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♪ 東京のキリル・ペトレンコ Petrenko in Tokyo [Music Scene]

♪ 東京のキリル・ペトレンコ Petrenko in Tokyo

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 一昨年バイロイト音楽祭ヴァーグナーの「指環」を観た際、その音の素晴らしさに魅せられた。その時、選りすぐりのメンバーのバイロイト祝祭管弦楽団を率いていたのがキリル・ペトレンコだった。クラッシック音楽の知識はからきしのぼくにでもその音の輝きの素晴らしさは分かったし、劇場でも最終日ペトレンコが舞台上に登場した時の拍手喝さいは凄まじかった。

 ペトレンコは現在バイエルン国立歌劇場の音楽監督を務めるが、2018年からはベルリンフィルの首席指揮者・芸術監督になることが決まり、しかも一定期間現在のバイエルン国立歌劇場の方もかけ持ちをするという引っ張りだこで、傍目で見ても大丈夫かなと思うほどスポットライトを浴びるようになった。そのペトレンコがバイエルン国立管弦楽団を率いて先日来日した。

 この日曜日に東京文化会館で彼の日本公演の皮きりの演奏会があったので聴きに行った。切符は今年の春に友人が苦労して手に入れてくれたものだ。当日の曲目は前半がラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲Op.43」でピアノはイゴール・レヴィット。ぼくは初めて聞く名前のピアニストだったが、透明度の高いその音に魅せられた。アンコールがまた素晴らしかった。

 後半はマーラーの「交響曲第五番」。これは、特に最終楽章は今まで聴いたこともないようなアンジュレーションの大きな盛り上がりで、ぼくは最高にワクワクしたけれど人によってはこれは評価の分かれるところかもしれない。難しいことは分からないが、なんと言ってもペトレンコの瞬発力、瞬時の制動力そしてそれに繊細さが共存している点は抜きんでているし、そこがぼくが一番好きなところでもある。

 驚いたのは自分の出番がおわったピアニストのレヴィットが後半ぼくらの前の席に座ってじっとペトレンコの振るマーラーに聴き入っていたことだ。所々小さく頷いたり、控えめだけどあっと言うような身振りを見せたり…。音楽家はこんな聴き方をするんだなぁと感心した。

 ペトレンコの今回の来日の目玉は何と言ってもバイエルン国立歌劇場によるオペラ公演だろう。特にヴァグナーの「タンホイザー」は注目の的だ。一昨年のバイロイトで彼の素晴らしい「指環」を観たので、今回のタンホイザーも、とは思ったのだがチケットの法外な値段を思うとなかなか踏ん切りがつかなかった。もちろん、海外から歌劇場のスタッフ一行も引き連れての公演ということを考えると決して法外な値段とは言えないのだけど。ただ、ぼくの音楽の他にもやりたいこととのバランスで言えばの値ごろ感、価値観の違いなんだけれども…。


 なにはともあれオペラの方は諦めていたところに、友人からオペラ「タンホイザー」のゲネプロ(Generalprobe)の招待券を貰った。彼が本公演のチケットを買った際に抽選で何名かをタンホイザーのゲネプロに招待するという企画に応募して当たったらしいのだ。それをありがたい事にぼくにくれるというので観ることが出来たということなのだけれども…。
 
 ゲネプロとは衣装も舞台も本番さながらの通し稽古で、コンサートのゲネプロは何度も観たことがあるけれども、オペラのゲネプロは初めてだった。それと同じ様に軽い気持ちで考えていたのだけれども、どうして、どうして、間に一時間の休憩を挟んだにしても、始まったのが午後3時で終わったのは夜の8時すぎ。それでもその日はまだ二幕までである。
 
 今回の「タンホイザー」の配役は、タンホイザー役がクラウス・フロリアン・フォークトでエリザベート役がアンネッテ・ダッシュというぼくには懐かしいコンビだった。それは2015年バイロイトで観た「ローエングリン」のローエングリン役とエルザ・フォン・ブラバント役の組み合わせそのままだった。その時も二人とも素晴らしい歌手だと思った。
 
 ゲネプロ前半は順調に進んだが、それでも随所で中断、ペトレンコの指示で少し戻ったシーンからやり直し。その度に役者はもちろん照明、字幕、小道具などのスタッフが前のシーンに戻すためにフル回転、時には大型のクリーナーが舞台効果で汚れた舞台上を掃除し直す。本番では見えないところで大勢のスタッフが動いているのだ。
 
 休憩を挟んで後半はかなり指示が細かくなって、至る所で中断する。舞台上とのやり取りもあるが、オケとのやり取りも多い。段々と熱が入ってきて、ペトレンコの指示も長くなる。こっちがドイツ語がよく分からない上に、離れていて聞きづらいので殆ど分からなかったけど、時々「もっと明瞭に」とか「そこは叫ぶんじゃなくて、うたって…」とかの断片が聴こえてきた。
 
 もう大分時間もたって、舞台上にもちょっと疲労感が…、脇役の役者は寝転んだり、主役のフォークトも舞台中央のプロンプターのカバーの端に座り込んだり、エリザベート役のダッシュも靴を脱いで水を持って来させて飲んだり、時折は床に座ったり…。その間ペトレンコは一切気にする様子もなくオケ等に指示を出し続ける。それだけ舞台上やオケとの間に信頼関係があるのだろうなと感じた。

 完璧なものを創り出すというのはほんとうに大変なことなんだ。午後8時になってゲネプロがやっと終わりを迎えた時、NHKホール中に一瞬ホッとした空気が広がったような気がした。ペトレンコは全然平気で疲れていないみたいに見えた。前夜、来日初のコンサートをこなしたばかりなのに、凄いエネルギーだなぁ。


