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旅愁 Portugal [NOSTALGIA]

旅愁 Portugal
 
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 考えてみたらもう長いこと旅をしていない。ありふれた日常にどっぷりとつかり込むのも嫌いな方ではないけれど、それでもたまには旅に出て新たな日常に触れてみたい衝動みたいなものが起きてくる。

 ぼくの旅は何かを観て歩くというよりは違う場所、違う環境の日常に身を置いてみたいという欲求を満たすためのものみたいで、従って旅先でも行動は普段とあまり変わらない。毎年行っていた沖縄でも一日は散歩と読書と昼寝と居酒屋というルーティンみたいな生活で、新たな人との出会いということをのぞけばそこに目新しいものはない。

 海外旅行にも望むものは同じようなもので、ぼくの理想はどこか遠い異国に行きつけの飲み屋がある、みたいな気持ちなのだ。もちろん海外は同じところにそう何度も行けるわけではないのでそれはあくまで理想なのだけれども…。

 そんな事の何が楽しいんだと言われると少々困るのだけれど、あえて言えばその土地やその国の旅情というかその時にしか感じえない時の流れみたいなものが魅力なのかもしれない。旅情と似た言葉で旅愁という言葉があるけど、それはいくぶん旅の孤独感の方に軸足があるような気がする。親しい仲間内でわいわい言いながら旅するのも悪くはないけど、そこに旅愁はないような…。

 ぼくの場合、旅情や旅愁の中には、どこか懐かしさやノスタルジーが含まれていて旅先でそう感じられる瞬間にあうと何とも言えない人生の充実感を感じる。ポルトガルはそんな時の流れに多く触れられる国だったような気がする。

 小さな村の早朝オープン前の野外カフェに流れる優しい時の流れ、コインブラ大学の講堂での学位授与式での誇らしげで緊張した空気、ポルト港の鈍色の空をゆっくりと滑ってゆく鳥影。奇跡の丘ファティマの大聖堂に差し込む白い光。そういったもの全てが時の流れの愛しさを告げているように感じた。また、そういう時の流れに出合えればいいのだけれど…。
 

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 *ポルトガルで撮った写真を3分強のスライドショーにまとめました。バックに流れるファドの歌はMarizaというポルトガルの国民的ファド歌手で、オビドス村の小さなCD屋さんで教えもらったアルバムからとりました。よろしければYouTubeで限定公開していますのでご覧いただければ嬉しいです。↓
 
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and also...
もの想う海
 


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麗しの国 トルコ [NOSTALGIA]

麗しの国 トルコ
 
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 ■ 旅 1

 美しい絵葉書に
 書くことがない
 私はいま ここにいる

 冷たいコーヒーがおいしい
 苺の入った菓子がおいしい
 町を流れる河の名はなんだったろう
 あんなにゆるやかに

 ここにいま 私はいる
 ほんとうにここにいるから
 ここにいるような気がしないだけ

 記憶の中でなら
 話すこともできるのに
 いまはただここに
 私はいる

   (谷川俊太郎 詩集『旅』より)
 

 トルコ・シリア大地震は犠牲者の数が今も増え続けている。同じ地震国として他人事ではない惨状に心を痛めている。ぼくがトルコを旅したのはもう十年以上も前。

 その間に世界もそしてトルコ自身の状況も大きく変わってしまった。旅した外国の中ではトルコは写真を撮るのがとても楽しかった国の一つだ。ぼくの中では今でもトルコは麗しの国のままなのだけれど…。
 
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 イスタンブールの夜明け/イスタンブールの下町のホテルに泊まった。朝、ホテルの部屋の窓から明けてゆく街並みを眺める。夜明け前の張りつめた蒼い空気がゆっくりとその青さを失い始める頃、街が動き出す。目覚めた街の音の遥か向こうにモスクの尖塔が二本見える。明けてゆく異国の朝。
 

