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冬来たりなば… [gillman*s park]

冬来たりなば…
 
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 新しい年はいきなりの衝撃で始まった。元旦の能登半島での地震、津波そしてそれに続く大規模火災で正月気分はいっぺんに吹き飛び、それに続いた羽田の飛行機事故に何だか前途多難の一年の幕明けを感じたのはぼくだけではないと思うのだが。

 尤もぼくの場合年末から年が明けてもレオの事で手いっぱいで今年は新年という感じも薄かったのだけれど、そこへもってきて今週、末期ガンと戦っていたいちばん仲の良かった親類が亡くなり誠に辛い一年のスタートになってしまった。「新春」という言葉がなんだか白々しく響く日々が続いている。
 

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 そんな日々でもリハビリのための公園散歩は欠かすことができないのだけれども、こういう時は散歩しながら考え事をしている自分にふと気づくことがある。もちろん散歩は考え事には適しているので、いつもは考え事をすることそれ自体は普通の事なんだけど、考え事をしている自分に気づいてしまうというのは、そうあることではない。

 昨日も散歩したのだけれど、寒さのためか公園には殆ど人影もない。人っ子一人いないとはこういうことだな。寒風吹きすさぶ公園は鈍色の空に白い太陽が浮かんでいかにも寒々としている。それはそれで心にしみる光景ではあるけど…。

 散歩をしているうちに段々と内に閉じこもっていた心が外の景色に向いてくるのがわかる。もちろん見えているのは現実の風景だけではなく、心が投影された心象風景も過っているのだと思うが…。それでも、冬の公園は実にいい。とりわけ冬の公園の夕暮れは、静謐で身を清めるように清冽で、それは桜が咲き乱れるあの季節にいささかも劣るものではない、と。

 考えてみたら、遠くに行けなくなって、速く歩けなくなって、逆に今まで見えていなかったものが少し垣間見えたような気がする。それが何かはまだ言葉で言えるほどはっきりとは形をなしていないが、今はスマホでしか撮れないけど…、またちゃんとしたカメラが持てるようになったらそういうものを撮っていきたい。冬来たりなば…あと、一息。
 
 ■ 寒椿の 紅凛々と 死をおもふ (鈴木真砂女)
 

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 *秋から冬にかけての公園は、花の咲き乱れる春夏とはまた違った風情があります。以前作った公園の四季、秋冬編のスライドショーをYouTubeに載せましたので、よろしかったらご覧いただけると嬉しいです。
 

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銀杏【イチョウ/ギンナン/ギンキョウ】 [gillman*s park]

銀杏【イチョウ/ギンナン/ギンキョウ】
 
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 昨日は眼底検査のためかかりつけの眼科に行ったが、瞳孔を開く検査をするため車ではいけないので歩いてゆく。途中、クリニックの近くの公園に銀杏並木があるのだけれど黄葉も盛りを過ぎて一面の落ち葉。もう秋も終盤なのかなと…。歩道の黒々としたアスファルトとそこに落ちた黄色い銀杏の葉の対比が見事だった。

 先の手術の際にずっとうつぶせの姿勢で手術を受けていたので、大丈夫だとは思うけど糖尿もあるので一度眼底検査を受けておいてくださいと言われていたのを思い出して行ったのだけれど、まぁ大丈夫そうだった。薬で瞳孔を開くので帰り道はサングラスを付けていても眩しくてしょうがない。

 午後になって視界の眩しさが落ち着いたので公園の方へ行ってみたら、そこの銀杏並木も盛大に落ち葉が敷き詰められていた。この公園の紅葉の光景は主にメタセコイアの並木と池に沿って植えられている落羽松の褐色というか最盛期はまさにスカーレットの紅葉が特徴的で、そこにクヌギや桜そしてナンキンハゼなどの紅葉が彩を添えているが、公園の一角には銀杏並木もあってよく見ると変化に富んでいる。
 

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 イチョウというと、その漢字なのだけれど「銀杏」という漢字を見てもどうこねくり回しても「イチョウ」とか「ギンナン」なんて読み方は浮かんでこない。ということで調べてみると中国語でイチョウのことは「鴨脚樹」と書いて「ヤァチャオ」と読むのでこれがイチョウになったらしい。またギンナンは銀杏の漢字の宋音での読み方「ギンアン」からきているらしい。