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 *いままではオーケストラピットに入って指揮をしているペトレンコしか見たことがなかったので、舞台上で指揮する彼を見たのは今回が初めてでした。実にパワフルで、ある時は踊るように、ある時はひれ伏すように大きなジェスチャーなんですが、その左手はかなり細かく曲の表情を指示しているようでした。ここら辺に瞬発力と繊細さの秘密の一端があるのかもしれないと感じました。

**ペトレンコは日本のプレスにこう答えていました。ゲネプロでの彼はまさにそれを証明しているようでした。

 音楽のモットーを問われると、「特別なものはないが、音楽に真摯(しんし)に向かい、時間をかけて十分な準備、(オーケストラや歌手との)リハーサルをして作品に取り組む。私の身上はリハーサル、これが一番大切かもしれない」

…指揮者の役割については「リハーサルの準備段階でオーケストラと一つになること。本番で指揮者がすることは少ない方がいい。実際のコンサートでの指揮者の役割は、単に音楽を聴衆に伝えるだけ」と答えた。 (9月18日付朝日新聞デジタルより)


写真上…東京文化会館(2017/09/16)
写真下…NHKホール(2017/09/17)

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ベートーベンの夜 [Music Scene]

ベートーベンの夜

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 久々のサントリーホール。この前来たのは何年か前の冬、ゲルギウスの指揮するマーラーを聴きに来てそれ以来だと思う。今日のコンサートは友人と何ヶ月も前からチケットを買って楽しみにしていた。ヘルベルト・ブロムシュテットバンベルク交響楽団を率いて行う日本公演の皮きりの日だ。不謹慎な話かもしれないけれど、ブロムシュテットは今年で85歳になるから、彼の演奏をこれからも日本でもずっと聴けるという確証はない。ぼくにとってはチケットは決して安い額ではなかったけれど、それでも聴きたかった。

 でも直近になって今回のコンサートはあきらめなければならない雰囲気になってきた。コンサートの前日、四泊の予定でショートステイに行ってその日の夕方に帰ってくるはずだったばあさんが、朝一番ショートステイ先から電話があって背中と頸が痛むので医者に行きたいからすぐ帰ると言っているがいかがしましょうかと問い合わせがあった。

 ばあさんは辛がっているのだから、それでも予定通りにしてくれとは言えないので了承した。ばあさんが送られて来た車いすでそのままかかりつけの医者の所まで連れて行って診てもらった。特に異常は無かったが、背骨のところが痛いと言うので午後には車で30分くらいの所にあるいつも診てもらっている整形外科で頸と背中のレントゲンを撮って診てもらったが全く異常は無かった。

 病院から帰ってくるとばあさんは寒いと言ってベッドに入って寝てしまった。「検査したけれど、どこも悪くないから、大丈夫だって」というぼくの声も耳に入らないようだった。時たまトイレに行きたいときにはナースコールが鳴るのでトイレに連れてゆく。もうこれは明日のコンサートはダメだなと諦めた。

 翌朝は昼前に起きて遅い朝食もとり調子が良さそうだったけれど、食事の後片づけをしてちょっと目を離したらもうしかめ面をして頸が辛いから寝ると言い出した。これから冬に向かってばあさんにもぼくらにもさらに辛い時期が続く。コンサートの開場は6時半だけれど、もうダメかなと思っていたら、そのままばあさんが寝てしまったので夕飯はカミさんが食べさせてくれることになりなんとか家を出た。コンサート会場に入ればもう携帯は使えないから、なんとかそれまで家から電話がないように。


 サントリーホールの会場内は開演時間が近づいても所々に空席があった。やはり不景気のせいだろうか、最近はクラシックのコンサートでは空席が目立つことも多い。もっとも海外からの演奏家のチケットが高くなりすぎたということもあるかもしれない。その日のコンサートのオーケストラであるドイツのバンベルク交響楽団は、正式にはバンベルク交響楽団=バイエルン州立フィルハーモニーというドイツの名門交響楽団だが、その成立の経緯はドイツの中でもちょっと毛色が変わっている。

 それは昔のプラハ・ドイツ・フィルハーモニーのメンバーがやはり戦後ドイツ人追放で東欧を追われたドイツ人音楽家たちとバンベルクという小さな町で作り上げた交響楽団がコアになっている。したがってその音色にはドイツを離れていたドイツ人達が持っていたよりドイツ的なものを求める欲求と、プラハで生まれたことからくるボヘミア的な香りも備えているとブロムシュテットも語っている。

 昨日の演目はベートーベンの交響曲第三番「英雄」と交響曲第七番だったけれど、弦の音色は深くかつ切れも良いように思う。さらに管楽器の濁りのない透徹した響きも印象的だった。後半で演奏された交響曲第七番の全力で駆け抜けるような第四楽章が終わった瞬間には鳥肌が立つような興奮を覚えた。久しぶりに心底楽しめたベートーベンの夜だった。 (cam:Xperia)

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 *ぼくはクラシック音楽もあまり詳しくないので、大抵は知人にCDを借りたり良いプログラムを教えてもらって一緒にコンサートに行くことが多いのです。大学の頃やドイツにいる頃はオーディオに凝っていたこともあってLPで聴いたりコンサートにもよく行ったのですが、会社に入ってからはどちらかというと忙しい時間の間をぬって細切れの時間でも聴けるジャズを聴くことが多かったですね。