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 モード雑誌のように/ユルギャップの巨大な一枚岩の上に立っていた時、突然美女の一団がにぎやかに登場。岩の天辺で一斉に風景の写真を撮り始めた。なんか、モード雑誌のヴォーグかなんかの表紙をみているような光景。一通り写真を撮ると美女たちは一陣の爽やかな風のように去っていった。
 

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 Turkish smile/巨大なドームを持つモスクのアヤソフィア寺院見学者の列にトルコの生徒達の一団も並んでいた。ワイワイガヤガヤと楽しそう。こんにちは、声を掛けると皆で大騒ぎ。こぼれんばかりの笑顔が嬉しかった。あれから十余年、この子たちももうすっかり大人になっているに違いない。今ごろ何をしているのだろうか。
 

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 白いハネムーン/パムッカレの純白の崖には多くの温泉が湧き出ている。水着を着てバスタブのようにお湯のたまった窪みで湯あみしている人もいる。殆どがロシアからの観光客のようだ。新婚らしい一組のカップルが幸せそうに写真を撮っていた姿が印象的だった。
 

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 奇岩帯/ゼミ渓谷には様々な奇岩があってまるで地球ではない他の惑星に来たよう。それもそのはず、ここはスターウォーズの撮影にも使われたことで有名だけれど、一方ここには以前日本人の女子大生が強盗に襲われ殺されたという忌まわしい記憶も残っている。


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沖縄とぼくの50年 [NOSTALGIA]

沖縄とぼくの50年
 
DSC01254.JPG竜宮通り社交街(2017)
 
 1972年(昭和47年)5月15日、米国との沖縄返還協定が発効して沖縄の施政権が日本に返還された。今日でちょうど50年になる。沖縄返還の数か月後ぼくは初めて沖縄を訪れた。

 一か月にわたるウィーン少年合唱団の日本公演の最後の地方公演地として返還直後の沖縄が選ばれて那覇でコンサートが行われて、それまでぼくも学生アルバイトとして通訳兼少年たちの世話係みたいな役目で日本各地を回って最期の沖縄にも同行してやってきた。

 演奏旅行は長期にわたるので、移動日とは別にコンサートやイベントを入れない休息日を設けて子供達を休ませる配慮をしていたが、それでもツアーの終盤になると疲労がたまるのか、ただでさえ白い少年達の顔色が心なしか青白くみえる。那覇公演が終われば後は東京へ戻って上野の文化会館での最終公演を残すのみだった。

 沖縄では大歓迎でテレビ取材なども多かったけど、那覇に入った当日はコンサートもないので子供達をビーチに連れて行った。ところがそこで子供の一人が転んでサンゴ礁で膝をパックリと切る怪我をしてしまい、救急車を呼ぶというハプニングが起こった。やはり疲れているのかもしれない。幸い数針縫っただけで翌日のコンサートには支障がないことがわかったのだけれど、ひやっとした。あれからもう50年経ってしまった。

 ぼくがその次沖縄に行ったのはそれから数年たって新婚旅行で行った宮古島の帰りに那覇に寄ったのと、またその数年後でその時にはぼくはもう就職していて真夏の沖縄に出張で訪れた。市場調査のような仕事だったので那覇の街を歩き回った。復帰から数年経ったとはいえ街にはまだ至る所にアメリカ統治の跡がみられた。国際通りもまだ今のように土産物屋だけの通りではなく、バーやレストランや生活用品の店舗など目抜き通りには違いないのだけれど生活の匂いがしていた。
 

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農連市場(2017)
 
 その出張で那覇の街をめぐっていた折に、国際通りから少し離れた農連市場という地元の人たちの台所のような公設市場があって地元の人に勧められたので見に行った。そこは狭い通りの両側にバラックのような建物が連なっていてその通りはぎっしりと人の波で埋め尽くされていた。まるで何かの刺激に興奮した蜂の巣の中の蜂たちが一斉に蠢いてブーンという羽音が聞こえてくるような熱気を感じた。その姿は那覇のイメージとしてずっとぼくの頭にこびりついていた。

