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断捨離 家族の肖像 [下町の時間]

断捨離 家族の肖像


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 断捨離の中でも何とも難しいのがアルバムなど写真の扱いで、写真の中には自分で撮ったものだけではなくて、人の結婚式の写真や両親の時代の写真など量としても結構な量になる。

 

 生前、認知症になって記憶の薄れていったに見せてあげるために昔の写真を整理して主なものをスキャナーで取り込んでiPadに入れてそれを見せたりもしていたのだけれど、それでもまだ膨大な写真が残っている。

 

 ここのところ自分の断捨離も兼ねて母の遺品を整理していて今まで見た覚えがない写真が出てきた。撮られたのは昭和十年前後と思われるので、今から八十年位昔の写真だと思われる。写っているのは母の実家で撮られた家族の写真で、この写真はもしかしたらぼくも昔見たのかもしれないけれど記憶にはなかった。

 

 後ろに立っているのが母で、両端に座っているのが祖父と祖母だ。祖母は若い頃は評判の美人だったと母からよく聞かされていたが、そんな面影が残っている。ぼくが物心ついた時にはもうおばあさんという感じだったから、新鮮な感じがする。

 

 祖父もまだ壮年の容姿で、厳格な昔の日本の家長という感じだ。写真には女の子が三人、男の子が三人写っているが、この後さらに一番下の男の子が生まれているので一番上の長女とは20歳以上の開きがあることになる。

 

 この写真は千住のアサヒ写真館のK.Ishiiというシグネチャーの入った台紙に貼られているから写真屋を自宅に呼んで撮ってもらったものと思われる。よく見るといくつか面白いことに気がつく。子供達の真ん中に子犬が座卓に手をついているのが写っている。

 

 ぼくの家でもぼくが子供の頃から犬を飼っていたけれど、その頃は当然のように外で飼っており、ぼくの近所や友達の家でも座敷で犬を飼っている家はしらなかった。それを考えると八十年も前に座敷で犬を飼っていたのは当時としても珍しいのではないか。

 

 それともう一点は、いわばプロの写真屋が撮った写真なのだけれど真ん中に写っている男の子の顔が座卓の上に置かれた花で顔半分が隠れてしまって見えなくなっている。この男の子は長男で後年ばくもずいぶん可愛がってもらった叔父なのだけれど、その叔父の顔には隠したいものなどはなかったから、とても不可解だ。そう思うと、座卓の上の花瓶がなんとも不自然に思える。その時だけ叔父の顔に何かできものでもできていたのかもしれない。

 

 床の間に松らしきものが飾られていることをみると、正月に撮られたと思われるが、その時の幸せそうな家族の肖像と言えるかもしれない。映画の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ではないけれど、ぼくはその後ここに写っている人物がどんな道をたどったか概略を知ってしまっているので、この写真を見ると複雑な気持ちになる。

 

 母は98歳の天寿を全うしたけれど、この写真の中の二人は若くして夭折しているし、祖父母も後年一番下の男の子が生まれた後に離婚している。祖父が外に愛人を作りそちらにも子供ができたのが原因らしい。祖父母は昔としては珍しく恋愛結婚だったらしいが、最後まで添い遂げることは出来なかった。それらのことごとを思うとこの写真は幸福な形でのこの家族の最後の「家族の肖像」だったような気がする。

 

 

 

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*祖母の実家は昔はタバコ栽培を行っていた裕福な農家だったらしく、祖母の代には凋落しかけていたらしいのですが、祖父はそこに跡取り婿として婿入りしたらしいです。しかし、婿の立場が息苦しかったのか、続けて三人できた子供が皆女の子で跡取りが生まれないこともあってか、ある年祖父母は祖母の実家から籍を抜いて一家で東京に出てきたようです。

 その後、祖父は幸い東京都に職を得てその後男の子も生まれました。この写真は東京に来て関東大震災にあいながらも、東京で生活基盤を築いた時代に撮られたものでしょう。一方、祖母の実家の父、つまりぼくの曾祖父は東京に出て行った娘を気遣ってか、ある年の暮れ娘一家に正月に旨いものを食べさせてやろうと田舎でとれた農産物をリヤカーに積んで早朝まだ暗いうちに茨木の家をでたのですが、曾祖父が東京に着くことはありませんでした。

 東京へ向かう途中で心臓麻痺かなにかに襲われたのか竹藪の中で亡くなっているのが発見されたということでした。これも母から聞かされた話で、母の過去帳にはそういうことで曾祖父の命日は大晦日になっています。一枚の写真は色々なことを語ってくれます。

 


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The River Story [下町の時間]

The River Story


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 すみだ川

 隅田川の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗であった。

  その頃、両国の川下には葭簀張(よしずばり)の水練場四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺の水練場で始めて泳ぎを教えられたのであった。

