思に反して戦わされていたという事なのだけれど…。しかし歴史を見ると、どちらも正義を標榜して戦うのはよくあること、というよりは戦争はいつだってそういう形で行われてきた。
正義に関する難しいことはぼくにはよく分からないけれど、マイケル・サンデル教授の「これからの正義の話をしよう」はとても示唆に富む著書だった。もちろんそこに明確な結論というものがあるわけではないけれど、そこではいわゆる正義すなわちコミュニティの善というものにもっと注意を払う必要を説いているのだと思うが、それは主にいわゆる社会正義のようなものに関わってくるのではないか。
ぼくは正義とは本来、自由だとか、人権だとか、個人の尊厳だとか、そういうものについてのあり方なのだと思うけれど、どうも国家が「正義」ということを言い出し始めるとそれは、民族の誇りだの、自国の繁栄だの、自国文化の優位性だのへと、何か違うものとすり替えられてゆくように思えてならない。今も世界中で多くの人を巻き込んで正義の対決が行われているけど、国家が正義、正義と声高に言い出し始めたら国民は冷静に身構えて用心した方がいい。その内、気が付けば国民が逆らえない正義が独り歩きしているかもしれないから。


都会の谷間 [Ansicht Tokio]
覆いかぶさる言わば精神的な威圧感とは別に、ぼくは空気の流れの不自然さも気になる。いわゆるビル風というのだろうか、突然強い風が吹いてくることがある。鳩たちはその風を捉えて急上昇したり急降下したりしている。彼らにとってはビルだろうと山だろうと谷間であることに変わりはないとでも言っているようだ。
そのビルの谷間に鳩たちのたまり場のような一画があって、そこは風の通り道から外れているのか多くの鳩が羽を休めている。鳩たちは近くの新宿御苑あたりから来たのか時折一斉に飛び立って上空で方向を見定めるように群れになって空を旋回しては彼方に消えてゆく。
その昔伝書鳩は軍部の連絡や新聞報道の大事な使命を担っていた。明治時代に朝日新聞が記者が報道現場に伝書鳩を連れてゆき、現場で書いた記事や写真のフィルムを伝書鳩につけた筒に入れて本社に送るという方法を開発した。
それは1960年代当初まで続いたということだけど、そういえばぼくにも思い当たることがある。高校生の頃、友達の父親が当時まだ有楽町にあった朝日新聞の本社に勤めており、そのつてで毎週朝日新聞の屋上にあった講堂で行われていた合気道の稽古に通うことになった。
ぼくの生来の飽きっぽさで結局一年くらいで辞めてしまったのだけれど、当時稽古の合間に一休みするために講堂の外にでるとそこには鳩舎があった。そこからは多くの伝書鳩のクルクルと鳴く声が聞こえてきた。それが丁度60年代の初めころだったので、そこに居たのは長い使命を終えた鳩たちだったのだと思う。
その鳩たちが最後はどうなったのかは知らないが、レース鳩に転身したり、あるいはここに群れている鳩のように市井の鳩として暮らしていたのかもしれない。ビルの谷間を自由に飛び回る鳩たちを見ていると嫉妬めいたものを感じることがあるけれど、ぼくは極度の高所恐怖症なので鳥になったら飛び立つたびにいつもビビッていなければならない。鳥になるとしてもせいぜいが鶏か鶉(ウズラ)。大空を舞う鳥にはなれないなぁ。


寒椿 [gillman*s park]
■ 寒椿の 紅凛々と 死をおもふ (鈴木真砂女)
素の姿になった樹々の上に広がる厚い雲とその裏側で光を放ってる白い太陽。冬の一番美しい光景に思える。丘の中腹の寒椿の花も数輪を残して盛大に散った花びらが艶やかな姿を見せてくれる。実はいまだに寒椿と山茶花の区別がつかないのだけれど、まぁ、合わせて冬椿と思っていればいいのか…、位いの知識しかない。
寒椿の散った様を見ると何だか気持ちがワサワサとする。怪しいような美しさがあって鈴木真砂女の句のようにどこか死を想わせるような…。ぼくらの、と言っては語弊があるのでぼくの中ではこの美しさは死と隣接している感じがするのだ。
ぼくに限らず日本人の美意識にはどこか果ててゆく美しさをこよなく愛する傾向があるような気がする。桜もそうだけれど、その盛りよりも盛りを過ぎて散り行くさまに独特の美を感じてしまう傾向があるのではないか。ぼくの中にもそういう心情がある。

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。
といったような美意識が日本文化の底流に流れているのかもしれない。これは日本人の強さでもあり、同時に弱さでもあるかもしれない。日本文化の先人達の美意識をみるに、万物の有限性を認識しそれさえも愛でてゆく心情は深く人生を味わい、生を慈しむ原動力にもなっていると思う。しかし同時にそれに酔いしれてしまえば滅びの美学のような危うい方向に行きかねない要素をもはらんでいる。
先の戦争に限らず為政者は日本人のそういう心情を利用し、それに付け入らんとしたことも確かだ。古くは忠臣蔵から戦前の軍歌「同期の桜」の"…みごと散りましょ国のため"のような恣意的で短絡的な潔さは結局誰の人生も幸せにはしない。これからの日本人に必要とされるのは、もののあはれを愛でる心情と一方では何があっても生き抜くという強かさ(したたかさ)の両方を兼ね備えることなのかもしれない。