 それからはずっと沖縄からは遠ざかっていたがリタイアしてから2008年頃から毎年飛行機代も安いシーズンオフに沖縄に行くようになった。ある時30年ぶり位に、そうだ、と思い立ってあの農連市場に行ってみた。脳裏にはあの日の熱気に満ちた光景がまだ残っていた。牧志市場の長い通りを抜けると農連市場の通りに出る。で、その時と同じ場所に立って唖然とした。廃墟。そういう言葉がすぐ浮かんできた。すぐ上の写真がその時の写真なんだけれど、昼前という時間帯もあったのだけれど人影はなく、とても寂しかった。

 その後に行った時にはもう再開発になるらしくて取り壊しが始まっていた。どんどん変わって行くのだなぁ。それはもちろん地元の人にとっても好い事なんだろうけど、街が日本中どこにでもあるような様子になったり、国際通りのように行く度につまらなくなっていると感じるのは、たぶんぼくがノスタルジーという病に罹っているからだろう。辛うじて栄町みたいなところにその余韻が残っているけどそれも時間の問題だと思う。最近、ツーリズム開発は土地の魅力を殺さない工夫がもっと必要かなと思うようになった。でも、まぁ50年も経てば何もかも変わるか…、いや、基地問題だけは…。


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美ら海水族館
 

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旅先の夜 Hoi An [NOSTALGIA]

旅先の夜 Hoi An
 
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 旅先の夜。ベトナム、ホイアン。生暖かい空気と、雑踏の響きと、光の波に酔いリアリティがとろけてゆくような熱帯夜。さっき飲んだビールの余韻に任せて暮れなずむトゥボン川の畔をブラついているが、夢の中をふらふらと歩いているようで何とも現実感が湧いてこない。

 この現実感のなさは酒や光の渦のせいばかりではない。そこにあるべき匂いの存在のなさがぼくの体験から現実味を奪っている。今ここでは川の両側に並び立つレストランや屋台の立ち上る煙から光の渦に負けないくらいの匂いが舞ってるはずなのだ。

 生暖かい空気と原色の光と飛び交う雑踏の音と入り混じった匂いがこの場の独特の空間を作り出しているはずなのだ。嗅覚を失くしてからもう随分と時間が経った。視覚で想像ができるものはできるだけ頭の中で補ってみる。
 

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  新橋のガード下の手招きするような焼鳥の匂い、柴又のゑびす家の鼻を擽るようなうな重の匂い、ウィーンの朝、オペラ通りの地下道のパン屋の匂い。どれも懐かしく頭の引き出しには仕舞われている。

 でもどうしても、東南アジアのこの状況の匂いが浮かんでこない。必死になって大昔のシンガポールや香港の時の体験を手繰ってみてもそれらしい匂いにはたどり着かない。ふと、浮かんできたのはもう50年以上も前にトランジットで一晩だけ過ごしたバンコックの夜の匂いだ。

 ホテルの前の油だらけの道路の向うに広がっていた雑然とした市場のような場所と少しすえた匂いにスパイシーな匂いが混ざり合って…。それはもちろん半世紀前のバンコックの匂いで、今のバンコック子が訊いたら怒るに違いない時代錯誤の記憶だ。

 現実に自分もその中に居るのに、自分の目の前を通り過ぎてゆく映画のワンシーンのような匂いのない世界。もちろん匂いではなくて、視覚のない世界、音のない世界など一つの感覚が欠けているマイナスワンの感覚の中で嗅覚障害は軽いと思われているし、実際にそうなのだろうけど…。それが今は自分にとっての現実なのだと思うようにしている。
 

 
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 *次第にフェードアウトするように匂いを失くしてもうかれこれ二十年近くになります。その間に手術が四度、もうこれを最後にしようと思いながら。しかし今も毎日嗅覚のリハビリを続けています。何度か光が見えてはすぐに消えていきましたが…。まだ諦めてはいません。