 イチョウは江戸時代にはその漢字「銀杏」のとおり「ギンキョウ」とも呼ばれていたらしい。実はイチョウは英語でもドイツ語でも「Ginkgo(ギンコ)」なのだけれど、これはその日本語から入ったものらしい。元禄年間にオランダ商館の医師として二年ほど日本に滞在していたドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)はヨーロッパでは既に絶滅したと考えられていた古代植物イチョウが日本に生えていることを発見し紹介した。

 そのさい当時の日本での呼び名ギンキョウで紹介したのだけれどそのスペルがGinkgoとなっていたのでギンコという読みになったのだが、これにはスペルの書き間違え、つまりギンキョであれば本来はドイツ語のGinkjo(ドイツ語発音ではy=j)とするところを筆記体では紛らわしい"j"を"g"と間違えたのだ、と。またそうではなくて元々ケンペルの出身の北ドイツではGinkgoと書いて「ギンキョ」と発音していたのだという説もあるらしい。いずれにしてもあのアヒルの脚みたいなイチョウの葉にも面白い歴史があるのだなぁ。
 

 ■ 銀杏ちる 兄が駆ければ 妹も (安住敦)
 

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*鎖国をしていた江戸時代は例外として長崎の出島でオランダとは通商をしており、出島にはオランダ人が居住していましたが実際にはオランダ経由でドイツ人も居住しておりこのケンペルもシーボルトもドイツ人でしたね。

 ケンペルはシーボルトより130年も前に来日しており、初めての本格的日本紹介文献である『日本誌』(The History of Japan)を著しました。そのケンペルがイチョウを、そしてシーボルトがアジサイを世界に紹介するなど、日本にとっての世界への窓として働いていたんですね。
 


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週末の公園 [gillman*s park]

週末の公園

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 ■ここ

 どっかに行こうと私が言う
 どこ行こうかとあなたが言う
 ここもいいなと私が言う
 ここでもいいねとあなたが言う
 言ってるうちに日が暮れて
 ここがどこかになっていく

 (谷川俊太郎 『女に』より) 
 

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 急に気温が下がったので初めてダウンジャケットを着て散歩に出た。

 主治医から許可が出たので昨日からリハビリセンターで本格的にリハビリを始めた。結構きついメニューで最初は仰向けに寝て片足を上げたまま腰を浮かす運動なのだけれど、二週間ちょっとの入院で筋肉が落ちているので、1セット目からみごとに太腿の裏側がつった。

 それからふくらはぎの筋肉に電気をかけたまま、スクワットとつま先立ち。それぞれ20回を3セットづつ、と理学療法士の先生はさりげなく言うけど…。でもまぁ、この先生とは付き合いが長いのでぼくの限界をしっているからやるしかない。最後はフィットネスバイクを25分やってあがり。気を付けて帰ってくださいね、の声をあとに病院をでる。

 週末の朝の公園は人々の営みが見えてぼくの好きな時間だ。はやく公園の丘の上まで行けるようになると良いのだけれど。最近の週末の公園で目に付くのはファミリーが多いことだ。テントを持ってきて一日ゆっくり過ごす人も増えている感じがする。コロナ禍は社会の色々なものを痛めつけ破壊していったけれど、一つだけ良いことは家族というものの存在に目が向いたことかもしれない。

 旅行や人ごみのテーマパークなどには行けないので近場の公園に行って家族で過ごす。そこにはメリーゴーラウンドもジェットコースターもシンデレラ城もないけれど、そういう仕掛けで遊ばせてもらうのではなく、自分たちで遊ぶという楽しみと喜びを教えてくれたのかもしれない。それがライフスタイルになりつつある人たちが週末の公園には増えてきている。
 

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 *今はステッキをもっているので写真はスマホだけだけど、フリーに歩けるようになったらまたお散歩カメラを持って歩きたいです。

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秋の日の… [gillman*s park]

秋の日の…
 
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 ■ 秋の歌 

 秋の日の ヴィオロンの
 ためいきの 身にしみて
 ひたぶるに うら悲し。

 鐘のおとに 胸ふたぎ
 色かへて 涙ぐむ
 過ぎし日の おもひでや。

 げにわれは うらぶれて
 ここかしこ さだめなく
 とび散らふ 落葉かな。
 
   ヴェルレーヌ(上田敏訳)