世間ではまだ鎌倉あたりへ別荘を建てて子弟の遊場をつくるような風習がなかった。尋常中学へ這入って一、二年過ぎた頃かと思う。季節が少し寒くなりかかると、泳げないから浅草橋あたりまで行って釣舟屋の舟を借り、両国から向嶋、永代から品川の砲台あたりまで漕ぎ廻ったが、やがて二、三年過るとその興味も追々他に変じて、一ツ舟に乗り合せた学校友達とも遠ざかり、中には病死したものもあるが、月日と共にその名さえ忘れてしまって、思出すことさえできないのがある。…

 (永井荷風「荷風随筆集(上)・向島」岩波文庫より)



 最近台風や集中豪雨などで河川の氾濫が頻発しているのでハザードマップ等への関心が深まり、それとともに河川が自分たちの生活と深くかかわっていることを再認識する必要があるという感を強めた。

 現在ぼくが住んでいるところは荒川隅田川の北側にありハザードマップでみると、荒川が決壊した場合はここも最大2mまで冠水する可能性があるようだ。ぼくが子どもの頃育った千住は隅田川と荒川の二つの一級河川に囲まれた胃袋のような形をしたいわば中洲のような所だった。

 子供の頃自転車を買ってもらった時約束させられたのが自転車に乗って遊びに行っても、二つの川を超えないこと。北に行けば荒川に西新井橋がかかっており、そして南に行けば隅田川には千住大橋が掛かっているのでその間がぼくの遊びの空間というわけだ。

 今は荒川と言っているけど子供の頃は荒川放水路といっていた。というのも荒川(あらかわ)という名前が示す通り荒川はしばしば洪水をおこす暴れ川でその流れも頻繁に変わっていたようだ。この川には江戸時代から手こずりいろいろな手が打たれてきたが、大正から昭和にわたる大工事で赤羽の岩淵から東京湾に至る一大放水路を建設することで穏やかな川となった。

 子供の頃の記憶では荒川は夏になると川の真ん中にやぐらが組まれて、それが水泳のための休憩場所や飛び込み台にも使われるなど夏の風物詩になっていた覚えがあるが、隅田川はその頃にはもう墨汁のような黒い川で泳ぐなどもってのほかの川になっていたと思う。父と写っている写真の後ろに流れている川が隅田川でそのほとりに「お化け煙突」といわれた千住の火力発電所の煙突が見える。

 それでも隅田川はぼくにとっては親しい川であることに変わりはない。今思うとひやひやものだが、子供の頃には隅田川のコンクリート製の高い堤防の上を駆け回っていたし、隅田川に掛かる京成電車の鉄橋を友達と歩いて渡ったりもした。また夏になると船をしたてて千住大橋の袂から隅田川を下って、東雲(しののめ)や豊洲の方にハゼ釣りに行ったりした。(二枚目の写真)

 また中学校は隅田川のほとりの両国だったため、隅田川や両国橋などの想い出も多い。永井荷風の「すみだ川」はいつごろ書かれたのかは詳しくは定かではないが随分昔のことだと思うけれど、それでもそこにはもう汚れた川という風に書かれている。以前散策したときには、そのすみだ川の在り様と荷風のちょっと隠微な雰囲気が今でも向島あたりには漂っている感じがした。


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 *ここ数年、日本橋の下から出ている東京湾ミニクルーズや浅草から浜離宮までの定期船などで隅田川を何度か航行したことがありますが、昔とは様変わりに水がきれいになっていて驚きました。傷ついた自然も努力して改善すればある程度回復するものだなぁ、と感慨深かったことを覚えています。

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お稽古場 [下町の時間]

お稽古場

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 先日、亡くなった母の関連の手続きで以前住んでいた千住に用があって杖を突きながら行った。兄と待ち合わせをしていたのだが、時間よりちょっと早く着いたので待ち合わせのその建物の裏手にある懐かしい場所を覗いてみようと足を向けた。

 恐らくもうかれこれ60年近く来てはいないし、周りの街並みはすっかりと変わってしまったのだけれど、方向音痴のぼくなのに、その時は様変わりしていた細い路地の入口を不思議と見逃すことが無かった。きっともう変わってしまって分からないだろうと思っていた矢先、そのお稽古場は昔よりずっと小奇麗になってはいたけれど、ちゃんとそこにあった。


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 そこはぼくが子どもの頃週三回お稽古に通っていた日本舞踊の坂東流のお師匠さんの自宅兼お稽古場だ。お稽古場の看板にはぼくが教わったお師匠さんの坂東勝浜さんの名も残っている。今のお師匠さんはその娘さんで、その旦那になる人を引き合わせるきっかけを作ったのはたしか母だった。

 その場所を前にして急に色々なことが想い出された。床下に響をよくするために瓶が活けてあると教えられていた舞台をトンと踏んだ時のあの小気味良い音。舞台の前に座り踊りと同時に三味線のお稽古もつけていたお師匠さんの姿。そして当時、お稽古から家に帰る途中にお寺があって冬の日の夕暮れ時などその墓地のわきを通るのが小学生だったぼくは怖くていつも目をつぶって急ぎ足で抜けていたのも思い出した。