 **今回のコロナ禍で嗅覚障害の症状や後遺症に悩む人が増えて、皮肉にも嗅覚障害の辛さみたいなものが社会的にも少し理解されてきたような気もしますが、嗅覚障害にはガス漏れ感知や食品の腐敗感知やシンナーなど塗料の有害気化物吸引などの生活上のリスクが伴うことについてはまだあまり認知はされていないようです。

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旅先の夜 リスボン [NOSTALGIA]

旅先の夜 リスボン
 
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 リスボンVIPグランド。リスボンで今はやりのデザイナーズホテルだというから楽しみにしていたんだけれど…、確かに新しいけど落ち着かないし浴室バスの戸が壊れていて開かない。ボーイを呼んで「どうするの」と聞いたらどこかに電話して修理は明日以降になるという。もういちど「で、どうするの」と聞いたらまたどこかに電話して部屋を替えるという。

 ただし10階まではバス無しシャワーのみの部屋で、ここ11階以上がバス付きの部屋らしいが、今日は空き室が無い…、そう、シャワーのある良い部屋があるよと。シャワーじゃダメなので「じゃ、どうするの」と聞くとまたどこかに電話して、スイートルームに替えてくれた。

 今度は確かに広いし、バスの戸も大丈夫だし大きなテレビがついているけど、使いにくい間取りでやっぱり落ち着かない。やっとシャワーを浴びて真新しいシャツを着て部屋を出た。ここでは夕食の時間は遅いらしいのでその前にちょっと街をぶらつくか、ロビーで人間観察でもするか。ホテルのロビーという処は雑踏の中の孤独というか、人が大勢居るのに誰も他人に関心を持たない、そういう雰囲気が好きだ。

 ロビーに降りると広い空間にそこそこの人が居る。今着いたばかりらしい人の一団、これから街に出るのか、誰かと待ち合わせているのか、人々の話声で空間がざわついている。空いていたソファーに腰かけてふと前方の少し離れたあたりに目をやると、カウンターバーがある。その一画は確かにデザイナーズホテルらしい雰囲気を振りまいている。

 キラキラと輝く金色のカウンターの後ろには無数の酒ビンがバックライトに浮かび上がって並んでいる。端の方にバーテンダーがひとり。顔はシルエットになってよくは見えないけれど、マフィアの用心棒みたいにがっしりとした体格にサングラスをかけている。全然デザイナーズっぽくはないぞ。

 そういえばさっきからの部屋替えのゴタゴタで何も口にしていなかったことに気が付いた。それで街に出るにしても何か一杯ひっかけてから出たいという気になってきた。遠目からボーっとバーカウンターを見つめながら「ああいう、雰囲気のバーでは何を飲むべきなのかなぁ」と…。

 でも、ビールじゃないよなぁ。めったにカウンタバーなんかには行くことはないけど、ぼくはそういう店ではジンのシュタインヘーガーにチェーサーとしてビールを頼むことが多いのだが、そういうややこしいことはあの用心棒に通じそうもないし…。

 かといってカクテルなんか皆目分からないから、まぁ、適当にマティニーとかギムレットとか言っておけばそれらしき何かは飲めるかもしれない。でも、飲む前にまずあそこのどこに座るかだ。いきなり用心棒の目の前に陣取るのもごめんだし、かと言って一番左端に座るっていうのも避けているみたいでなんなので、やはり左端から二番目あたりの席に陣取って彼が注文を聞きに寄ってくるのを待つというのが、自然でいいかもしれない。

 何と言って近寄ってくるのかな。気さくに「オラ」とか、それとも「ボンディーア」っていうのかなんとも予想がつかないが、あの顔でものすごく愛想が良かったらそれはそれでちょっと引いてしまうなぁ。とまぁ、アプローチから注文までのシーケンスを頭の中でおさらいしながらソファから立ち上がったら、数人のいかついおっさんのグルーブがバーカウンターに近づいて行ってあっという間に全席を席巻してしまった。 …しかたない、街に出てから何か飲もうか…。