 **ぼくはよく行く錦糸町のトリフォニーホールが音響もよく好きなのですが、昨日久しぶりに行ったサントリーホールはホール自体はよいのですが、変な話ですがホールの規模の割にトイレが小さすぎるのではないかと行くたびに感じます。トリフォニーホールでは男子トイレに外まで行列が並ぶことはほとんどないのですが、サントリーホールは休憩時間にはいつも長い列ができているような気がします。見た感じではサントリーホールのトイレはトリフォニーのトイレの三分の一くらいの大きさだと思います。これも良いホールの一つの条件だと思いますが…
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○○家という生き方 [Music Scene]

○○家という生き方

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 久しぶりに新日本フィルの公開練習を聴きに行った。今日はダニエル・ハーディングの指揮で行われる今週のコンサートの最終練習の一部が公開されている。今までも何回か公開練習を聴きに来ているが、指揮者によってそのスタイルや楽団員とのコミュニケーションのとり方も随分と異なっていて面白い。

 今までにもクリスチャン・アルミンクゲルハルト・ボッセなどの公開練習を聴いたけれど、今日のハーディングは今週末が本番の演奏会と言う割にはかなり細かいところまで指示をしていた。アルミンクとボッセの時はドイツ人だから通訳がついていたと思うけれど、今日のハーディングは英語で指示をしていたせいか通訳はいなかった。

 今日の練習曲はマーラー交響曲9番だった。席も自由に選べたので一階席ホール前半の12列あたりに座って聴いたのだが、そこは音のバランスがとてもよかった。マーラーの交響曲はいつ聴いても心に染み入る。ぼくは19世紀の世紀末ウィーンなどは実際には知らないはずなのに、その旋律を聴くと自分の中で何とも言えない郷愁のような感情が立ちあがってくるのを感じる。週末の本番のコンサートを聴きたかったが、その日は都合が悪く行けないのが残念。

 先程、指揮者によって団員とのコミュニケーションの取り方も違うと言ったが、音楽家同士のコミュニケーションという点では共通しているところがある。指揮者の言語がドイツ語だろうが英語だろうが殆どの指示は指揮者が身振りを交えて「♪ タリラ〜ラ」とか「♪ ンパ、ンパ」などと言語以前の声で充分通じるのだ。ぼくのような素人から見ればなんとも羨ましい世界だ。

  ぼくも子供の頃には写真家とか冒険家とか、○○家(か)という生き方に憧れたことがある。だけれども結局、音楽家、芸術家、評論家、翻訳家、建築家、作家、書家、探検家、冒険家、政治家、小説家、起業家、画家、陶芸家、落語家、声楽家、写真家、そのどれにもなれなかった。それどころか何らかの分野でのちゃんとした専門家にもなれなかった。

  経営[者]の端くれにはなったが、実業[家]にはなれなかった。世間や会社という組織の中では色々な経験はしてきたが結局はジェネラリストという根無し草のような存在になってしまった。広い視野を持つという点では経験は役に立ったが、最終的に軸足を置く場所は見つからなかった。 ○○[家]というのは、△△[士]や××[師]のように国や公的機関に資格として認めてもらう必要はない。従って「ぼくは写真家です」とか「オレは画家だ」と言えば今日からでも名乗ることはできる。

 そういう意味では今からでもそう称することは可能かも知れない。要するに○○家という生き方は、それにどれだけ自分自身の中で自負を持っているか、そして周囲や時代がそれをどこまで認めているか、というとても微妙な関係の中で成り立っているのかもしれない。 ○○家の「家」という意味は辞書で見ると専門の学問や技術の流派、もしくはそれに属する者を示すらしいから、いずれにしても何らかの専門性が必要だ。

 ○○家 というのはその専門分野における生業を示す言葉であるけれど、それ以上により高いレベルの真の○○家というものに向かった生き方そのものであるように思う。と言うことは、例え名乗ってみたところで、そうおいそれと本物になれるわけではない。

 あ、そうだ、ぼくでも今からなれる○○家があった。浪費家とか倹約家ぐらいなら今からでもなれそうだが、浪費家では金が続かないから、なれるのは倹約家くらいか。まぁ、その辺で我慢しておこう。




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安寧は [Music Scene]

安寧は

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  ここのところ毎年年末になると教会で行われる英国大使館合唱団の演奏会に行く。友人の知人がその合唱団の団員になっているので、その関係で毎年誘ってもらっている。音楽監督ステーブン・モーガン氏の率いるこの合唱団はアマチュア合唱団ではあるけれど、正式な音楽教育を受けた団員が多いこともあって驚くほど質が高い。

 今年の曲目はJ・Sバッハのロ短調ミサ曲だった。教会の建物に響き渡る透明な音は本当に厳かな空気を作り出していた。その日のオーケストラの演奏も素晴らしかったが、教会という場がその全てを包み込んで一つの完結した世界を作っていることに感銘した。ぼくはキリスト教徒ではないけれど、安寧をもたらそうとする宗教の一つのコアの部分を感じることができたように思う。

 その厳かな場に身を置きながら、ぼくはもう十五年近くも前に教えをこうた永井陽之助先生の言葉を思い起こしていた。その頃、世間は目前に迫りつつあった新しい世紀、21世紀に東西冷戦の終焉と情報化社会の到来という輝かしい未来を見出そうとしていた。ぼくも漠然としたものだがそんな希望を持っていた。

 しかし、半年間の講義が終わって最後の懇親会の席で、ぼくが先生に来たるべき世紀についての考えを伺った時の先生の答えはその希望とは全く異なったものだった。その時先生は来たるべき世紀はテロと地域・民族や宗教紛争の世紀になるだろうと言った。そしてそれは今その通りになりつつある。

