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ある独裁者の影 アドルフ・ヒトラー [新隠居主義]

ある独裁者の影 アドルフ・ヒトラー

 ぼくの手元に一枚の古ぼけた写真がある。昔の資料を整理していたら箱の中から出てきた。そのセピア色の写真にはドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーの姿が写っている。ぼくがその写真を手に入れたのは今から35年くらい前だ。ドイツのハイデルベルクという小さな街に暮らしているときぼくの下宿の隣の部屋にすんでいたレンツおばさんから貰ったものだ。その写真はおばさんが戦前にオルデンブルグでヒトラーの演説を聴きに行ったときに自分で撮ったものだ。古ぼけた写真の向こうに幽霊のように暗い歴史が揺らめいている。

           
    

 レンツおばさんは未亡人で、当時もう七十歳くらいになっていたと思う。子供はいないらしい。下宿のオーナーのフィッシャーおばさんに彼女が戦争未亡人だと聞いたような気がする。白髪の上品なおばあさんだった。いつもきちっとしていて、ぼくはおばさんの髪や服装が乱れているのをみたことがない。

 ぼくの住んでいた下宿は、一階にはそのレンツおばさんの部屋とぼくの部屋の二部屋があって、おばさんの部屋が通りに面していた。二階は所帯持ちの一家が二部屋を使っていた。おばさんは足が悪かったから余り外出できないので、通りに面した窓から顔を出してよく通りをゆく人を見ていた。ぼくが家から出ていく後ろ姿をいつも見ていた。

 昼間はおばさんはたいてい窓から外をみたり、ソファで昼寝をしたりして過ごしていた。僕の部屋とおばさんの部屋は入り口は違うが、部屋の中で一枚のドアでつながれて二間続きの部屋になっていた。もちろんそのドアには鍵がかけられていて行き来はできなかったが、隣の部屋の音はよく聞こえるのだ。

 ぼくがレンツおばさん夢遊病に気がついたのはそこに住み始めて一月くらいたった頃だ。隣の部屋で夜中に突然大声がする。びっくりして起きるとあとは静かになった。その晩は大きな寝言だなぁ、と思ってそのまま寝てしまった。次の晩も同じようなことが続いた。

 その次の晩も…、しかしその晩はそれだけでは終わらなかった。そのうちレンツおばさんが大声で誰かを呼んでいる声が聞こえる。「ゲオルグ、こっちよ! こっち!」 どうやら死んだ旦那を呼んでいるらしい。そのうち旦那がやってきたのかおばさんがベッドから起きあがって歩き回る音が聞こえる。そしてなにか話をしている。

 よく耳を澄ますと、明らかにおばさんは旦那と手を取り合って踊っている。それもとても楽しそうに。「ラララ~、ラララ~」と歌声が聞こえてくる。僕はぞっとして全身に鳥肌が立った。真夜中に隣の部屋で繰り広げられる死者との楽しそうな舞踏会の鬼気迫る空気がこの部屋にまで伝わってくるのだ。

 次の朝、おばさんと顔を合わせるとケロッとしている。もちろんぼくから昨晩は誰か来ましたか、なんて聞くことはできない。おばさんの夢遊病には波があるらしく、いつもではない。旦那が来る時期には波があるのだ。しばらくの間全くこないときもある。しかし、来るときはいつもパターンは同じだ。それから一年以上も夜の儀式を聞かされるとついにはぼくも慣れてしまった。そうすると明け方のレンツおばさんと旦那との別れの場面がとても哀しいものに思えてきた。

 二人の楽しいダンスも終わりに近づくと、おばさんは「ねぇ、ゲオルグもう行ってしまうの?」と哀しそうな声をだす。「ねぇ、本当にもう行ってしまうの?Gehst  Du schon?」 その言葉の響きがとても哀しい。
よく聞き取れないやりとりがあって、そしてとうとう旦那が帰ってしまうと、おばさんは泣きに泣いていた。すすり泣くように、時には嗚咽が夜の空気を振るわせた。そうして泣いているうちに寝入ってしまうのだった。