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 上田敏の訳詞はテンポがいいので好きなのだけれど、このヴェルレーヌの詩には特別な思いがある。というのは1968年に公開された映画「史上最大の作戦 (The Longest Day)」のワンシーンにこの詩が使われていたからだ。

 この詩は第二次大戦中BBCのフランス語放送がフランスのレジスタンスに対する暗号として流していた。つまりこの詩の冒頭が流されれば近いうちに連合軍の大規模な上陸作戦が行われ、そしてそれに続くフレーズが流されれば作戦は48時間以内に決行されるという意味であった。

 映画のシーンではフランスのレジスタンスのメンバーが真剣な面持ちで一台のラジオを囲んで聞き入っている。そこにこのヴェルレーヌの詩の朗読が流され、それを聞いたレジスタンスの面々が歓喜する。

 この映画の名シーンと言ってよいと思うのだけれど、考えてみれば時代は変わってラジオがVPNを経由したSNSになってはいるが、今でも色々な地域で同じように抑圧された人々が、パソコンやスマホを食い入るように見つめ何かの合図を待っているのかもしれないのだ。息をひそめて…。
 

 先週末から公園散歩を再開した。まだ距離は全然歩けないけれど痛みがないのが助かる。手術の傷にフィルムがまだ貼ってあるので風呂はまだ、シャワーを浴びている。昔頸椎を手術した時はホッチキスみたいなもので縫合してあったのだけれど今はテープらしい。

 今日は風が冷たいので身体が冷える。しばらく来ないうちに公園のピラカンサは赤くなり、落羽松も褐色の葉を落とし始めている。かと思えば変な陽気に面食らったのか桜が咲いている木もある。外の空気を吸うとそれだけで元気をもらえる気がする。
 

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 *ずいぶん昔になりますが、この映画「史上最大の作戦」で陸軍大将を演じていたドイツの俳優クルト・ユルゲンスと一度だけ話をしたことがあります。映画「眼下の敵」の名演でも評価されていた彼は最も軍服の似合う役者と言われていました。

 1972年の冬にバンコックから台北経由で羽田にゆく同じ飛行機に乗り合わせてトランジットで台北に降りたときに待ち時間に少し話すことができました。女性を同伴しておりこれから札幌オリンピックを観に行くのだと言っていました。気さくな反面、威厳に満ちた感じでした。
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晩夏光 [gillman*s park]

晩夏光

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 晩夏という言葉は情緒があってぼくも好きな言葉だけれど、歳時記や暦の上では、晩夏とは立秋(今年は8月8日)の何日か前から処暑(しょしょ)を過ぎた9月初め頃までとされているらしいが、何だか段々と、と言うより急速にぼくたちが今体験している季節との乖離が広がっている感じがする。

 本来は頭の中で、過ぎてゆく夏の体験をリフレインしつつ晩夏の情緒に浸りたいところだけれど、日中には34度を超すようではそんな気にもなりにくい。とは言いながらぼくが公園散歩の中でずっと感じてきたのは季節の変化というものは、例えば夏であればまさに盛夏の時からその兆しがみえているという実感だ。

 昼間のうるさいような蝉の声がある一方で、早朝に散歩するとそこここの茂みから虫の集く声が聞こえてきたり、でも昼間はまだ蝉の天下だ。また写真を撮っていると、あ、光に力がなくなってきたなぁ、とか…。矛盾するかもしれないけれど、季節の移り変わりはシームレスに動いているという感覚と、あ、今日からはっきり秋になったなという感覚と、その両方をいつも感じている。

 先人たちもそういう感覚があった、というより自然と共に生きていたから今のぼくらの数倍そういう感覚は鋭かったのだろうと思う。「晩夏光(ばんかこう)」という言葉も、夏のある日ふと気が付くと日の光が盛夏の時ほどの力がないということに気づいて季節の移ろいを感じるということなのだ。
 
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 ということで今年の夏は今しばらく続きそうだけれども、現代日本人にとって夏は祈りの季節でもある。原爆投下、終戦という出来事そしてお盆さらにお彼岸(歳時記的には秋だが…)と頭を垂れて祈ることの多い季節だ。ぼく自身についても父も母も九月に他界している。夏になるとその時のことが頭をよぎる。

 この歳になると桜の季節を迎えるとああ今年も生き延びたなぁ、という感慨が湧いてくるけれど、目の眩むような暑さの夏が終わろうとする晩夏には、暑さを乗り切った疲れとそれでも親や先人のおかげで今日も生かされているという感謝が湧いてくる。