 学校が終わってからお稽古に行くのだけれど、時にはみんなで遊んでいた草野球を途中でぼくだけ切り上げてお稽古に行かなければならない時もあって、「これから踊りのお稽古だってさぁ」などとからかわれることもあった。いじめられることは無かったけど、ぼくとしては、そりゃあみんなと野球をしている方が楽しいわけで何年かたって結局辞めてしまった。

 ずっと後の大人になってから、あのまま続けていればよかったなぁとは思うけれど、まるで無駄だったかというとそうでもなくて、三味線や端唄、小唄などの邦楽の調べが今でも耳の底に残っているし、もう踊れないけど他人の踊りのうまい下手くらいは今でもわかる。時折気づくのだけれど、何よりも幼い心に刻み込まれた「和」の空気が今の自分の美意識の土台の一つになっているような気がする。そういう意味でもこの出会いに感謝。

 時間があれば本来お稽古場に寄って挨拶するのだけれど、今は時間がないので改めてこんど手土産をもって挨拶に来ようと思った。当時女学生だった今のお師匠さんはぼくのことをもう覚えていないかもしれないけど…。



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 *日本舞踊の曲は小唄端唄(はうた)もしくは長唄が多いのですが(他にも新内、清本そして常磐津などがあります)、そのほとんどは男女の関係の細かい機微をうたったものが多く、小学生には意味など分からないので呪文のように憶えていましたが、中にはぼくも最初に習った「桃太郎」などの分かりやすい題材のものもありますが、ごく少ないです。

例えば、ぼくも習ったことがある端唄の「わがもの」の歌詞は、

 [わがもの]
 わがものと 思えば 軽き傘の雪
 恋の重荷を 肩にかけ
 芋狩り行けば 冬の夜の
 川風寒く 千鳥鳴く
 待つ身に辛き 置炬燵
 実にやるせが ないわいな
  →芋狩り=妹許(いもがり)…妻や愛しい人の居るところ

 当時、お稽古場では細かい所作の処はお師匠さんが口ずさみながら指導しますが、通しで踊る時などにはその曲のSPレコードをかけて踊ります。SPレコードは最大でも5分位なので、その長さで収まる端唄、小唄はそういう意味でも適していたと思います。

 日本舞踊も上級になってくると段物(だんもの)と言って長編の常磐津(ときわづ)や長唄が入ってきます。長唄などは長いものだと30分近いものもあり、SPレコードが複数枚必要になります。歌舞伎の踊りなども小唄や清本などの世界なので、聞いていてどこか懐かしい感じがします。

 今はLPや色々な音楽プレーヤーがあるのでお稽古場ではどうしているんでしょうか。今度いったら聞いてみたい気がします。


 **ぼくも良く分からないんですが、分かりにくい日本舞踊の音楽の背景をそれが演じられた場所で、勝手に分類して自分なりに整理してみるとこんな感じになるのかなと。

 ①劇場系、②お座敷系、③門づけ系

 常磐津義太夫清本などは浄瑠璃の一派で芝居小屋等で演じられる①の劇場系かなと、また踊りはないですが、寄席などでも演じられた俗曲である都都逸(どどいつ)なども劇場系かもしれません。

 それに対し端唄小唄は芸者さんなどがお座敷で歌い踊るもので②のお座敷系かな。お座敷で30分もやられたらたまらないので短いのかもしれないです。

 また新内(しんない)は新内流しという言葉があるように「え~、お二階さんへ…」などと家の門の前に立ち演奏する流し的なもので③の門づけ系、但しこれも元は浄瑠璃の一派だったようです。いずれにしても子供にはわかりにくい世界です。



MutterTanz.jpgありし日の母の踊り





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不器用でタフな人達 [下町の時間]

不器用でタフな人達


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 ■ 思い出リミックス1

 家々の裏口におかれていた
 黒いゴミ箱はいつ姿を消したのか
 東京ではゴミはもう大地に帰れずに
 煙となって昇天する
 泣きながら捨てたものも
 怒りのあまり捨てたものも
 取り返すすべはない
 だが心に溜まったゴミは
 澱となって沈殿している
 透き通る思い出の上澄みの下に
 今も

   谷川俊太郎東京バラード、それから」幻戯書房



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 親父は下町の千住でずっと菓子屋の町工場をやっていた。もとは菓子屋で職人の丁稚奉公から始めて所帯をもってから独立した。だからぼくの子供の頃の遊び場といえば近所の原っぱか工場の中というのが普通の暮らしだった。ぼくが物心ついた頃には従業員も何人もいて彼らは住み込みと通いの人に分かれていた。