 放っておけば傲慢で野放図になりがちな人の心を引き戻すには、祈りは大切なことなのだと思う。自己を超えるものや手の届かないものを敬い頭を垂れる心を失った時、ぼくらの中から何か大切なものが失われてゆくのかもしれない。しかし一方で祈りだけでは人はその業を超えて行けないのかとも思ったりもする。

 本来、安寧をもたらすはずの宗教が同時に今の惨劇も作り出している。もしかしたらその宗教が幸せにすると同じ位の数の人々を不幸せにしているかもしれない。キリスト教社会とイスラム教社会の対立だけではなく、古くはカソリックとプロテスタントの対立や、現在のイスラム教のシーア派とスンニ派の対立など同じ宗教の中でも鋭い対立が起きている。祈りは今どこへ向かっているのだろうか。

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ぼくの視界の中のスカイツリー Tokyo Sky Tree in my sight [Music Scene]

ぼくの視界の中のスカイツリー Tokyo Sky Tree in my sight

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 ぼくの生活シーンの記憶の中でスカイツリーが動き出した。この間、友人と錦糸町すみだトリフォニーホール新日本フィルの公開練習を聞きに行った。このトリフォニーホールは家から交通の便がいいこともあるが、規模的にも大きすぎず丁度いい大きさだし音だって悪くない。ぼくはどちらかといえばサントリーホールよりもこちらの方が好きな位だ。

 その日の練習演目はヴァーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」で、そのオケ部分の最初の練習日のようだった。指揮者は常任指揮者のクリスティアン・アルミンク氏。楽団員は各々自由な私服で舞台上に上がっている。練習初日ということもあってか、練習は淡々と進んでいる。アルミンク氏の公開練習は何度か見ているが、だいたいはいつもこんな感じ。

 彼はウィーン生まれということだけれど、彼のドイツ語は訛りのないとても分かりやすいドイツ語だ。もちろん、もう長いこと日本で外国人相手に話しているから分かるように話す癖がついているんだと思うが。練習の間は楽譜のページ数や、なん小節目からなどという指示は彼自ら日本語で指示していた。曲の解釈の問題などがあるときだけ専属の通訳の人を介して説明をしている。

 公開練習は朝の10時半から午後の1時ちょっと前くらいまでで、午後の練習は非公開で行われているらしい。演奏を聴き終ってホールを出て駅に向かう途中目に飛び込んでくるスカイツリーが好い。大ホールの出口を出て地上の歩道に降りる階段の丁度一段目が始まるあたりで北側を見下ろすと、まっすぐに伸びた通りの延長線上にスカイツリーが見える。

 この通りをどこまでもまっすぐ行くと隅田川に流れ込む北十間川にぶつかるが、そのすぐ対岸にスカイツリーがある。まだ建設中の頃からこのトリフォニーホールに来るたびに、ここから段々成長してゆくスカイツリーを見るのが楽しみだった。外見がすっかり出来上がってからも、もう何度もここからスカイツリーを眺めたけれど、時には厚い雲に覆われて上半身が隠れていたり、雨に霞む日もあって見るたびにその表情が変わっている。

 ぼくは高所恐怖症だからスカイツリーの営業が始まっても、そこに行って上まで昇ることはないだろうし、わざわざ傍まで見にゆくことも無いと思う。撮影ポイントを探して撮りに行くことも無いかも知れない。しかし、スカイツリーは今確実にぼくの日々の生活の中の記憶の一部になりつつある。

 さらにぼくにとって嬉しいことは、スカイツリーは方向音痴のぼくにとって優れた道しるべになっていることだ。スカイツリーが見える限りぼくは渡り鳥みたいに方角を知ることができる。そして今密かに楽しみにしているのは、夜ライトに照らされた一本の青白い針のようなスカイツリーが東京の空に浮かび上がる姿を遠くから眺めることができる日がこれからやって来るということだ。


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天使たちの記憶 ~その2~ [Music Scene]

天使たちの記憶 ~その2~

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 押入れを整理していてカミさんが見つけた一枚の色紙が、糸を手繰るようにぼくの大昔の記憶をたぐりよせた。片っぱしから捨てて身の回りを整理したいけれど、もしこの色紙を見つけなかったら永久にこの記憶は蘇らなかったかもしれない。もちろん殆どの記憶は朦朧としているし、覚えていることも細かいところはいい加減かもしれない。でも、そこには確かに生きていたぼくの時間が残っていた。

◆Episode1…映画のように
1960年代始めに「青きドナウ(Born to sing)」というウィーン少年合唱団を題材にした映画があった。少年合唱団員の声変わりを巡る少年たちの葛藤と友情を描いて、その映画が当時としては珍しくオールロケだったのもあって評判になったらしい。

ぼくがその映画を知ったのは封切りからもうずっと後になってテレビで放送されてからなので、バイトをやっている1972年頃には知らなかった。もし知っていたら本当に映画のようなことがあるんだと驚いたと思うのだが。

ぼくがバイトをしていた頃のウィーン少年合唱団の演奏ツアーでの一日はこんな風だった。移動日や休息日を別にすれば通常の一日は、まず朝食後にホテルのバーなどのピアノのあるところでの合唱のレッスンで始まる。レッスンはその日のコンサートでの演目のおさらいをすることでもあるが、同時にそれは団員の少年一人ひとりのその日の声の調子を指揮者が把握する意味もあったと思う。