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 *コロナ禍で旅行にも行けないので昔の旅行の写真を見ていると色々なことが思い出されるし、それからずいぶんと時間が経っていることもあってか想い出の中に妄想も混入したりすることもありますが、それも一つの楽しみかと…。

かつてエドワード・ホッパーの絵に触発されて作家たちを集めて短編集を作ってしまった作家がいますが映像には時として、そういう妄想を誘発する力があるのかもしれません。
 



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Casablanca カサブランカまで [NOSTALGIA]

Casablanca カサブランカまで


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グラナダの裏路地で


 コロナ禍で時間があるので断捨離の一環で写真の整理をして残す物だけスキャンしてデータでとっておこうと思った。若い頃の旅行の写真やネガがいくつか見つかったのだけれど、色抜けや画像自体が薄くなっているものが多い。いくつかのソフトを使ってみるつもり。それにしても、50年というのはもう凄い昔のことなんだなぁと実感。好きなグラナダなどで結構沢山撮った写真が見つからない。

 自分はいつも人の縁に助けられていると感謝している。初めて一人でモロッコに行った時、スペインのグラナダを拠点にしてそこに荷物などを置いて身軽に行きたいと思ったけど、半月以上もホテルに滞在したり荷物を置いてもらうようなお金はなかったので諦めようとした。

 泊まっていたグラナダ駅前のペンションのおばちゃんにその事を話すと、私の知り合いがカルメン広場でグラナダ大学の私設の学生寮をやっていて、夏休みは故郷に帰る学生もいるから部屋が空くはずなので行ってごらんと言われた。

 教えてもらったカルメン広場のペンション・クリスチーナを訪ねていくと、おばさんのいう通り空き室があって安い値段で貸してもらえることになり、モロッコから帰ってくるまで荷物も置いておいてくれることにもなった。住み始めると隣の部屋のグラナダ大学の学生と友達になって、近所にあるグラナダ大学と提携している民間の学食を教えてもらいいつもそこで定食を食べていた。

 普通の三分の一くらいの値段で食べられるので金銭的にもすごく助かった。アルハンブラ宮殿の受付のお姉さんと顔見知りになると夕方になると顔パスでタダで入れてくれるようになった。毎日夕暮れになると宮殿の屋根の上に登って夕日を見るのが楽しかった。

 ある日街でギター留学に来ているという金指さんという日本人と知り合いになって、この街に長くいる彼の案内でサクラモンテの丘にあるアルバイシンというジプシーが洞窟住居に住む地区に通うようになった。サクラモンテの丘から見た夕陽に染まる真っ赤なアルハンブラ宮殿は生涯忘れることができない。全て縁が引き寄せてくれた経験だ。

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アンダルシアの田舎町で


 グラナダから列車でジブラルタル海峡の港町アルヘシーラスに行きそこから船に乗ってアフリカ大陸の突端にあるスペイン領のセウタと言う街にわたり、一泊して翌朝キャラバンバスでモロッコの首都ラバトに行った。首都と言ってもバスの着いたメディナの入り口にあるターミナルは地上数センチ位までラクダやロバの糞らしいものが積み重なって凄い異臭がした。時折風が吹くとその藁みたいな塵が舞い上がる。

 道を聞きながらやっとユースホステルを見つけたけれど、ホステルとは名ばかりトイレの戸は閉まらないし、天井に穴が開いていて寝ていて星が見えるという風流な感じ。蚕棚のベッドの下段はイギリス人のバックパッカーで夜中抜け出してどこかに行った。そいつが朝大騒ぎしているので何かと思ったらブーツにサソリが入っていたとわめいていた。

 あばら家だけど中庭は上によしずが張ってあって快適な空間だった。そこでこれからの旅の情報交換などを行うのだけれど、ぼくはそこでキャシーというアメリカ人の女性と知り合った。日焼けした肌にプラチナブロンドの髪をひっつめにして精悍な感じがする。かなりの美人。

