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寒椿 [gillman*s park]

寒椿
 
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 ■ 寒椿の 紅凛々と 死をおもふ (鈴木真砂女)
 
 大寒を経ていよいよ本格的に寒くなってきた。散歩中はゆっくり歩いているので中々身体が温まらない。北側の空にわずかに残った青空を覆うようにうろこ状の雲が広がっている。

 素の姿になった樹々の上に広がる厚い雲とその裏側で光を放ってる白い太陽。冬の一番美しい光景に思える。丘の中腹の寒椿の花も数輪を残して盛大に散った花びらが艶やかな姿を見せてくれる。実はいまだに寒椿山茶花の区別がつかないのだけれど、まぁ、合わせて冬椿と思っていればいいのか…、位いの知識しかない。

 寒椿の散った様を見ると何だか気持ちがワサワサとする。怪しいような美しさがあって鈴木真砂女の句のようにどこか死を想わせるような…。ぼくらの、と言っては語弊があるのでぼくの中ではこの美しさは死と隣接している感じがするのだ。

 ぼくに限らず日本人の美意識にはどこか果ててゆく美しさをこよなく愛する傾向があるような気がする。桜もそうだけれど、その盛りよりも盛りを過ぎて散り行くさまに独特の美を感じてしまう傾向があるのではないか。ぼくの中にもそういう心情がある。

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 よく言われるように徒然草の冒頭の、

 花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
 雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
 咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。

 といったような美意識が日本文化の底流に流れているのかもしれない。これは日本人の強さでもあり、同時に弱さでもあるかもしれない。日本文化の先人達の美意識をみるに、万物の有限性を認識しそれさえも愛でてゆく心情は深く人生を味わい、生を慈しむ原動力にもなっていると思う。しかし同時にそれに酔いしれてしまえば滅びの美学のような危うい方向に行きかねない要素をもはらんでいる。

 先の戦争に限らず為政者は日本人のそういう心情を利用し、それに付け入らんとしたことも確かだ。古くは忠臣蔵から戦前の軍歌「同期の桜」の"…みごと散りましょ国のため"のような恣意的で短絡的な潔さは結局誰の人生も幸せにはしない。これからの日本人に必要とされるのは、もののあはれを愛でる心情と一方では何があっても生き抜くという強かさ(したたかさ)の両方を兼ね備えることなのかもしれない。
 

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  ■何といふ 赤さ小ささ 寒椿 (星野立子)

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晩年を歩く [gillman*s park]

晩年を歩く
 
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 正月の朝寝坊癖がついてしまったのか朝飯から散歩の時間までが少しづつずれ込んでしまって、もう十時過ぎ。もとに戻さねば、と…。今日は風もなく晴れて穏やかな土曜日。

 丘の上で凧あげをしていた一家、というかしようとしていた一家。丘の上でも風が無いのでお父さんが悪戦苦闘しているけど中々上がらない。家族は少し飽きてきた模様。やっと風を捉えて凧が少し舞い上がった時、息子が駆け寄った。お父さんはちょっと誇らしげだ。ぼくはこういう小さなドラマが好きだ。

 公園は少し正月の空気を残しながらも平素の土曜に戻りつつある。ぼくももとに戻さねば。散歩しながら、ふと「晩年」という言葉が頭に浮かんできた。ああ、自分は今、晩年を生きているんだ、と。

 晩年を英語で言うと"Later years"と言うらしい。そのままだなぁ。ドイツ語にも"spätere Jahre"という全く同じ表現もあるけど、一方"Lebensabend"という言い方もある。直訳すれば「人生の黄昏(たそがれ)」みたいな。そうか、ぼくは今黄昏の中を歩いているのだ、昼間なのに…。
 

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 ぼくの好きな小説家、城山三郎の作品に「部長の大晩年」というのがある。三菱製紙を五十五歳で定年退職後に俳人として名をはせた永田耕衣(本名:軍二)の後半生を描いたものだ。耕衣は現職時代も真面目で人望もあったが、ちょっと一風変わったところもある人物だったらしいが、退職時の慰労の宴会も断ってさっさと俳句や書の世界に埋没していき九十七歳の天寿を全うした。