昼食後は、大抵マスコミの取材やファンとの交流など何かしらのイベントが待っていた。その日の夜にコンサートが控えている時にはそういうものは早めに切り上げて、コンサートに備えて子供達に昼寝をさせた。その後、軽いオヤツをとってからコンサート会場に向かう。ちゃんとした夕食はコンサートが終わってから食べていたように記憶している。

その日の朝もいつも通り朝食後にホテルの地下にあるレストラン・バーのグランドピアノを使って指揮者がレッスンをしていた。ぼくもいつものようにそれに立ち会っていた。今日歌う曲の出だしを何回か繰り返して練習した後、合唱団員一人ひとりのチューニングに取りかかった。今日に限って一番高く澄んだ声のA君の声が伸びない。

彼は第二部でやるフンパーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」をもとにした寸劇で、女装をしてグレーテル役を演じるので大事な役所なのだ。小柄だが端正な美少年で彼を目当てに日本中のコンサート会場についてまわるファンの女の子もいたくらいだった。指揮者は「風邪気味なのかもしれないな」と言って、すぐ次の少年のレッスンに移った。

結局、その日の舞台ではグレーテル役は別の団員のB君が演じていた。その状態は次の公演会場でも続いた。A君はそういう目で見るからかもしれないけど、食事の時にもなんとなく元気がないように思えた。テレビ局のスタッフの人がウィーン少年合唱団では、団員の少年が声変わりを迎えるとその少年は退団しなければならないのだと教えてくれた。彼はそれを恐れていたのだ。

それに比べてグレーテル役に指名されたB君は傍目で見ても明らかな位はしゃいでいる。ぼくはちょっと心配になってリーダー格のC君に聞いたけど、彼にもはっきりしたことは言えなかった。次の街への移動の時も少年達の間でもそのことが何となく囁かれ始めていた。

しかし、その騒動の結末は一週間後くらいにあっけなくやってきた。その日の朝のレッスンでA君の高音は、ぼくが聴いても分かるほどに澄み切って響きわたっていた。「やっぱり、風邪だったね」という指揮者の一言で全てが元通りに戻った。B君の気の毒な位ガッカリした表情以外は。


◆Episode2…通信簿の見せっこ
当時のウィーン少年合唱団の少年達は、普段はウィーンのアウガルテン宮殿に全寮制で住んでおり、そこで音楽のレッスンや義務教育の授業も受けていた。少年達は4つのグループに別れて、そのうちの常に2グループが世界演奏旅行のために海外にいた。国に残ったグループは次の世界演奏旅行までの間ウィーンで勉強をするというわけだ。

日本公演の間のある日、本国から彼らがウィーンで勉強していた学期の通信簿が送られてきた。夕食後、子供達を大広間に集めてそのことを伝えると「ウォーッ」と歓声が上がった。中にはそんなもん見たくない、と手で顔を覆う仕草をする子供もいる。本国から同行してきた世話役の副指揮者のヴェンツェルさんが一人ひとりに通信簿を手渡す。

子供達は名前を呼ばれると、ひったくるようにして通信簿を受け取り、部屋の隅の方へ駆けて行って恐る恐る覗き込んでいる。全員に配り終わるとあちこちで通信簿の見せっこで盛り上がっている。素直に見せている子もいれば、見せたくないところを折って隠して良いところだけを見せている子もいる。

ぼくの方にあのプロレスごっこ以来よく話すようになっていた大柄のK君が通信簿を握りしめて駆けてきた。「どうだった?」とぼく。「へへへ…」他の子のように、ぼくに見せたくないところを折り曲げて一か所だけ見えるようにして、ぼくの方に通信簿を示した。"Guck mal hier! Eins!"(ほらここ見てよ、「1」だぜ!) 確かに通信簿の「体育」のところが「1」だった。なんだ、通信簿で「1」をとったのなんか見せてと思ったけど、どうやら「1」が日本の通信簿の「5」に当たるらしい。「そりゃ、すごいや!」と言うと、彼は今度はそれを他の子にも見せたくてまたすっ飛んでいった。

彼がいってしまうと、団員で一番秀才そうなR君が近づいてきて「あいつはいつも体育だけは[1]なんだよ。でも、いいヤツでしょ」とちょっと大人びた口調で言った。彼は自分の通信簿はぼくに見せなかったけれど、きっと「1」がズラッと並んでいそうな気がした。


◆Episode3…合唱団のプロ魂
演奏旅行は長期にわたるので、移動日とは別にコンサートやイベントを入れない休息日を設けて子供達を休ませる配慮をしていたが、それでもツアーの終盤になると疲労がたまるのか、ただでさえ白い少年達の顔色が心なしか青白くみえる。

ツアーの最終日は沖縄の那覇だった。ここが終われば後は東京へ戻って上野の文化会館での最終公演を残すのみだった。那覇に入った当日はコンサートもないので子供達をビーチに連れて行った。ところがそこで子供の一人が転んでサンゴ礁で膝をパックリと切る怪我をしてしまい、救急車を呼ぶというハプニングが起こった。

やはり疲れているのかもしれない。幸い数針縫っただけで翌日のコンサートには支障がないことがわかった。ツアー最後のコンサートはみんな緊張していた。何事もないように。第一部は教会音楽を中心とした合唱曲の部で、毎週日曜日の朝のミサにはウィーンの聖シュテファン寺院でウィーン少年合唱団が歌っている曲なども披露する。

第二部はフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」などをオペッレッタ風にした寸劇で、第三部はウィンナー・ワルツが中心だ。日本の五木の子守唄などを教会音楽風にアレンジしたコーラス曲も披露する。緊張はしたが第三部まで順調に運んだ。第三部では合唱団員は客席に向かって二段に作られたひな壇に並んで立って歌う形になっている。