 レンツおばさんがいつも昼寝をしているのは彼女が夜の虚構の世界に生きているためだったのかも知れない。その方が旦那に会えて幸せかとも思えるが、逆に毎回辛い別れを体験していることを思うと、彼女が孤独の業火に焼かれているようにも思え哀れだった。いつだっかおばさんは「あのひとは、いい人だった」とポツリと言っていた。

 レンツおばさんと玄関のポーチが一緒なので何回か顔を合わせるうちに彼女は時々ぼくの部屋に来るようになった。お菓子をくれたり、果物を持ってきてくれたりするようになった。ある時話をしてるとき彼女が一枚の古ぼけた写真をぼくに見せた。大事そうにハンカチに包(くる)まれていたそれは昔彼女がオルデンブルグで自分で撮ったヒトラーの写真だった。

 ぼくは驚いた。戦後、西ドイツでは「非ナチ化」といって、ヒトラーナチスに関するものは販売はもちろん所持することも固く禁じられていた。もちろんヒトラーの著書「我が闘争」などはつい最近まで古書でも販売が禁止されていた。そんななかで、禁じられたヒトラーの写真をなぜ大事に今まで持っていたのか、ぼくはいぶかった。彼女はその写真をぼくにくれると言った。何回か戦争の話をしたことがあるので、彼女はぼくが戦時中の反ヒトラーの抵抗運動の勉強をしていることを知っていたのだ。

 彼女はヒトラーについてあまり話したがらなかったが、その時一度だけ語ってくれた。ヒトラーが台頭する以前は不景気のどん底で町には浮浪児や職のない若者があふれかえっていた。それが彼のお陰で町をうろついていた若者はしゃんとし、アウトバーンも作られるなど国が良くなってゆくのが実感できたと。かといって彼女はナチス党員でもなかったし、その時代の方が今より良いとも思ってはいない。第一次大戦の敗戦というどん底から見えた一条の光がヒトラーだったと言いたかったのだと思う。

 ナチス党の初期こそ、その支持基盤は労働者や一部の愛国勢力だったが、ヒトラーが政権をとってからはその人気を支えていたのは女性と若者だった。第三帝国下の女性にとってはヒトラーはまさにアイドルだったのだ。レンツおばさんもそんな女性の一人だったのかも知れない。それを意識してかヒトラーも表向きは独身を通した。彼がエヴァ・ブラウンと結婚したのはベルリン陥落の死の直前だった。

 どんな時代でも政治家や為政者の本質を見抜くことはわれわれ庶民にはとても難しいことだ。特にナチス政権は史上始まって以来の組織的かつ徹底したプロパガンダを駆使して民心を操縦したのだからなおさらである。ナチスのプロパガンダは心理学の領域まで動員して完成された巧妙な方法論で、その全てのテクニックは今日の広告の世界にもちゃんと生きている。

 真のジャーナリズムが声を潜めて、心地よい記事ばかりが身の回りに溢れたとき時代は抜き差しならない所まできていたのだ。華々しい情報が行き交うその足下では、ユダヤ人の商店が焼かれたり、身障者や知恵遅れの子供たちが「療養」と称して連れ去られ、ひっそりと街から姿を消していったなど、噂の領域の情報が膨れ上がってゆく不気味な世界が出来上がっていた。

 下宿のオーナーのフィッシャーおばさんにはぼくより年上の寝たきりの重症の身障者の息子がいたのだが、その子をかかえて彼女はヒトラー政権下でそんな不気味な恐怖感と戦っていたのかも知れない。レンツおばさんが本当はどんな気持ちでこのヒトラーの写真を持ち続けていたのかは今でも分からない。

                

*僕たちの足元で今何がおこっているか。ドイツの暗い時代はそれほど遠い時代のことではないし、同じようなことは日本でもあったのだと思います。価値観が大きく変わるとき、そこには何らかの力が働いていると思いますが、それはなんの力なんでしょうか。