 ぼくは勤め始めた若い時から早めに隠居したいと思っていたけれど、特に何がやりたいということではなかった。しかし辞めてみてから若い頃の言わば恩返しにヨーロッパで日本語を教えたいという夢がでてきて、それなりに勉強もし日本語教育能力検定試験も受かり大学院でも学んだのだけれど、結局母の介護もあってその夢は諦めざるを得なかった。

 その後母の認知症が強くなって大学の講座で日本語を教えていたのも辞めたのだけれど、その前からおこなっていた日本語学校での活動は二十年近く今も続いている。夢の形は変わったけれど、後悔はしていないし母を看取ったことで今まで見えなかった世間の色々な景色を見ることが出来たことが、今の自分の生き方に大きく影響していることを想うとそれで良かったと思っている。

 自分の毎日を見てもとても「大晩年」という訳にはいかないけれど、苦労を掛けたカミさんと一緒に毎日飯が食えるだけで大いに満足しているし、夢というほどではないが写真をはじめやりたい事、知りたい事はまだまだ山ほどある。最後の時に高木良の小説「生命燃ゆ」の主人公の台詞のように「未練はあるが、悔いはない」と云えれば、それがぼくにとっての大晩年ということになるだろうか。
 
  ■ 少年や 六十年後の 春の如し (永田耕衣 / 句集「闌位」より)
 


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公園散歩初め [gillman*s park]

公園散歩初め
 
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 正月五日。今年最初の公園散歩。風が冷たい。今日の空は天気の安定した冬の東京の青い空だ。見ごたえのある雲が公園の空一面に広がる様子も捨てがたいけれど、この青空も好い。鈍色の空から降って来る大雪の便りが北の国からくるたびにこの東京の空をありがたく思う。

 いっとき、冬が嫌いになった時期がある。特にまだ夜も明けぬ暗いうちに家を出て出勤していたサラリーマン時代には、冬の朝の冷気が恨めしかった。そのあとに控えている電車での押しつぶされそうな着ぶくれラッシュも憂鬱の種だった。

 もちろん今でも寒いのは嫌だし、歳をとると冬は筋肉が硬化して朝起き出すのも冬は辛い。それでも公園に来て素になった樹々の凛とした姿や飛来する野鳥を見るのは他の季節にはない楽しみだ。空の青を映した池の水面に日光が当たって光の粒が躍っている。

 いつも一休みするベンチの脇の木の枝に取り残されたようなセミの抜け殻。夏の間あんなに見られた蝉の抜け殻も鳥に食べられたりでこの季節になると大方のものは姿を消すのだけれど、枝の目立たない処に隠れるようにポツンとしがみついている。「冬の蝉」という言葉が浮かんできた。確かそんな歌があったっけ。

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 足元に目を移せば針のように細いメタセコイアの落ち葉が降り積もっている。池のほとりの落羽松の木々もすっかり葉を落としてすっくとしたスケルトンの姿で立っている。あっと言う間に去っていった短い秋を満喫しないうちに、気が付けば冬の真っただ中。でも、この青空に免じてそれも良しとしよう。

 ■人古く 年新しく めでたけれ (山口青邨)
 
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空が [gillman*s park]

空が

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 今日の公園は空が素晴らしい。まるで夏を想いだしたような湧き立つ雲の西の空、波のような雲のうねりの東の空、そして今にも降ってきそうな黒いカーテンが頭を押さえつけるような北の空。それが一つの空の中に共存している。この公園の素晴らしさは今頭の上に目いっぱい広がっている空だと思う。

 考えてみたらぼくは生まれてこの方、若い時のごく短い時期を除いてずっと東京の下町に住んでいたから、視界にビルや山など空を遮るものが見えないのが当たり前だった。朝起きたら目の前に山がそびえたっている土地での生活も憧れはするが、広い空を見つめる生活も悪いものではない。

 子供の頃は近所の原っぱでみんなで遊んでいる時も、頭上には広い空が広がっていた。その視界の中に見えたのは家のすぐそばにあったお化け煙突と風呂屋の煙突だけ。東京タワーが出来るまではそのお化け煙突が東京で一番高い建築物だった。今も頭上の広い空はぼくの原風景だ。