 親父は「ダンナさん」と呼ばれて、お袋は「おカミさん」と呼ばれていたけれど、親父は根っからの職人だから工場に入りきりだし、お袋は工場で手仕事をすると同時に数字には疎かった親父に代わって会社の資金繰りや毎月の従業員の給料などの面倒はもっぱらお袋が頭を痛めていた。

 そういう風にお袋もたいてい工場に入っていたから、家には女工さん兼お手伝いさん(当時は女中さんと言っていたけど)が居て、お袋が忙しい時などはぼくの遠足の付き添いは彼女が代わりに行くことも多く、小学校の遠足等の写真にはお袋が写っていないで女中さんが写っていることもあった。

 ぼくが高校を出る頃までは家に住み込みの職人や女中さんが居たので、いわば小さな家での集団生活みたいな感じがあった。住み込みの職人は地方から集団就職で来たり、親父の田舎関係から来たり様々だったけれどみんな若かったから色々なトラブルも多かった。通いの渡り職人みたいな目上の人たちとの折り合いが悪かったりして大喧嘩になったこともあった。

 昔は休みと言えば月に二回くらいの日曜休みがあるくらいで、ずっと工場の中で顔を突き合わせているからストレスもあったのだろう。みんな朴訥でストレートだから人間関係には親父もお袋もいつも気をつかっていた。特に住み込みの職人(「若い衆」といっていた)は中学卒業後からずっと同じ一つ屋根の下で暮らしているので、一緒に住んでいるぼくら自分の子供達との関係とか、思春期の彼らの扱いとか色々なことにも何くれとなく面倒をみなければならなかったと思う。

 親父もそうだけれど他のみんなもいわゆる職人だから、人付き合いなんかはどちらかというと不器用な感じだけれど反面、昭和という激動の時代を生き抜く、へこたれないタフさも持っていたような気がする。みんなその後菓子屋で独立したり、転業したりしながらも所帯を持ち、子供を育て立派に生きてきた。親父が高齢で菓子屋をやめた後も正月などには挨拶に来る律義さも持っていた。ぼくの目の底には今もそういう不器用でタフな人達の姿がはっきりと刻み込まれている。


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 *平成も今年限りで終わることが決まり、昭和はますます遠くなりその記憶も当然段々と希薄なものになってゆくのでしょうね。これからはもっと複雑で先の見えない世界に突入してゆくと思うんですが、そんな時だからこそ子供の頃に見聞きした人たちのタフさがまぶしく見えます。彼らの姿はぼくにとって「透き通る思い出の上澄みの下に」沈殿している澱などではなく、勇気づけられる力強い想い出そのものです。


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荒川土手 [下町の時間]

荒川土手


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 以前撮った写真を見ていたら、そう言えばここのところ昔住んでいた千住あたりに暫く行ってないなと思った。この写真は数年前の夏の終わり、まだ母が定期的にリハビリ病院に長期入院していた頃撮ったものだ。その日もいつものように病院に行ったのだけれど、母のリハビリが始まったばかりでまだ時間がかかるということだったので病院の近くの荒川土手まで行って時間をつぶすことにした。

 土手の上は晩夏とはいえ日差しの力はまだ十分夏の厳しさを残している光にあふれていた。河原のグラウンドでは少年サッカークラブの練習だろうか、少年たちの甲高い声が土手の上まで響いてくる。少年たちの父兄と思われるギャラリーが数名。むせ返るような草いきれとじりじりと照りつける太陽。こんな感覚を子供の頃、何度も何度もこの土手で味わったことを想い出した。




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 母の入院していた病院のある柳原から近い土手のこの辺りは、小津安二郎の「東京物語」や青春ドラマの「金八先生」にも登場するのだけども、ぼくが子供の頃遊んでいたのはここからもう少し上流に行った新橋と西新井橋の間あたりだったのだが、友達と自転車で家から荒川土手まで競争して最後に土手をこぎあがり、自転車を草むらの上に倒しまま大の字になると眩しい太陽が気持ちよかった。

 暫くして起き上がるとすぐ目の前にはお化け煙突があった。土手の上から見下ろす千住の町並みはゴチャゴチャとして埃っぽく、でもそこから聞こえてくる街の喧騒はまるでエネルギーの塊のようだった。不思議なことにこの頃の記憶はなぜかモノクロの感じがする。この日の空のように抜けるような青い空の記憶ではない。おそらくその頃の空はそんなに青くなかったのかもしれない。お化け煙突からも毎日黒い煙が出ていたし。

 一瞬、小津安二郎が「東京物語」をカラーで撮っていたらどうなっていたのかなと考えた。小津監督のことだから画面のどこかに赤い色を潜ませたとは思うのだけど、それを引き立てるようには当時の空は青くは無かったのだろうな。この日の青空なら小津監督の好きなAgfaの色味が活かせたかもしれない。荒川土手はぼくのふるさと東京の原点みたいなものだ。今度はゆっくりと向き合いに行きたい。