 聞けば彼女はケープタウンからここラバトまでヒッチハイクでアフリカ大陸を縦断してきたという。それも一人で。危険じゃなかったかと聞いたら「女は盗られるものは一つだけど、男は盗るものがなから命をとられるかも…」とさりげなく言った。ここまで来るのにそれは決して大げさではない事を知っていたから、ぼくは返す言葉が無かった。いつもノープランで行き当たりばったりのぼくでもそれは無理だと思った。

 結局モロッコには二度行っていずれもカサブランカで引き返した。最初はミュンヘンで友達と待ち合わせていた期限が迫っていたから戻らざるをえない。携帯もない時代だから変更の連絡はつかない。二度目はドイツの友人と一緒だったがアルヘシーラスに置いて来た車が心配だったからという事情はあったけれど、もしそれが無くても果たして全てを捨ててその先に行く勇気があったかというと、それは無かった。五十年も昔の話である。
 
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カサブランカの海岸で
 
 

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Jugendherberge1970b.jpg当時のユースホステルの利用証


 *携帯もインターネットもない時代の旅は、今では自分でも想像することができない位異次元の経験となりました。当時持っていたのはトマスクックの国際時刻表一冊だけでしたから。今の自分には到底できません。
 
 今は自分で海外を旅行する時も旅先でネットで調べてホテルを予約したり、列車の時刻表を調べたり…それなしでは考えられなくなりました。以前、避難民の人たちがGPS地図を見て逃走経路を辿っているのを見て驚いたことがあります。

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沖縄行きてぇ [NOSTALGIA]

沖縄行きてぇ
 
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 石垣島からさらに高速船に乗って西表島経由で着いた波照間島はさとうきび畑ばかりの平坦な島だった。さとうきび以外には、日本で唯一南十字星が見える島、サンゴ礁の島、銘酒「泡波」が作られる島。

 泊まったペンション「最南端」の部屋から見た眼下に広がるサンゴ礁の色は生涯忘れられないし、何度も通った慶良間諸島の阿嘉島座間味島の海岸も忘れることができない。

 沖縄方面に最後に行ったのは一昨年の1月、奄美大島に行って帰ってきた日にインフルエンザで高熱が出た。暮れに予防接種をしていたにも関わらずである。幸いタミフルで回復したが、その直後に中国から新型コロナウィルスが日本に入っていたニュースが飛び込んできたので、そう言えば往き帰りの格安フライトに沢山中国の観光客が乗っていたのを想いだして、ずいぶん心配したものだ。

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 毎年のように沖縄に行っていたけど、考えてみると夏に行ったことは一度しかない。その一度と言うのは大昔仕事の出張でいったので背広を着て、只々暑かった想い出しかない。

 それがリタイアしてから冬や春先のオフシーズンに行ってみたらどこへ行っても空いているし飛行機の便も安いし、気温だって内地の人間には寒いというほどではない。それに春でも花粉症がないのも気に入った。行っているうちに馴染みもできて気の置けない処になって、行けば第二の日常的な生活が出来るようになっていた。

 今回のコロナ禍では日本中そうだが、沖縄は特にひどい目にあった。というか観光と防疫の狭間に苦しみぬいている。あの賑やかだった国際通りから一切の人影が消えている映像を見るとそれだけで胸が痛くなる。

 ワクチンを打ったとはいえ、ブレークスルー感染と言うものがあるらしいので、ぼくのような高齢者+基礎疾患+BMIオーバー+ステロイド治療と言ういわば極度のコロナ弱者にとってはまだ安心はできないし、万一の場合を考えると現地で迷惑をかけるわけにはいかない。今は特効薬が出来るのをじっと待つしかないのかも。

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 .