 小学生の頃は空はまだそれ程汚れてはいなかったけれど、大人になるにつれて公害が問題になるほど空も水も汚れてきた。日本がもがき苦しみながらでも、いろいろな犠牲と克服の努力の末にきれいな空を取り戻したのは誇れることだと思うけれど、今度は地球温暖化という季節をも変えてしまう、しかも一国だけでは対処できない変化に直面している。天を仰いでため息をついていても始まらないが…。
 
 ■ 寒い雲がいそぐ (種田山頭火「鉢の子」)
 

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ありふれた夕暮れ [gillman*s park]

ありふれた夕暮れ
 
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 ■夕ぐれ 

 「夕焼小焼」
 うたいやめ、
 ふっとだまった私たち。

 誰もかえろといわないが。

 お家の灯がおもわれる、
 おかずの匂いもおもわれる。

 「かえろがなくからかァえろ。」
 たれかひとこと言ったなら
 みんなぱらぱらかえるのよ、

 けれどももっと大声で
 さわいでみたい気もするし、
 草山、小山、日のくれは、
 なぜかさみしい風がふく。
 
      (金子みすゞ)
 

 
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 夕方に散歩。猫のレオに昨日ペットクリニックの先生に貰ってきた薬を飲ませて少し様子をみていたらもうお昼に。少し部屋を掃除していたらもう3時過ぎ。公園に行って今日が日曜なのを想いだす。もう…と言うか、あっという間にまた日曜日がやって来る。

 なんか週の中身が頭の中から抜け落ちているみたいな感覚。何にもしなかったわけではなくて、結構動いた週のつもりだったんだけど…。少し気落ちしながら歩く。そんな気持ちにも夕暮れは優しい。しみじみと散歩。
 
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 *お散歩カメラで手持ちなので大分ノイズがでていますが、腕と知識がイマイチなのでご容赦を!

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蜻蛉 [gillman*s park]

蜻蛉
 
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 残念なことに公園で見かけるトンボが種類も数も年々少なくなっている気がする。ぼくは子供の頃からトンボが大好きで、小さな頃この辺りで見かけたオニヤンマギンヤンマはぼくらの英雄だった。ホバリングなんていう言葉はその頃は知らなかったけれど、目の前の空中で静止して次の瞬間にはあっという間に他の場所に居る、まるで忍者みたいだった。そのオニヤンマにはもう長いこと出会っていないのが寂しい。

 トンボというのはもとは「飛ぶ棒」というのが変化してトンボになったらしいけれど、漢字で書くと「蜻蛉」で「セイレイ」とも読むが、他にも「カゲロウ」や「アキツ」とも読むらしい。アキツは古い日本語で神話では日本列島を「アキツ島」と呼ぶほどトンボがたくさん飛んでいたのかもしれない。カゲロウはトンボとは違う昆虫で今では漢字で書く場合には「蜉蝣」という漢字の方を使うことの方が多いみたいだ。

 色々な国の言葉で昆虫などの名前をみると、その文化がその虫をどう見ているかが想像できて面白い。ぼくは特にドイツ語のトンボの単語が好きだ。ドイツ語ではトンボのことはWasserjungfer(ヴァッサーユングファー)で意味は「水辺の乙女」という意味。森の中の水辺を優雅に動き回る妖精みたいな可愛い名前だなぁ。

 そう言えばピーターパンに登場する妖精のティンカー・ベル(Tinker Bell)はトンボそっくりの飛び方でホバリングもする。ドイツ語でのトンボにはLibelle(リベッレ)という言い方もあるけどぼくはWasserjungferの方が好きだ。

 英語ではトンボはdragonflyで「竜みたいなハエ」と解説しているものもあるけど、確かにflyはハエだけれど~flyという昆虫はfirefly(ホタル)やbutterfly(蝶)など何種類か居て、蝶などはどう見てもハエには見えないので~flyはハエというより飛び回るもの、くらいの意味だろうと思う。

 firefly=fire+flyがホタルなのは何となく理解できるけど、じゃあbutterfly=butter+flyとなると、あのバターなのかな、とすると何故バターなのかなと調べてみたら面白いことが分かった。諸説あるらしいが、ヨーロッパの古い魔女伝説が由来というのが有力だ。古い言い伝えでは魔女は蝶々に化けて農家のバターやクリーム(乳脂)を舐めて回るというのがあって、それが由来というものだ。

 そう言われてみると、ドイツ語では蝶はSchmetterling(シュメッタリング)というのだけれど、その意味はSchmetter(Schmetten)=クリーム+ling=~という性質をもつ生き物、ということで「クリームを舐めるヤツ」みたいな感じで、それは英語のbutterflyと同じではないか。恐らく同じ伝説が起源になっているのだろうと思う。トンボから蝶々へと大分脱線してしまったけれど…。
 
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and also...
 