あれから一年 [猫と暮らせば]
1月10日の今日はモモが死んで一年の日なので谷中のお墓にカミさんとお参りに行く。去年縁あってぼくとカミさんと猫たちが入れるお墓を谷中のお寺にもうけた。家から近いので思い立ったときにいつでも行けるのが好い。今日は天気は良いけど強く冷たい風が吹いている。
カミさんと谷中の御殿坂を登りながら去年のことが頭を過った。見つかった時には末期ガンということだったのだけれど、もっと早く気が付いてあげればよかったんだけど…辛い思いをさせちゃったな。救いは本当に苦しんだのは一晩だったということくらいかな。
ここは谷中墓地が近いので坂の上のコンビニではいつもお花を売っている。赤いカーネーションを買って、お寺さんでお線香を貰いお参りをする。墓石の上にモモの写真を立ててお線香をたむける。ウチのお墓の前に小さな東屋があるのでいつもそこで持ってきたお茶を飲んで一休みする。ちょっとため息みたいなものがでる。
帰りはいつものそば屋によって精進落とし。なんだかなぁ、モモの墓参りにかこつけてそばを食いに来るようなものかもしれないと、一人で苦笑い。カミさんはちいさなアナゴ天丼と小もりそばのランチセット、ぼくはいつものように卵焼きと最後に〆のもりそばだ。いつもは二人で各々グラスビールを頼むのだけれど、今日は瓶ビール一本を頼んで二人で分けて飲んだ。
ぼくは頚椎症で右手の力が落ちて店の割りばしではそばを持ち上げられないので、最近は使いやすいマイ箸を持ち歩いている。手元の処が大分太くなっていて力が入りやすい。何でもないように見えても箸先でそばを持ち上げる動作がぼくにはとても難しくなっているし、天婦羅なんかも持ち上げられない。
「マイ箸を持ってきているので…」と言って店の顔なじみのばあさんに置いてあった割りばしを返すと、マイ箸を見て大きな声で「あら~、ハイカラじゃないの」とばあさん。おかげで、ちょっと気持ちが上向いた。
and also...
晩年を歩く [gillman*s park]
丘の上で凧あげをしていた一家、というかしようとしていた一家。丘の上でも風が無いのでお父さんが悪戦苦闘しているけど中々上がらない。家族は少し飽きてきた模様。やっと風を捉えて凧が少し舞い上がった時、息子が駆け寄った。お父さんはちょっと誇らしげだ。ぼくはこういう小さなドラマが好きだ。
公園は少し正月の空気を残しながらも平素の土曜に戻りつつある。ぼくももとに戻さねば。散歩しながら、ふと「晩年」という言葉が頭に浮かんできた。ああ、自分は今、晩年を生きているんだ、と。
晩年を英語で言うと"Later years"と言うらしい。そのままだなぁ。ドイツ語にも"spätere Jahre"という全く同じ表現もあるけど、一方"Lebensabend"という言い方もある。直訳すれば「人生の黄昏(たそがれ)」みたいな。そうか、ぼくは今黄昏の中を歩いているのだ、昼間なのに…。
ぼくは勤め始めた若い時から早めに隠居したいと思っていたけれど、特に何がやりたいということではなかった。しかし辞めてみてから若い頃の言わば恩返しにヨーロッパで日本語を教えたいという夢がでてきて、それなりに勉強もし日本語教育能力検定試験も受かり大学院でも学んだのだけれど、結局母の介護もあってその夢は諦めざるを得なかった。
その後母の認知症が強くなって大学の講座で日本語を教えていたのも辞めたのだけれど、その前からおこなっていた日本語学校での活動は二十年近く今も続いている。夢の形は変わったけれど、後悔はしていないし母を看取ったことで今まで見えなかった世間の色々な景色を見ることが出来たことが、今の自分の生き方に大きく影響していることを想うとそれで良かったと思っている。
自分の毎日を見てもとても「大晩年」という訳にはいかないけれど、苦労を掛けたカミさんと一緒に毎日飯が食えるだけで大いに満足しているし、夢というほどではないが写真をはじめやりたい事、知りたい事はまだまだ山ほどある。最後の時に高木良の小説「生命燃ゆ」の主人公の台詞のように「未練はあるが、悔いはない」と云えれば、それがぼくにとっての大晩年ということになるだろうか。
■ 少年や 六十年後の 春の如し (永田耕衣 / 句集「闌位」より)


公園散歩初め [gillman*s park]
いっとき、冬が嫌いになった時期がある。特にまだ夜も明けぬ暗いうちに家を出て出勤していたサラリーマン時代には、冬の朝の冷気が恨めしかった。そのあとに控えている電車での押しつぶされそうな着ぶくれラッシュも憂鬱の種だった。
もちろん今でも寒いのは嫌だし、歳をとると冬は筋肉が硬化して朝起き出すのも冬は辛い。それでも公園に来て素になった樹々の凛とした姿や飛来する野鳥を見るのは他の季節にはない楽しみだ。空の青を映した池の水面に日光が当たって光の粒が躍っている。
いつも一休みするベンチの脇の木の枝に取り残されたようなセミの抜け殻。夏の間あんなに見られた蝉の抜け殻も鳥に食べられたりでこの季節になると大方のものは姿を消すのだけれど、枝の目立たない処に隠れるようにポツンとしがみついている。「冬の蝉」という言葉が浮かんできた。確かそんな歌があったっけ。
■人古く 年新しく めでたけれ (山口青邨)