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旅の光 [NOSTALGIA]

旅の光
 
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 ■ここ 

 どっかに行こうと私が言う

 どこ行こうかとあなたが言う
 ここもいいなと私が言う
 ここでもいいねとあなたが言う
 言ってるうちに日が暮れて
 ここがどこかになっていく

  (谷川俊太郎 『女に』より) 
 

 コロナ禍でのお籠りが始まってもう二年近くもどこへも旅行をしていない。定期的に周期的放浪癖がやってくるぼくとしては何とも言えず辛い日々が続いている。カミさんとの話も近頃は旅行に行けるようになったらどこへ行こうかという話が多くなっている。

 カミさんは、盛んにあと何回旅行に行けるかしらと…。そう、何となくお尻は決まっているのだ。それは寿命かも知れないし、体力や脚の限界かも知れないし、お金の限界かもしれないが、そう遠くない向こうにそれは待っている。そんなことを切実に考えるようになったのは運転免許証の高齢者更新がきっかけかもしれない。

 尤もぼくの場合旅行と言っても大抵はそこで何をするでもないのだ。昔からぼくは旅行の日程を立てたり、観光ルートを考えたりするのはからきしダメで、場当たり的で、どちらかと言えば旅先で飲み屋を見つけてそこで本でも読んでいたい方なのだ。一番の楽しみはその土地の酒と光と人であとは美術館か音楽会くらいで、それ以外はあまり気にしない方だ。一人で行く時は大抵翌日のこと位しか考えていない。

 だからカミさんと旅行するときはツアー旅行が助かるのだ。旅程など気にせずに唯ついて行けば良いのだし、もちろん時間の制約はあるのだけれど最近はハードな日程の旅行自体を避けているからそこは何とかなる。カミさんはツアーが良いのはぼくが極端な方向音痴なこともあると思っている節があるが、それもあるかもしれない。

 カミさんの言うようにぼく自身は確かに方向音痴だけれど、オレはスマホも携帯もない時代の大昔に一人でトマスクックの時刻表一冊片手に横浜からカサブランカまでたどり着いたんだから世界地図レベルでの方向感は大丈夫なんだと密かに思ってはいるけど…、時間通りにツアーの集合場所に中々たどり着けないのでは、そんなのは屁のツッパリにもならない。

 まぁ、一人旅の時はむしろ道に迷うことも楽しみの一つでもあるのだけれど、カミさんと二人で道に迷って時間に追われていたのではシャレにならない。こう言うといやいやカミさんと旅しているみたいだけど、全然そうではなくてカミさんとおしゃべりしながら旅をするのは何よりも楽しいし、気の置けない友達と旅をするのも同じくらい楽しい。

 一番うれしいのはカミさんも友人も写真は撮らないのだけれど、ぼくが旅先でその時々、その土地の光に魅せられてたたずみ、時にはカメラを向けている時にも急かせることもなく付き合ってくれることと、そして何よりも一緒に楽しい酒が飲めるということだ。これだけは一人ではできない。 


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世界を埋め尽くす情熱 ザルツブルク大聖堂 [NOSTALGIA]

世界を埋め尽くす情熱 ザルツブルク大聖堂
 

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 先の一人旅の話の続きなんだけども…、20代で初めて欧州(当時はまだそんな言葉がぴったりだった)に渡った時、シベリア鉄道と飛行機を乗り継いで最初にたどり着いた大きな都市がモスクワだった。その後はじめて足を踏み入れた当時の西側自由圏の都市がウィーンだった。

 そこで最初に感じたのは西洋はつくづくと石の文化だなぁということ。同時にぼくらはいかに木に囲まれて暮らしていたかということだった。多くの教会を訪れたけれどもぼくの好きだった日本の寺院のような人の心を静謐にそして安寧にしてくれるような気配を感じることはできなかった。

 それはもちろん育った環境の要素が大きくて、西洋で育った人たちはそこに静謐と精神の安寧を感じるのだと思うのだけれど、ぼくには威圧という感覚の方が強かった。のしかかるような石の重み。西欧の街に住み始めてからも石の街で感じる孤独感は果てしのない、日本の寺院で感じるようなあのどこか包み込まれるようなある種居心地の良い孤独感とは無縁の感覚だった。それはまさに異文化の感覚だった。
 