*上のトンボの可愛いアニメーションGIFはアメリカのフリー素材のホームページからのものです。ここには多くのアニメーションGIFが載っており見ているだけでも楽しいです。使用する時のお願いとしてこのサービスのURLを紹介するということですので、以下に紹介しておきます。
Thousands of animated gifs, images, pictures & animations: 100% FREE! (animatedimages.org)

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断捨離 デジタル写真 [gillman*s park]

断捨離 デジタル写真

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 この間から断捨離の一環として昔のネガフィルムを整理して必要なものだけスキャンしているのだけれどその作業はまだ続いている。というより単調な作業に少し飽きてしまってここのところはデジタル写真のファイルを整理している。と言ってもデジカメの画像はネガフィルムのように場所をとる訳ではないので他の断捨離のように見かけ上モノが減るという訳ではない。

 高校や大学の時は自宅に暗室も作って写真で遊んでいたけれど、勤め始めてからは仕事に追われて写真どころではなかった。やっとリタイアしてまた写真をやりたくなったのだけれど、その頃はもちろんまだ黎明期だが既にデジタル時代の到来が見えていた。というわけで写真を再開してからは全てデジタルということにした。

 デジタルカメラを使い始めて25年くらいになるのだけれど、写真ファイルは一応時系列ファイルにしてはある。何を撮ったかはおぼろげながら頭に入っているが、もう一度整理して気に入った写真などをレーティングしておきたいと思って全てLightroom Classicに取り込んで時間がある時に覗いている。

 枚数は風景なども含めて日常のものが10万枚、公園を撮ったものが6万枚くらいで25年という期間にしては思ったよりは少ないけれど、それでも全て目を通すのは大変そうだ。すっかり忘れていた写真や、ああ、あの頃はこういう撮り方をしていたんだと良い振り返りにはなる。まぁ、同時にちっともうまくなっていないこともばれてしまうけど…。

 これは2005年頃。初代から使っているSony Cybershot DSC-Fシリーズで撮った写真で35万画素程度だから画像も荒く、平面的ではあるが好きな写真だ。世の中ではまだデジタルカメラなんて特にプロの世界では使い物にならないし、これからもそうだろうという人が多かった。でも、それでも公園で撮るのが楽しかった。その楽しさは今でも続いている。


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 *このカメラのレンズがとても気に入っていました。この一世代前のSONYのデジカメはMavicaと言ってフロッピーディスクに画像を記録するものでした。塗り絵のような画像でした。しかし秋葉原で初めてそのカメラに触れた時、これからはデジタルカメラの時代が来るだろうと予感しました。でも、フィルムカメラはそれはそれで大切に思っています。音楽におけるLPレコードもそうですが、優劣よりもメディアの多様性という観点から存続して欲しいとは思っています。

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眼差し…のような [gillman*s park]

眼差し…のような
 
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 ここしばらく雨が続いてその間に秋本番に急降下したような感じ。やっと今日晴れ間が出て来たので散歩。今日は家を出る前にお散歩カメラをいつもの16:9アスペクト比から1:1のスクウェアに設定してみた。

 ぼくはどちらかというと撮るものから少し距離を置いたスタンスが好きなので、全体的な状況を把握できる16:9というアペクト比が好きだし、今は画像を主にPCやテレビの横長の液晶画面で観るということを考えるとそれも時代にあっているとも言えるかもしれない。もちろん紙にプリントされた写真の世界はそれでも少しも魅力は失ってはいないけれど…。

 たまたま今使っている散歩カメラには1:1というアスペクト比があるけどぼくの持っているミラーレスカメラには3:2と16:9というアスペクト比だけで正方形という縦横比率がない。