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すみだ北斎美術館 [下町の時間]

すみだ北斎美術館

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 両国の「すみだ北斎美術館」がオープンした。いろいろ紆余曲折があってやっと今年の11月の下旬にオープンしたので早く行きたかったのだけれど、入院などで中々行けなかったが何とか年内に行くことができた。

 美術館は葛飾北斎が住んでいた界隈である両国亀沢に作られたのだけれど、実はぼくも50年以上前に中学生の頃この美術館と通りを隔てた向かい側に住んでいたことがある。祖母と叔父夫婦が暮らす家が当時そこにあって、ぼくはそこにいっ時居候して両国中学に通っていた。

 久しぶりに訪れてその界隈を歩いてみると当たり前だがすっかり変わってしまった。50年も経てばそりゃ変わるわなぁ。子供の頃はやたらと広く感じられた通りも、今ではどこにでもある普通の広さの通りに感じられる。今は江戸東京博物館になっているが昔は青物市場のやっちゃ場だった場所から真っ直ぐ東に延びるその通りも今は「北斎通り」という名前になっているらしい。

 その頃は美術館の場所は公園だったと思う。学校の帰りによく遊びに行った所だ。今でも敷地の手前は公園になっているらしくいくつかの遊具もあった。その向こうに銀色に輝く独特のフォルムをした建物が建っているが、それが「すみだ北斎美術館」だった。

 建物の設計は妹島和世(せじま かずよ)氏である。妹島和世氏は西沢立衛氏と「SANAA」というユニットを組んで国内外の革新的な建築物を手がけており、「金沢21世紀美術館」やニューヨークの「新現代美術館」などに続く美術館建築としてルーブル美術館の別館である「ルーブル・ランス」の設計も手掛けている。

 美術館は建物の威容の割には建物自体は決して大きくは無い。というよりは美術館としての展示スペースは至極狭い部類に入ると思うが、区立という運営母体を考慮すれば北斎という単一のアーチスト専門の美術館としては十分かもしれないが…。

 展示スペースは3階と4階で、その日は常設展とオープン記念の「北斎の帰還展」が開催されていた。オープン後まだ日も浅いこともあってか、かなり混んでいた。1階と3.4階の展示階までは小さなエレベーター2基のみで階段では往き来出来ないので観客が多いと移動が大変という印象を持った。

 展示スペースの規模からいうと山種美術館や大田美術館クラスだと思うけど、そうなると美術館として生き残ってゆくためには今後のキュレーションが大事になると思う。常設展部分を見た限りではリピートさせるだけのインパクトのある展示にはまだなりきっていない感じがするのだけど、これからまだまだ改善されてゆくと思う。

 所蔵作品の内容はまだ詳しく分からないがモース・コレクションが中心だということなので、是非興味ある展示を今後も展開していって欲しいと思う。初代館長は、なんとぼくの母校の両国中学の前校長だった菊田寛氏だ。菊田氏はもとは美術教師だったということで美術には造詣は深いと思うので是非頑張ってもらいたい。

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 *色々とご心配をおかけしましたが、なんとか退院いたしました。手術からまもなく半月程経とうとしていますが、今のところまだ嗅覚が戻る気配はありません。医者の話では場合によってはひと月くらいかかることもあるそうですが、段々医者が手術前に言っていた「匂いについてはダメもとで…」という言葉が頭の中を駆け巡っています。

 **母校の中学校は江戸東京博物館の隣にあるんですが、昔はそこがやっちゃ場で塀一つを隔てた隣が母校の体育館でした。ぼくは剣道部だったので夏の暑中稽古の時など、稽古が終わるとやっちゃ場の人が塀越しにスイカを差し入れてくれたことなど、懐かしく思い出してしまいました。



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さよなら人情食堂 [下町の時間]

さよなら人情食堂

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 以前このブログでも千住のやっちゃばの時にもちょっと触れたこともあるけど、近所の青果市場である北足立市場の場外食堂「佐野新」が残念なことに今月一杯で店を閉めるらしいのだ。北足立市場というのは東京都中央卸売市場の1つで、以前は同じく中央卸売市場の一つである千住市場が手狭になったので昭和54年に青果部を今の場所に移転させたのが始まりだ。千住市場の方は今は水産物専門の市場になっている。

「佐野新」は元々千住市場で商いをしているお店だったが、それを機に北足立市場の方に移って場外食堂を始めたらしい。 その後昭和63年には花卉部門も設けられて北足立市場は本格的な中央卸売市場になった。そこはぼくがいつも散歩に行く舎人公園に隣接する所にあり、直ぐそばなのだけれど中に入ったことはなかった。ぼく自身は市場というか下町の言葉でいうと「やっちゃば」とは縁があって、幼稚園の頃は千住のやっちゃば(千住市場)の裏に住んでいたし、中学は今では江戸東京博物館になってしまっている両国のやっちゃばの隣の両国中学だった。