 ■祈りとは 膝美しく折る 晩夏 (攝津幸彦)
 

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 gillman*s  Park (Youtube)
 
 

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*この夏公園散歩を再開した時、いつも散歩の最後に休憩する湖畔のベンチからの光景をスマホの動画で撮りました。今はここがぼくの散歩の目的地です。早くここからさらに丘の上まで行けるようにとリハビリをしています

**晩夏光としての句は角川春樹の下の句が好きです。
 ■存在と 時間とジンと 晩夏光 (角川春樹)

and also...

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盛夏 [gillman*s park]

盛夏

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 元来、盛夏と言えば梅雨明けから八月中旬くらいまでで、今頃の時候は残暑とか晩夏とかの表現がふさわしいのだろうが、今年はどうしてどうしてまだ盛夏、それも夏の真ん中みたいな気になる。うんざりだけれどこればかりはどうすることもできない。蓮池をのぞくと池の上にはまさに盛夏の空が写りこんでいた。

 その日は作夜来の雨があがって台風一過とはいかないが、晴れて少し涼しい風が吹いていて気持ちいい朝だ。季節は時には牙をむいて襲って来るけれど、人に力も与えてくれることがある。多少苦しい思いはしても毎朝この蓮池に来るのが楽しみで、その度に季節に力を貰っているような気がする。

 池の畔の落羽松の林にはたくさんの気根が地上に顔を出しているので、よちよち歩きの自分は気を付けないと足をとられる。昨日の雨で、大分水位が下がっていた池も元に戻って、通路にはそこここに水溜りが出来ている。木漏れ日の向こうの小さな丸い空。
 
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 半年近く途絶えていた公園散歩を半月くらい前にやっと再開したけど、なかなか思うようにはいかない。早朝散歩に出て痛みをこらえながら今日はやっと池の北側のベンチ迄辿り着いた。ここはぼくの以前の散歩コースの最後の休憩処だったのだけれど、今のぼくには辿り着くべき一つの目標になっている。調子がいまいちの時は此処にも辿り着かない。

 それもショートカットのズルをしての到着で、今までは渡らなかった信号を渡って池に向かう。それでも、以前通りの光景と静謐な時間に浸れるのはほんとうにありがたいことだ。池の向こうに広がる空に真夏の証しの雲が浮かんでいる。お散歩カメラはまだ持って歩けないのでスマホで我慢だけれど、それでもシャッターを押す喜びは蘇って来る。

 今まではほんの目と鼻の先にあると思っていた場所がどんどん遠ざかっていった。公園も今までは入り口まで数分で行けたのが、今はまずはその入り口までたどり着くことが大変な作業だ。やっと今までの散歩の終着点である池の畔のベンチ迄辿り着けるようになったけど、それは何度もの休憩を挟みながら痛みとの妥協点を探りつつの道のり。でもここのベンチはぼくにとってそれだけの価値がある。毎朝、この静謐な空気に出会えるというのは、それだけでも感謝しなければならない。この光景に元気をもらって前を向いてリハビリに励みたいと思っている。


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 ■ 鯉池の 底に鯉の歯 夏旺ん (辻桃子)


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 *前の日の晩雨が降って、明日の朝は雨だろうと勝手に決めて寝たのだけれど、朝起きたら晴れていました。散歩をサボれると思ってちょっとがっかりしたけれど、ステッキをついて家を出だします。出るまでは億劫だけれど蓮池の処までくれば来て良かったと思うのだけれど…。

 腕にはめているスマートウオッチが何度も耳元で「心拍数が早すぎます、呼吸を整えて下さい」と連呼します。少し立ち止まってから息を整えてまた歩き出す。以前の歩幅は65センチくらいだったが、今は45センチくらい。よちよち歩きのレベルかなぁ、と。まぁ、前を向いている限り何とかなると思っていますが…。


 

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五月闇 [gillman*s park]

五月闇(さつきやみ)
 
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 ■ 切りこぼす 花屑白し 五月闇 (長谷川櫂)

 もう何か月も公園に散歩に行けていないので、自分の中から季節感が段々と薄れているのが感じられる。と言っても闇雲に季節感を取り戻そうとしている訳ではないけれど、それでも季節感に触れたいという気持ちがあってか最近はよく手元の俳句歳時記をみることが多い。