 レンズの画角とアスペクト比はいわば撮る人の「眼差し」とも言えるのでそれによって見えてくるものも違ってくるような気がする。そういう意味ではヴァリエーションがあった方が良いのかもしれない。

 もちろん、今は記録画素数が大きいので後処理ですることもできる。3:2などのアスペクト比で撮っておいて、後で正方形にトリミングすればよいのだけれど、それではやっぱり何か違うような気がする。それは今までの慣れ親しんだ眼差しとは異なるのだ。撮る時にそのアスペクト比で見えているということが大事で、それによって撮りたいものも変わって来るような気がするのだ。
 


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 散歩なのに四角い世界に意識がとられて今日は足の方が疎かになっているかも。これじゃ本末転倒だなぁ、もっとリラックスしないとモノが見えてこない。真っ赤に色づいたピラカンサの前の鉄柵に絡み付いたツルの枯葉が、どこか鉄製のアールヌーボーの鉄扉みたいに見えた。どういうイメージがこの四角い世界に馴染むのだろうか。

 ぼくは最近あまり撮る機会がないけど、真四角の難しさは特に風景写真にもありそうだ。絵画でも風景は横長が基本になっていそうだけれど、クリムトは何点も正方形のキャンバスに風景画を描いている。特にアッター湖での一連のがあるけれど、彼も構図には苦労したらしく湖畔の建物を描くのにわざわざ湖にボートを出してそこから描いたりしている。

 写真で言えばビビアン・マイアーがローライフレックスで撮った四角い画面のスナップがとても素敵だ。上から覗き込んで撮るタイプのカメラを首から下げてローアングルからスナップを撮っている。何はともあれまず真四角の世界も好きになることだな。まぁ、そんなことはもっとちゃんと撮れるようになってから考えればいい事なのだけれど…。
 

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生活の芯 [gillman*s park]

生活の芯
 
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 昼前に散歩。台風一過の秋晴れとはならず曇り。しかもこの週末はまた雨らしい。ベンチでは常連の年寄りが新聞を読んだり、鳩と遊んだりしている。平日の公園を訪れる人は大きく三種類に分かれる。

 ひとつはぼくみたいに散歩自体が目的の人たち。二つ目は犬の散歩に来る人たち。彼らはそこここに犬友達がいるみたいだ。三番目はランニングをしている人たち。散歩をしているとその間にランニングをしている同じ人と何度も行き会う。当然ぼくが公園を一周する間に彼らは何週もするからだけれど…。

 その格好も様々だけれど、例えばぼくは散歩の時は大体ジーパンにTシャツかパーカーで、必要に応じてウインドブレーカーなどを着ている。他の人たちも大差はなくいわゆるカジュアルな恰好をしている。公園の散歩というとドイツで下宿していた若いころ、隣の部屋のレンツおばさんのことを思い出す。
 

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 プラチナブロンドの七十代のおばあさんで一人で住んでいた。(当時はぼくにとって60過ぎた人はおじいさん、おばあさんに見えていた) おばさんの部屋とぼくの部屋はもともと続き部屋だったのを仕切りのドアにカギをかけて分けて使っていた。したがって隣の部屋の気配は分かるのだけれど…。

 そのおばさんは午後になると毎日のように公園に散歩に行く。その時のいでたちは鳥の羽が刺してあるフェルトのチロリアンハットを被り、お気に入りのツイードのジャケットを着て、脚が悪かったのでステッキをついて、でも少しいつもより背筋を伸ばして颯爽と…まるで日曜日に教会に行く時のお出かけ着みたいだった。

 そういえば下宿のオーナーのフィッシャーおばさんもちょっとそこまで買い物に行くのにもシャンとした恰好をしていた。もう半世紀も前の、その時既に老境になっていた人たちの話なんで、それが今でも通じるドイツ人の典型的な例ではないと思うのだけれど、ぼくはそれは嫌いではなかった。と、いうよりそういう生活のありようが好きだった。

 ひるがえって今は、コロナ禍のせいもあって、すっぴんにマスクをしてジャーシー着てコンビニに行き買ってきたものをプラスチックトレイのままテレビをみながら食べている、なんてことも多いかもしれない。それはそれで、それなりに合理的ではあるので、他人がとやかくいう事ではないけど…。