 ある時、食べ物屋や飲み屋に詳しい友人から北足立市場に場外食堂があるので行ってみないかと誘われた。自分の家のすぐそばなのに知らなかったのだけど…。行ってみると実に気の置けない、暖かい雰囲気のところで食べ物も美味しい。姉弟のごきょうだい(この場合は漢字ではかけないな)でやっていて、話をしているうちにご両人ともぼくの小学校の同窓生で、お姉さんとは幼稚園も同じことが分かった。その時は友人と不届きにも朝からビールを飲んで帰ってきた。野菜も新鮮、魚は千住の市場から仕入れているからこれまたうまい。

 それから何度か訪れて、一度はカミさんと行ったこともある。尤も近くの公園には朝いつも散歩に行くのだけれど、朝から一人で飲みにお店に寄る訳にも行かないのでそう度々行ったわけではないけど…。かといって場外食堂なので昼過ぎには閉めてしまうから、夜飲みに行くということもできない。でも、行くたびに妙に落ち着く。で、先日くだんの友人と久しぶりに訪れたら今月で閉店の話がでて…。

 前からおかみさんからも聞いていたのだけれど、段々とこの北足立市場で食堂を続けていくのが大変になっているらしい。というのも年々この北足立市場の取扱高が減って、活気がなくなっているらしいのだ。その原因は野菜・果物等の取引における大手のスーパーなどの比率が増えるにつれて、中央卸市場で仲卸を通す取引が減っているという現実があるのだ。

 大手のスーパーなどは産地での直取引や農家との契約栽培など仲卸を通さずに殆どの取引をしている。中には開発輸入と称して海外で商品開発をして直に輸入するケースも出ている。市場の活気がなくなれば、自然と食堂に来る人も減り経営的にも苦しくなる。場外売り場の建物の二階が食堂になっているのだけれど、ほとんどがシャッターが閉まっていて、やっているのはほんの数軒になってしまった。時代の流れかもしれないが、何とも寂しい。あのほっこりとしたイワシのフライがもう食べられないかと思うと、胃袋も寂しがっている。

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 *この北足立市場に入ってみると実に広いことがわかります。
敷地面積は61,076㎡で、実は今移転問題で話題になっている
豊洲市場の青果棟の敷地面積が58,000㎡なのと比べても
それより広いことがわかります。
物流上の立地は決して悪くはないので築地移転にからめての
再活用など何か活性化策はないのでしょうか。


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縁側の時間 [下町の時間]

縁側の時間

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  ■ 宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫をしている。
「おい、好い天気だな」と話しかけた。…   (夏目漱石「門」)


  夏目漱石の小説「門」はこんな縁側の情景から始まる。小説「門」はこれから複雑な人間関係のドラマが始まるのだけれども、まるでその前の一時の静寂を楽しむように縁側の時間が展開してゆく。

 今の都会では一軒家といえども縁側とその先に広がる自宅の庭などは望むべくもないが、ぼくの子供の頃は下町の家でも縁側と庭付きの家も珍しくはなかった。ぼくが育った千住の平屋の一軒家にも縁側と庭があって、庭には親父がこしらえた小さな池もあった。

 今思ったらそれほど広くはないスペースだったのだろうけれど、子供の時は縁側の一直線がとても長いものに感じられてよく端から端までダッシュして親に叱られたものだ。子供部屋はあったけれど、特に夏などは家に居る時は大半は縁側で過ごしていたように思う。

 そこは勉強部屋にも(めったに勉強などしなかったけれど…)、プラモデルを組み立てる部屋にも、夏は子供の寝室にも自在に変わることができた。家族のイベントも考えてみればほとんどがそこで行われていたな。夏の花火や冷えたスイカの種の飛ばしっこ。夏の終わりになるとどこからともなくスイカの芽がでくる。

 ぼくのウチは当時は親戚に同じくらいの歳の子供が大勢いたので、親戚の子供達が集まって遊ぶのもやはり縁側だ。縁側でちらし寿司やお菓子を皆で食べる。パーティーなんぞというハイカラな言葉は使いこそしなかったけれど、今考えてみればそれは紛れもなくパーティーだったのかもしれない。

 そして縁側の縁の下は子供たちにとって格好の探検の場所でもあった。ちょっとヒンヤリした空気と微かな埃とカビの匂い。その先に広がる闇は行ってみたいような、行くのが恐ろしいような。ぼくは一度その縁の下で戦時中の防毒マスクを見つけたことがある。最初はなんだかわからなかったけど、その不気味な仮面のようなマスクの先に突き出していた象の鼻のようなパイプが尋常ならぬものだということは子供心にも感じとれた。