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くみみん

こんにちは。レンツおばさんはご主人のことをとても愛されていたの
ですね。亡くなってからずっと、ダンスされていたのでしょうか?
戦争や暴力って目を背けたくなりますが、目をそらしていられるうちは
いいですが、そのまっただ中に居ればそんなことはできないで、巻き
込まれていってしまいますよね。
by くみみん (2006-03-27 18:26) 

tm-photo

ナチス党の街頭演説ですか、大変貴重な写真をお持ちなんですね。
どんなアングルを凝った写真より引きつけるものがありますね。
悲しい歴史の現実がこの写真には確かにあったんですね。
by tm-photo (2006-03-27 18:30) 

山猫庵

そういえば「ヒトラー ~最期の12日間~」って映画が
話題になっていましたよね。
金沢ではとても短い期間しか上映していなかったので
見ることが出来ませんでした。レンタルしてるのかなぁ…

貴重なお話しと写真、ありがとうございました<(_ _)>
by 山猫庵 (2006-03-27 19:48) 

こんばんは。
地球規模で見ると、人の一生は短いし平々凡々としたものですが、一人ひとりの生活は、なかなか平凡ではありえない。
レンツおばさんもgillmanさんも貴重な体験の持ち主ですね。
次のお話を楽しみにしております。
by (2006-03-27 21:10) 

albireo

貴重な写真をお持ちなのですね。
過去の不幸な戦争のことを考えるのは、とても辛いものですが、同じ過ちを繰り返さない為には、時に真摯に向き合わねばならないのですね・・・。
by albireo (2006-03-27 22:03) 

ecco

gillmanさん自身すごい思い出をお持ちなのですね。
(すごいという表現が適切かどうかはわかりませんが)
一枚の写真からこんな物語を綴れるgillmanさんに
nice!です^^
by ecco (2006-03-27 22:41) 

重大な事実、気になりますね。
by (2006-03-27 23:35) 

hako

もの凄い写真をお持ちですね。これは大スクープ何ではないでしょうか。
写真としても、かなり見せてくれます。中央に立つ背の高い人物と左の太った人が気になります。
情報操作をする気はなくとも、今のマスコミは、完全に踊らされてますね。
迎合する人がいるからなのでしょうが、全く呆れる記事が多すぎます。
by hako (2006-03-27 23:46) 

mayumi

レンツおばさんにあいたいなぁっておもいました
痛いほどわかるから
ご主人を見送った後の彼女を抱きしめてあげたいなぁ

胸がいっぱいで
涙が溢れて
そういう絆がうらやましくて
by mayumi (2006-03-28 06:52) 

gillmanさん、すごーく読み応えのある記事でした!
ナチスと心理学の関連についてや現代の広告への警鐘など、なるほどと思うと
同時にもっとお話を聞きたいなぁと思いました。
「重要な事実」も気になりますねぇ☆
by (2006-03-28 12:38) 

Silvermac

小泉八雲の「怪談」のような話ですね。それにナチスドイツの時代が私の少年時代とオーバーラップするので、アドルフ・ヒトラーが女性の支持を保つため結婚しなかったという説もうなずけます。
by Silvermac (2006-03-28 15:13) 

Rucci

重要な事実・・次回が気になります。
gillmanさんご自身が 深い経験をなさっているのですね。
レンツおばさんのお話は、切ないように思えますが、愛の深い人生を送られている方なのですね。
貴重なお話・・ 次回、期待しています。
by Rucci (2006-03-28 16:08) 

NO NAME

とても興味深い内容で次回が待ち遠しいです。by はなこさん
by NO NAME (2006-03-28 16:34) 

としぽ

ヒットラーの生写真を持っておられるのは凄いですね。
若き日の下宿の話も興味深く拝見しました。
by としぽ (2006-03-28 18:39) 

mippimama

貴重なお話.興味深く読ませて頂きました。
レンツおばさんがご自分で生ヒットラーの写真を撮られた事にも驚きです。
そしてそのお写真を拝見出来た事も☆彡
by mippimama (2006-03-29 09:16) 

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