 

 母の使っていた俳句歳時記が何冊かあるのでそれをよく覗いていたけど、そのうちの一冊は如何にも字が小さい。母も晩年はそれはよく見えなかったんじゃないかと思う。ぼくもそう言う歳になったという事だな。

 

 角川版の四季別で分冊になっている歳時記のデカ文字版があるので今はそれをよく見る。そのうちの「夏」巻は電子書籍のKindleでも買ってみたが、やっぱり歳時期は紙の本の方が親しみが持てる。Kindle版の方はまた旅行に行けるようになったら旅先で読んでみたい。

 

 歳時記を見ながらつくづく感じるのは、季語というのは日本人の季節感の精髄のようでどの言葉にも言霊が宿っているという事だ。俳句は詠めなくても、その言葉に出会うだけでも何か心の琴線に触れてくるものがある。

 

 ぼくの好きな夏の季語の一つに「五月闇(さつきやみ)」というのがあるけど、これは五月というよりは梅雨の合間のいやに暗い日を指しているので、今頃も通じる季語だ。

 

 梅雨の降るころの厚い雲に覆われた、昼夜を問わぬ暗さをいう。ちょっとジメッとした闇の空間を思い浮かべて日常にありながらどこかに潜む異空間を感じさせるし、これは他の季語同様多分に心的な意味も含んでいるような…。長谷川櫂のこの句はその五月闇の中に白い花がポロッと溢れた刹那がイメージとして浮かんでくる。好きな句だ。

 


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 *母はよく俳句を詠んでいたけれど、ぼくは観賞専門で詠むことはないが、人生で折に触れて自分の好きな句が少しづつ増えてゆくのは嬉しい気がします。そういう句の中の季語のイメージが写真で捉えられたらいいなあと思うのだけれど、とても難しいなぁ。


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年年の桜 [gillman*s park]

年年の桜
 
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 五年くらい前に股関節のトラブルや筋肉の低下などで殆ど歩けなくなっていたのをリハビリで二年かけてやっと人並みに歩けるようになったのに、この三年間のコロナのお籠りですっかり逆戻りして二ケ月ほど前から痛みで普通に歩けなくなってしまった。というわけで、一からやり直しで今は理学療法士によるリハビリとスポーツジムでのプール歩行などで復調に励んでいる。

 気が付いたらもう半月以上も公園散歩に行っていない。一度カミさんに付き添われて公園に行ったけれど途中でギブアップ。もう少しリハビリしてからでないと…、と思い知らされた。昨日医者の帰りに公園の脇を車で通ったらもうソメイヨシノも満開みたいだ。明日足の調子が良ければ公園の桜の所まで行ってみようと思っているけれど、朝起きてみなければ分からない。

 お散歩カメラもほとんど触っていなかったけれど、今見てみたら河津桜の咲いたころの写真が整理しないでそのままになっていた。ちょっと前なのにもう何か凄い昔の過ぎ去っていった春のような感じがする。この歳になると年年の桜は特別な意味を持っている。その年も生き延びた証みたいな…。

 さまざまの事 おもひ出す 桜かな (松尾芭蕉)
 

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寒椿 [gillman*s park]

寒椿
 
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 ■ 寒椿の 紅凛々と 死をおもふ (鈴木真砂女)
 
 大寒を経ていよいよ本格的に寒くなってきた。散歩中はゆっくり歩いているので中々身体が温まらない。北側の空にわずかに残った青空を覆うようにうろこ状の雲が広がっている。

 素の姿になった樹々の上に広がる厚い雲とその裏側で光を放ってる白い太陽。冬の一番美しい光景に思える。丘の中腹の寒椿の花も数輪を残して盛大に散った花びらが艶やかな姿を見せてくれる。実はいまだに寒椿山茶花の区別がつかないのだけれど、まぁ、合わせて冬椿と思っていればいいのか…、位いの知識しかない。

 寒椿の散った様を見ると何だか気持ちがワサワサとする。怪しいような美しさがあって鈴木真砂女の句のようにどこか死を想わせるような…。ぼくらの、と言っては語弊があるのでぼくの中ではこの美しさは死と隣接している感じがするのだ。