 縁の下からは子猫の声が聞こえたり、家で飼っていた鶏の卵が出てきたり異空間につながるドラえもんのどこでもドアみたいな感じだ。今でも地方の農家や古民家に行くと縁側のある家が残っている。それらの家の縁側に座ると、何とも言えない安心感に包まれるのはぼくだけだろうか。もし、時間にも世界文化遺産のように世界時間遺産というものがあるとすれば、貧しくとも幸せだった「縁側の時間」は間違いなく世界時間遺産になると思うのだけれど…。



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職人という生き方 [下町の時間]

職人という生き方

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 ぼくの親父は菓子職人だった。和菓子の職人だけど、和菓子といっても「おこし」と呼ばれるもので今では雷おこし位しか知られていないかもしれない。親父は学校を出てから丁稚奉公を経て自分の会社を作って何人か職人を使って小さな町工場(まちこうば)をやっていたけど、自分自身も職人であることに変わりはなかった。

 辞書で職人という言葉をひくと、【自分の技能によって物を作ることを職業とする人】と出ているけど、親父はまさにそういう人だった。同じ年代の同業者達が段々と中小企業の社長然としてゆくのを傍目で見ながら、彼等とは通り一遍の付き合いだけはしても自分は工場に入り続けた。

 無骨で寡黙な人だった。ウチのばあさんはいつも「お父ちゃんが、もうちょっと外交上手だったら良かったのにねぇ」と言っていた。その頃は営業のことを外交と言っていたのだけれど、かといって親父は決して人嫌いなわけではなかった。それどころか、大手の菓子問屋の経営者などからは朴訥な性格が可愛がられて「もっと、頻繁に社長が顔を出せば注文も増えるんだけどなぁ」と言われた時も「今のままで良い」と行かなかった。工場(こうば)にいた方が良かったのだろう。

 仕事の金の工面はばあさんがした。もちろん基本は親父の商売で自分たち家族と住み込みの職人達を食わせているのだけれど、商売には大きな波がつきものだ。おこしは夏は売れないし、デパートなどでちょっと売れ残れば返品を食らって売上金からその代金を相殺される。最も堪えたのは菓子問屋の計画倒産だった。

 代金は長いサイトの手形払いで目一杯納品させておいてある日突然倒産。売掛金を回収に行くともう債権者の列が並んでいる。ある時、今の金額で言えば一千万円近くの売掛金を踏み倒された時は、ばあさんが事務所にへたり込んでしまったのを子供心にも憶えている。たとえ一円でも回収して来いと送り出した番頭が持って帰ってきたのは、古びた柱時計ひとつ。

 あとは、もぬけの空だった。そのもう動かない古びた柱時計は今もぼくの部屋の壁に掛かっている。ずっと後になっても、ばあさんはその時計を見ると一千万の時計とため息をついた。ばあさんの金繰りで何とか連鎖倒産は免れたけれど、そんなことは一度や二度ではなかったようだ。

 家には女中さん兼女工さんが居たけれど、昼間はもちろんお袋も工場に入った。工場は子供の頃のぼくの遊び場でもあったし、忙しい時は子供なりにも手伝わされた。ばあさんは工場の作業の合間を縫って週に何度か近所に日本舞踊や三味線を習いに行っていた。それを親父は工場の者に示しがつかないと言って、内心面白くは思っていなかったみたいだけれど、それはばあさんの唯一の息抜きだったろうし、それがあったからやって行けたんだろうと思う。

 親父はほとんど酒を飲まない人だったので、ぼくが大人になって一緒に住んでいても二人で酒を酌み交わしてジックリと話をした記憶がない。ただ、昔ぼくがドイツにいた時親父から手紙を貰って、その中でぼくのことを「君(きみ)」と呼んでいたのが妙に新鮮だったのを憶えている。その職人の親父は七十を前に仕事を辞めた。それから約十年間、親父は社交ダンスとビリヤードと週末の競馬の日々を送って八十になる直前、秋の彼岸の頃に逝ってしまった。

 最近、親父のことをよく想い出す。いや、想い出すというよりその存在を身近に感じると言った方が良いかも知れない。親父は考えようによっては好い職人人生を送ったようにも思う。自分の技能によって物を作ることを職業とするのが職人かぁ。ぼくの仕事は目に見える形にはならないものだった。自分の腕ひとつで生きる職人に憧れたこともあったけれど、商売で苦労したウチのばあさんは「お勤めさん」が良いよと言った。

 商売としての菓子屋を裏で支えていたばあさんは、商売人は24時間仕事のことを考えていなければならないけど、お勤めさんなら家に帰ればあとは全部自分の時間だからと…。そういえば、ばあさんはお勤めさんの娘だったのだ。結局のところぼくはお勤めさんになったのだけれど、時代はお勤めさんにとって、そう柔(やわ)な時代ではなくなっていた。猛烈社員から企業戦士の時代へ、大変革時代が来て、そして熾烈な競争社会の到来と、時代は家に帰っても息を抜くことさえ許してはくれなかった。


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谷根千今昔 ~千駄木・根津~ [下町の時間]