プログラムが全ておわって、最後のアンコール曲は「小さい秋」だったと思う。ぼくらはもう舞台の袖でお疲れ様を言おうと待機していた。その曲も後半にさしかかった頃、袖で見ているぼくらにも分かるほど二段目の真ん中で歌っている少年の身体が前後に揺れ始めた。舞台の上でずっと立っていたので脳貧血を起こしたのかもしれない。

「倒れる!」と思った瞬間、両側の少年が客席から見えないように揺れている少年の後ろに手を回し腰のベルトを掴んだ。その間、立ったまま揺れている少年も支えている少年も歌い続けている。「あと一息だ」 幕が降りると同時にぼくらは舞台のところにとんで行った。まさに合唱団の少年たちのプロ魂を見せられた思いだった。


 ◆◆◆

 ぼくは地方公演の演奏会で開場前のガランとした舞台上、ピアノの前に座っている指揮者のアングルベルガーさんと雑談をしながら客席を見渡すのがとても好きだった。機嫌のいい時は彼は「君の印象は、こんな感じだよ」といって即興でピアノを弾いてくれた。

 ウィーン訛りが殆ど分からないぼくに彼はゆっくりと話してくれた。「君達は良いなぁ」 君達とは日本人のことを言っているようだった。「君達には可能性がある」、「え、可能性って?」、「ぼくたちはね、もうどうやったってぼくたちの中からはモーツァルトベートーベンを超える音楽家は出てこないと知っている。君達にはまだそういう可能性が残されている」

 それは、どういう意味だかぼくにはよく分からなかった。ウィーンが謳歌した西欧文明のプライドともとれたし、本当に非西欧の未知数に想いを寄せているのか… よく分からなかった。 

 世間知らずだったぼくは、このバイトで少し自分が大人になったような気がした。テレビ局の人達を通じて上ばかり見ているサラリーマンの人間関係のうれしくない面や、ツアーコーディネートで派遣されていた旅行会社の社員が悪天候で宇高連絡船が動かない時、何とか間に合って合唱団が四国側に行けなければ演奏会が中止になる、そうなれば旅行会社の責任問題だと主催者側に詰め寄られてホテルの部屋で男泣きしていた姿などを見て、世間というものの厳しさも垣間見た。今、ふつふつとそんな光景が思い浮かんでいる。

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 *ぼくがドイツ語を何かのために使ったのはこれがおそらく最後の機会だったと思います。それ以来、就職もまったく関係のない仕事についたこともあって、短期の旅行を除いては40年近く話すことも聞くことも殆どありませんでした。また少し勉強してみたいな、とは思っていますが…

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天使たちの記憶 [Music Scene]

天使たちの記憶

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 少しずつ家の中の不要なものを整理して身軽にしようと思っている。先年、ばあさんのために家を少しリフォームした時、一階の納戸にしていた部屋のものを二階に移す必要があってやってみたら、こんなことは歳をとったらできないなぁと痛感した。

 そこで時間がある時に、カミさんと少しづつ棚や押入れを整理して捨てられるものはできるだけ捨てるようにしている。先日もカミさんが二階の押入れの中を整理していて何かを見つけた。「ねぇ、こんなものが出てきたわよ」 カミさんがぼくに手渡した色あせた封筒を開けてみると、これも黄色っぽく色あせたボール紙と写真が出てきた。

 良く見るとそれは色紙で、そこには一枚の写真が貼ってありその下に寄せ書きのように多くの名前が書いてあった。そこにはドイツ語で下のようなタイトルがついていた。
 「(gillman) さんへ、ウィーン少年合唱団と過ごした素晴らしい時間の想い出に、1972年」
もう40年も前のことだ。それは1972年、ぼくが天使の歌声といわれたウィーン少年合唱団に同行した長い日本全国演奏旅行を終えて彼らと別れる時に団員の寄せ書きでもらったものだった。

 その頃ぼくはまだ大学生だったが、ある日知り合いからウィーン少年合唱団の日本公演のスタッフのバイトをしないかと誘われた。その公演は現在でも不定期で続いているらしいが、現在のテレビ朝日(当時は日本教育テレビといった)が数年に一度ウィーン少年合唱団を招いて日本全国演奏旅行を主催していた。その演奏旅行は当時は北海道から沖縄まで長期にわたる大がかりなものだった。

 ぼくは試しに数日間やってみるつもりで、軽い気持ちで引き受けたのだが…  バイトの仕事はドイツ語の通訳とは言いながらも地方公演ではツアーに同行するスタッフでドイツ語がわかるのは一人だけなので、子供達の世話から指揮者と会場のスタッフの打ち合わせの立会い、果ては出たとこ勝負でいきなりテレビのモーニングショーの通訳までやらされた。要はドイツ語のできる使い走りのADみたいなものだ。

 やってみるとぼくの拙い語学力では何とも心もとなく、早々に辞めようと思っていたが、どういうわけか合唱団指揮者のアングルベルガー氏に気に入られて、結局東京以南の演奏旅行は全部付き合う羽目になった。もともと大学生で暇だからずっと一緒に全国を周るのは問題はなかったけれど、毎日が綱渡りだった。

 いま色紙を見ながら子供達の顔を見ていると、様々なことが脳裏に浮かんでくる。当時、普通は地方公演に行った街の結構良い洋式のホテルに泊まるのだが、たまに日本旅館に泊まって子供達を大広間に布団を敷きつめて寝かせることがあった。確か四国の時だったと思うけど、ぼくが子供達を寝かせているうちに日本の中学生の修学旅行みたいにまくら投げが始まってしまった。