 あの頃、おばさんたちの生き方や教わったことを今でも時々思い出すことがある。というより、今になって思い当たることも多い。親の小言と同じかな。それは多分、アナクロで古い時代の幻影だけれど、どこか生活に芯があった時代のようにも思える。
 

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 *ぼくの下宿の隣部屋の住人だったレンツおばさんは重度の夢遊病を患っていました。月に何度か真夜中にレンツおばさんの亡くなったご主人がおばさんの処にやってくるらしく、その時には楽しいおしゃべりや二人でダンスを踊っている様子がぼくの部屋まで聞こえてきました。真夜中の死者との楽し気なダンスにぼくは震えました。

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Sampo [gillman*s park]

 Sampo
 
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 ベッドの中で、今日は天気は良くないよと囁く声が耳元で聴こえてきて、そのまま寝ていたかったけど、そういう声に耳を貸すとこれからも毎日色々な囁きが聴こえてきそうで慌てて起き上がった。

 今年の夏は酷暑が続き早く終わって欲しいのに晩夏という響きには、何かゆく夏を惜しむような一抹の寂しさがある。晩春や晩秋、晩冬には去り行く季節を惜しむという響きは余りないような気がするけど…。

 まぁ、ゆく夏を惜しむというのは主に若い時の心情かも知れない。ひと夏の甘酸っぱい思い出を残して夏は去ってゆく。でも、この歳になると夏はただただ暑く、秋風が吹く頃やってくるクーラーの電気代の心配を残して去ってゆく。

 ちょっと出遅れて家を出たら街はもう動き出していた。朝はほんの10分位の違いで街の様子は一変する。今日はこれから残暑になる予感。散歩のために作ったSampoと名付けた散歩用のジャズのプレイリストを聴きながら歩く。

 音楽の聴き方も随分変わったものだ。ぼくもやっているけれど、今は好きな曲を自分で組み合わせて(最近はコンピレーションとかコンピとか言うらしいけど)いわゆるプレイリストを作るのが多いらしい。同じようなことはカセットテープの昔からやっているから、さして目新しいとは思わないけど…。

 さらに最近多いのは「斜め聴き」というもので、サビのところまで早送りしてそこをジックリ聴くというもの。音楽だけでなく映画の斜め観、小説の斜め読みもあるらしい。書籍でも一時哲学書など「超訳〇〇」というのが流行って、本屋で立ち読みしてみたこともあるけれど、これで読んだ気になったら実体とは随分違ったものが頭に入っていくことなるんだろうなぁ、と思ったことがある。

 21世紀以降人間が一生のうちに触れるデータの量は等比級数的に増大してゆくので、膨大なデータを効率よくこなしてゆくためには必然的にそういうやり方も必要な時代になっているのかもしれないけれど、音楽や思考が単なるデータの塊として捉えられて良いのかという気もする。

 ぼくも音楽は色々な聴き方をするけれど、例えばジャズでいう「アルバム」という考え方等は大切にしている。ジャズではプレーヤーが自分のリーダーアルバムを作る時には、アルバムのコンセプトを考えそれに沿って選曲、曲順や演奏方法ひいてはジャケットのデザインなども含めて考え抜いて制作している。

 ぼくも家のオーディオ装置でCDを聴く時にはそういう創り方にそれなりのレスペクトを持って聴くようにしている。それはいつもとはちょっと質の変わった至福のときでもある。今またLPレコードが復活しているのは時を駆け抜けるような今の時代へのアンチテーゼなのかもしれない。
 

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 *アルバムという宝石箱
例えば1957年にマンハッタンで録音されたジミー・スミスのオルガンのアルバム「Jimmy Smith At The Organ」は大好きなアルバムなのだけれど、アート・ブレーキーのドラムス、ルー・ドナルドソンのサックスにケニー・バレルのギターとバンドメンバーも凄いのだが、ジャケットデザインが数々の名アルバムのジャケットをデザインしたリード・マイルズで、プロデュースがBLUE NOTEの創始者アルフレッド・ライオンそして録音は当時名をはせたルビー・ヴァン・ゲルダーとアルバム制作自体に当時の熱気を感じることが出来ます。

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