谷根千今昔 ~千駄木・根津~


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 ■青年

 小泉純一は芝日蔭町(しばひかげちょう)の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現(ねづごんげん)の表坂上にある袖浦館(そでうらかん)という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。

  此処は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道を鉛直に切る処に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造(まがいせいようづくり)である。入口の鴨居の上に、木札が沢山並べて嵌てある。それに下宿人の姓名が書いてある。… …

(森鴎外/「青年」新潮社)



 根津神社で昼すぎに落ち合う約束になっていたので、昼前に日暮里駅で降りてそこから谷中・千駄木を歩いて根津神社まで行くことにした。森鴎外の小説にあるようにぼくなんかも根津神社ではなく根津権現という名前が頭に入っている。権現というのは神仏習合の時の呼び名なので、神仏分離が原則の現在では神社と呼んでいるのかもしれない。

 平日とあって境内は人の姿もまばらだ。これが四月中旬からのツツジの季節だったら、それこそ平日でも大勢の人でごった返して大変なことになる。お祭りのハレ(霽れ)の場も良いけど、ぼくは神社やお寺はやはり今日のような普段の(褻)の静謐な感じが好きだ。

 境内でのんびりしながらひとしきり写真を撮り終えたころ友人二人がやってきた。もう一人はちょっと遅くなるということだったので、取りあえずソバでも食べようということになって根津裏門坂を上がったところにある大学病院の前の蕎麦屋「夢境庵」に行くことにした。

 そこは昔親父がその大学病院に入院している時、見舞いに行った帰りによく寄ったところだ。親父は末期の肺がんで結局その病院で亡くなったのだけれど、入院している間、夜仕事が終わると毎日のように本郷の会社から病院に寄っては親父の顔を見た。そして病院から家に帰る前に、時にはその蕎麦屋に寄って気持ちを落ち着けてから帰ったこと等想い出した。


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 ソバを食べ終わった頃もう一人の友人も来たので、谷中の方へ歩いて行くことにした。不忍通り(しのばずどおり)を道灌山の方向に行くと次の坂が団子坂だ。ここら辺でもこの団子坂と次の動坂はとても勾配が急で、昔学生の頃大雪の降った時などはバスが坂を上がれずに降ろされたことがあった。

 団子坂の丁度中ほどに森鴎外が半生を過ごした自宅「観潮楼」がある。ぼくの通っていた学校はそのすぐ近くだ。鴎外の自宅はぼくが学校に行っていたころには鴎外図書館(正式には文京区立鴎外記念本郷図書館)といって地域の図書館になっていたけれど、この間久しぶりに行ってみたら「森鴎外記念館」という森鴎外に関する資料館になっていた。ぼくの記憶では場所も前は通りの反対側だったような気がするのだけれど。

 今回は不忍通りではなく、それに沿って走っているへび道と呼ばれる曲がりくねった裏道を歩いて行った。車一台がやっと通れるくらいの細い道は子供の頃から見慣れている下町の街並みだ。子供の頃当たり前だった風景が今では人が珍しがって散策すると思うと、少し複雑な気持ちになった。

 千駄木の裏路地を抜けて三崎坂に出たあたりから周りは寺ばかりの寺町になる。よくまあこれだけ寺が集まったものだと感心するほど寺がある。三遊亭圓朝や山岡鉄舟などの墓があったり、築地塀の美しい寺があったりで飽きない。

 気が付くと結構な距離を歩いていた。駅にしたら3つ位の駅の間だけど朝から都合三回行ったり来たりしている。でも、各々好き勝手なものを撮りながら友人達と過ごす時間は何とも楽しいひと時だ。それに、後に控えている「反省会」も…。今回は根津の「串揚げ はん亭」で大いに反省?した。

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 *根津の蕎麦屋の先の広い通りに出ると夏目漱石が「吾輩は猫である」を書いた漱石邸跡(そこに建っていた通称「猫の家」は現在は明治村に移築されています)がありますが、この狭いエリアに漱石・鴎外という明治の二大文豪が住んでいたのは興味深いですね。

**ぼくは何故か森鴎外とは縁があってドイツ繋がりもそうですが、昔住んでいた千住には森鴎外が若い時住んでおり、そこからドイツ留学に向かった鴎外の実家である森医院がありましたし(今は足立税務署になっています)、高校の時はすぐ側に鴎外の終の棲家であった観潮楼がありました。

 漱石と言えばイギリス、鴎外と言えばドイツと言う風に留学先も違う二人はその作風も異なりますが、同じ時代のそれも一時期同じ地域の空気を吸っていたことを思うととても興味深いですね。実は漱石の住んでいた「猫の家」には、一時期鴎外も住んでいたことがあるということです。

 現在でも漱石の小説は広く読まれているのに対して、鴎外の作品は最近はそれ程読まれていないような気がして少し残念です。鴎外の作品には、漱石とはまた違った深遠な世界があると思うのですが…。


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