 というより本当はぼくが子供達にちょっと教えたのだが、大騒ぎになってテレビ局のツアー・スタッフが飛んできたことがある。合唱団といっても要は8歳から13,4歳の遊び盛りの少年たちだ。何しろ子供達は大広間の布団にみんなで寝るのが嬉しくて、興奮していてとても寝そうもなかったのだ。浴衣を着こんだ子供達が前をはだけて布団の上を走りまわっている。

 そのうちぼくも入ってプロレスごっこを始めてしまった。しかし、子供に怪我をさせたらどうするんだと、きっちりと叱られた。でも、それ以来子供達は何かと言うとぼくを兄貴分として頼りにするようになった。怪我の巧妙、ではなく怪我もしなかった巧妙だった。

 もう大昔のことだから、もちろん大半は霧の向こうの出来事のように霞んでしまっている。でも、不思議にとても細かいことまで覚えているシーンもある。カミさんが見つけた一枚の色紙のお陰ですっかり忘れていたはずの天使たちの記憶が蘇ってきた。尤も、こんなことをしているからいつまで経っても身辺の整理ができないのだけれども…

   ~つづく~

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Lied der Nacht 夜の歌 [Music Scene]

Lied der Nacht  夜の歌

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あっと言う間に12月になってしまった。もちろん10月や11月を飛び越していきなり12月になったわけではないのだけれど、気持ちの上ではそんな感じだ。若い頃は「一年なんてあっという間だよね」という大人たちの会話に、へぇそういうもんなんだとぼんやりと耳を傾けていたが、気がついたらいつの間にか自分がそういう会話をする側になっていた。

 毎年12月を迎えるたびに時が加速度的に過ぎ去ってゆくことを感じる。仕事をしている時代に12月を迎えた時の「時」の速さの実感は「もう12月になってしまった、なのにアレもコレもまだ片付いていない…」という感覚だったが、今はすべきことが山積みになっているわけではない。なのに時が足早に自分の前を過ぎ去ってゆく実感は以前にもまして強くなっている。

 12月は時の流れを実感させてくれる月だ。街の様子も前の月とはガラッと変わってくる。久しぶりに2週続けて赤坂のサントリーホールのコンサートに行った。両方ともワレリー・ゲルギエフ指揮のロンドン交響楽団のコンサートだった。2回ともマーラーの交響曲が中心のプログラムだった。

 11月26日の回の時、ちょっと早めに行って広場の見えるカフェで飲んでいた。開場までまだ時間があるためかホール前の広場は閑散としている。二回目のコンサートは12月1日だった。前回と同じように早めに着くと、ホール前の広場にはこの前とは打って変わって無数のイルミネーションが輝いている。あ、もう12月なんだ。

 コンサートは二回ともすばらしかった。特に2回目のマーラーの交響曲第9番の最後の楽章の消え入るような静寂の空気は今までのどのコンサートでも味わったことのないものだ。曲が終わってもゲルギエフが指揮をしたその腕を下ろすまで、おそらくは15秒以上もの間、観客の息一つの音もしなかった。聴衆も見事だった。

 興奮の冷めないまま外に出る。無数のイルミネーションが森の木々にとまった季節外れの蛍の群れのようにまたたいて輝いている。一緒に行った友人とビールを一杯だけ飲んで帰ろうということにして広場の前のバーに入る。光のゲートの向こうから一瞬、マーラーの夜の歌が聞こえてきたような気がした。

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 <Concerts>
 11月26日…指揮:ワルター・ゲルギエフ ヴァイオリン:諏訪内晶子 ロンドン交響楽団
        ①シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47
             ②マーラー 交響曲第一番 ニ長調 「巨人」
 12月1日…指揮:ワルター・ゲルギエフ  ロンドン交響楽団
        ①マーラー 交響曲第九番 ニ長調


*今回は友人のおかげで両方のコンサートとも指揮者の息吹やうめき声まできこえるような前列2、3列の席で聴くことができました。若い頃であれば、コンサートが終わり次第、耳の中にその音色が残っているうちに家に飛んで帰って自分のオーディオの調整をするところなんですが、今はもうただ音楽の余韻に浸っていたいという気持ちが強くなりました。

 それはエネルギーが枯れてしまった老化なのか、それとも音楽との付き合いが変わってきたのか。自分では後者の方だと思いたいんですが… 

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邪険にしないで  Tannoy [Music Scene]

ドスッ、こら~っ

ドスッタマスピーカーボックスの上に飛び乗るときスピーカーのコーンを蹴る音
こら~っ…そして当然怒られる声



このスピーカーはもう30年も使っている

イギリスのタンノイ社(Tannoy)製のレクタンギュラー・ヨークというスピーカーシステムだ
30年前、結婚したての頃、当時の給料何ヶ月分もの大枚をはたいて(但しもちろん分割払い)買ったものだ
それ以来ずっと使っている

この1m10cmのスピーカーボックスは楽しいときも、つらいときもずっと我が家を見続けてきた
いまのスピーカーはほとんどが密閉型で密閉した容器で音を前に出すように出来ているので皆コンパクトに出来ている
僕のスピーカーはバスレフ型といって、箱で音を響かせるタイプなので、箱が大きい、昔は皆このタイプだった

タマが子猫の頃は、このスピーカー前面の布(サランと呼ばれるもの)にヤモリのようにへばりついて登るものだからバリバリになってしまい二回も張り直している
今はクロが時々登っている
スピーカーのコーン紙も一度張り直した、船便でイギリスへ送り三ヶ月もかかった