 ぼくに限らず日本人の美意識にはどこか果ててゆく美しさをこよなく愛する傾向があるような気がする。桜もそうだけれど、その盛りよりも盛りを過ぎて散り行くさまに独特の美を感じてしまう傾向があるのではないか。ぼくの中にもそういう心情がある。

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 よく言われるように徒然草の冒頭の、

 花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
 雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
 咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。

 といったような美意識が日本文化の底流に流れているのかもしれない。これは日本人の強さでもあり、同時に弱さでもあるかもしれない。日本文化の先人達の美意識をみるに、万物の有限性を認識しそれさえも愛でてゆく心情は深く人生を味わい、生を慈しむ原動力にもなっていると思う。しかし同時にそれに酔いしれてしまえば滅びの美学のような危うい方向に行きかねない要素をもはらんでいる。

 先の戦争に限らず為政者は日本人のそういう心情を利用し、それに付け入らんとしたことも確かだ。古くは忠臣蔵から戦前の軍歌「同期の桜」の"…みごと散りましょ国のため"のような恣意的で短絡的な潔さは結局誰の人生も幸せにはしない。これからの日本人に必要とされるのは、もののあはれを愛でる心情と一方では何があっても生き抜くという強かさ(したたかさ)の両方を兼ね備えることなのかもしれない。
 

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  ■何といふ 赤さ小ささ 寒椿 (星野立子)

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晩年を歩く [gillman*s park]

晩年を歩く
 
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 正月の朝寝坊癖がついてしまったのか朝飯から散歩の時間までが少しづつずれ込んでしまって、もう十時過ぎ。もとに戻さねば、と…。今日は風もなく晴れて穏やかな土曜日。

 丘の上で凧あげをしていた一家、というかしようとしていた一家。丘の上でも風が無いのでお父さんが悪戦苦闘しているけど中々上がらない。家族は少し飽きてきた模様。やっと風を捉えて凧が少し舞い上がった時、息子が駆け寄った。お父さんはちょっと誇らしげだ。ぼくはこういう小さなドラマが好きだ。

 公園は少し正月の空気を残しながらも平素の土曜に戻りつつある。ぼくももとに戻さねば。散歩しながら、ふと「晩年」という言葉が頭に浮かんできた。ああ、自分は今、晩年を生きているんだ、と。

 晩年を英語で言うと"Later years"と言うらしい。そのままだなぁ。ドイツ語にも"spätere Jahre"という全く同じ表現もあるけど、一方"Lebensabend"という言い方もある。直訳すれば「人生の黄昏(たそがれ)」みたいな。そうか、ぼくは今黄昏の中を歩いているのだ、昼間なのに…。
 

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 ぼくの好きな小説家、城山三郎の作品に「部長の大晩年」というのがある。三菱製紙を五十五歳で定年退職後に俳人として名をはせた永田耕衣(本名:軍二)の後半生を描いたものだ。耕衣は現職時代も真面目で人望もあったが、ちょっと一風変わったところもある人物だったらしいが、退職時の慰労の宴会も断ってさっさと俳句や書の世界に埋没していき九十七歳の天寿を全うした。

 ぼくは勤め始めた若い時から早めに隠居したいと思っていたけれど、特に何がやりたいということではなかった。しかし辞めてみてから若い頃の言わば恩返しにヨーロッパで日本語を教えたいという夢がでてきて、それなりに勉強もし日本語教育能力検定試験も受かり大学院でも学んだのだけれど、結局母の介護もあってその夢は諦めざるを得なかった。

 その後母の認知症が強くなって大学の講座で日本語を教えていたのも辞めたのだけれど、その前からおこなっていた日本語学校での活動は二十年近く今も続いている。夢の形は変わったけれど、後悔はしていないし母を看取ったことで今まで見えなかった世間の色々な景色を見ることが出来たことが、今の自分の生き方に大きく影響していることを想うとそれで良かったと思っている。

 自分の毎日を見てもとても「大晩年」という訳にはいかないけれど、苦労を掛けたカミさんと一緒に毎日飯が食えるだけで大いに満足しているし、夢というほどではないが写真をはじめやりたい事、知りたい事はまだまだ山ほどある。最後の時に高木良の小説「生命燃ゆ」の主人公の台詞のように「未練はあるが、悔いはない」と云えれば、それがぼくにとっての大晩年ということになるだろうか。
 
  ■ 少年や 六十年後の 春の如し (永田耕衣 / 句集「闌位」より)
 


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