 
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 それから、もう一つ感じていた異文化感覚が西欧の、巧くは言えないのだけれど、「世界を何かで埋め尽くしたいという情熱」のようなものだった。それは絵画や建築にも表れている。美意識の点からみても日本の文化は言わば「余白の文化」と言おうか、描かれないもの、語られないものに思いを巡らすという美意識、価値観のようなものがある。

 もちろん日本にも洛中洛外図や若冲の動植綵絵のように、画面の隅々まで埋め尽くしたいという情熱を持った絵も存在するけど、それは例外的なものに留まっている。ザルツブルク~ウィーンの一人旅でどうしても撮りたかったのがモーツァルトが洗礼を受け、カラヤンの葬儀が行われたザルツブルクの大聖堂の天井画だった。

 建物は17世紀に建築家のサンティノ・ソラーリの手になるものだが、天井画はドナート・マスカニートによるものとされている。その画家についてはぼくは余り知らないのだけれど、そこにはまさに世界を何かで埋め尽くしたいという並々ならぬ情熱が感じられる。絵画とその周りを囲む彫刻は目のくらむち密さで天井を埋め尽くしている。 

カメラを天井に向けて頸が痛くなって限界になるまで撮り続けたがもちろん切りがない。どこまで行ってもフレスコ画や彫り込まれた彫刻達が「まだだ、まだだ…」と言い続けているようだった。
 
 
 
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*絵画や建築で見られる「世界を何かで埋め尽くしたいという情熱」は西欧のものであると同時にバロック、ロココでその頂点を極める長きにわたって西欧を突き動かしていた時代の情熱だったのかもしれません。

 印象派などで幕開けした近代の西欧の美意識は産業革命を通してよりシンプルで機能的なものへと変質していったような気がします。しかし身の回りには今でも厳然として当時の美意識の世界が存在していることも確かだと思います。

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ウィーンの光と影 [NOSTALGIA]

ウィーンの光と影
 
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 緊急事態宣言が出て旅行の、ましてや海外旅行の機会はまた遠のいた感じがする。今は旅行どころかぼくの場合は通院以外は町なかへの外出は殆どなく散歩が外の空気に触れる唯一の機会と言ってよい。

 ということで、ここのところ旅行で撮った昔の写真ファイルを整理している。旅行先で写真を撮ることは多いのだけど写真を撮るための旅行というのは後にも先にも国内外にかかわらず一度しかない。それは2009年にウィーンとザルツブルクに写真を撮るために一人で一週間旅した時だ。

 安いエアーとホテルだけ押さえてあとはカメラを抱えて街を撮り歩くという意気込みで行ったのだけれど、正直言って体力がついていかなかったのを覚えている。いつもは旅行には軽い小型のデジカメを持ってゆくのだけれど、その時は気負いもあって重いN社のデジタル一眼カメラにこれまた重いレンズをつけて持って行ったものだから…。

 歩いているうちに頸が痛くなる。頸椎を手術しているので頸に負担がかからないように斜め掛けにするようにはしたのだがそれでも次第に耐え難く痛くなってくる。加えて当然だが教会をはじめ三脚の持ち込みやフラッシュの使用は禁止だから、重いレンズを付けた重いカメラをしっかりと固定して保持しなければならない。でも手持ちの限界はあった。
 
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 それでもどうしても撮りたかったのがザルツブルクの大聖堂とウィーン市内のバロックの精髄ペータース教会だ。ウィーンには二つの素晴らしいバロックの教会がある。このペータース教会とやはり市内にあるカルルス教会。この二つは同じバロックでも随分と雰囲気が異なる。ぼくはペータース教会の方が好きで、不謹慎な言い方かもしれないけど艶やかというか、その様式美が素晴らしい。

 その教会は三脚とフラッシュさえ使わなければ自由に撮影することができた。撮りたかったのは以前に見た光景。天窓から光が差し込み教会の壁を照らし始める。祭壇の中央に鎮座している十字架のキリスト像の足元を照らす光と相まって荘厳な空間を作り出す。教会の木のベンチにカメラを固定して待った。またいつか、今度は軽いカメラを持ってどこかに撮りに行きたいのだけれど…。
 
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