音は柔らかく特に弦楽器が良いがアンプとの組み合わせによっては柔らかすぎることもあった
この30年の間にメディアもLPからオープンリール・テープ、カセット・テープ、レーザーディスク、CD、DVDそしてハードディスクとめまぐるしく変わってきた

そのたびにこのスピーカーはそれなりの順応性を示してきた。それどころかCDになったときは、ともすれば硬質になりがちなデジタル音をやさしく箱で鳴らしてくれる素晴らしいパフォーマンスを発揮した

現在は最先端の技術で優れた製品が毎日のように世に出ている
しかしその中で生涯つきあっていける製品はどれくらいあるだろうか
製品との幸せな出会いに感謝、感謝

だからタマよ、あまり邪険にしないで

バイロイト音楽祭 [Music Scene]

~バイロイト音楽祭の日本~    2005年7月25日 ドイツRP Onlineから要約 

バイロイト音楽祭初日 バイロイトで日本人が初めて指揮棒を握る

今回"トリスタンとイゾルデ"を指揮する大植英次氏

第94回バイロイト音楽祭が月曜日の朝に開幕した。

日本人リヒャルト・ワーグナーの間には奇妙な関係がある。一面では、控えめな国民である日本人は、感動させ陶酔させるような他の音楽家の音楽にもめったに感情を露わにしない。しかしながらこの日出ずる国の人々はこの作曲家の何時間にもわたる楽劇には特別な偏愛を寄せている。
*日本人のワグナー好きをいきなり言われてしまった。確かに日本のワグネリアンには「偏愛」という表現が合うかもしれない。Vorliebe=「特別な好み・関心」という言葉が使われています。

・日本人がバイロイト音楽祭で指揮すると言うことは大きな感動を呼び起こしている。多くの日本の新聞がこの初日の開演を広範に報じたとベルリンの日本大使館の高島大使は述べている。バイロイト音楽祭は日本では有名であり、今年も大勢の日本人がバイロイトにやってくるだろうと述べている。
*そんなに広範には報道されてはいないと思うけど…、もっと報道されても良いニュースだと思うが

・バイロイト観光局のマーケティング・マネージャーのフランク・ニクラスはバイロイト音楽祭を訪れる宿泊客の4~5%は日本からの客であると見ている。これにはミュンヘンやニュールンベルグからやってきて切符を手に入れようとする日本人は入っていない。
*バイロイト市にとっては良いお客さんというわけだ

・「ドイツ文化、とりわけドイツ音楽は日本では伝統的に高い価値を持っている」、とドイツ語学教授の竹辻氏は述べている。「モーツァルト、ベートーベン、シューベルトそしてこの20年くらいからリヒャルト・ワーグナーもそうです。」オペラファンであり九州産業大学の教授でもある彼は、日本のワーグナー協会の創設者の一人でもある。同協会は1980年以来、この作曲家のファンの重要な会合を開いているし、1950年代から音楽シーンをずっと見つめている。
*竹辻氏の漢字は間違っているかもしれません
**モーツァルト、ベートーベン、シューベルトに比べるとワーグナーファンはもっと少ないし、熱烈なファンが多いと思う

・バイエルンやウィーン国立オペラ劇場が日本で公演を行うと切符はすぐに売れ切れてしまう。そこにはワーグナーの作品が入っていなければならない。そのためには法外なお金がかかる。歌手は大喝采を浴び、オーケストラの団員も大歓迎される。
*確かに高い切符が飛ぶように売れる

・二年前、日本の小泉首相ゲルハルト・シュレーダー首相とともにバイロイトに現れたのも偶然ではない。彼もワーグナーファンの同好会に属しており、今年の夏の"トリスタンとイゾルデ"の公演には大植氏とともに来たかったのだ。しかしながら日本の議会ではそのころ重要な法案が提出されており、無理なのだと高島大使は述べた。
*そうだ、今はそんなことしている場合じゃないよね

・大使は自分自身でも毎回バイロイトを訪れており、彼の情熱をこのように語っている。「初めてワーグナーの音楽を聞いたとき、気が重くなりましたが、聞くほどにますます魅せられています。」

・日本では、教育熱心な人ほどクラシック音楽を聴いたり、演奏したりするという傾向がヨーロッパより強い。日本の皇室では皇太子はヴァイオリンを弾くし、父親の天皇陛下はチェロを弾き皇后陛下がピアノ伴奏をする。
*ハイソな趣味?、そうはっきり言われちゃうと、引いちゃうが、そんなイメージがクラシック音楽を遠いものにしているのも確かでは

・四歳の時にはもうピアノを弾いていた指揮者の大植英次は、武家の家系の出だ。この広島出身の北ドイツ放送フィルの主席指揮者は竹辻氏が強調したように実際ほとんどオペラの経験はない。しかし優れた指揮者はワーグナーを指揮できるはずだ!。東京から来たこの音楽に心酔している教授はここバイロイトで自分の目でそれを検証することが出来るだろう。
*「武家の家系の出」はドイツ人には受けるのかな?…、今度は僕も外人には武家の出だと言っておこう

*Ansicht…少し、茶々を入れましたが、日本人がバイロイトを振る、というのはやはり感無量だと思います。今ヨーロッパのオーケストラからは日本人の演奏家が姿を消しつつあります。社会主義陣営が崩壊して東欧から優秀な演奏家が大挙して流入してきたのが原因のようです。素晴らしい感性と技術をもった日本人プレーヤーがクラシックの分野でももっと出て欲しいと思っています。
大植さんはどんな曲でも全編暗譜で振るのもすごい、がんばれ!


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