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Beautiful Sunday ありきたりの幸せ [新隠居主義]

Beautiful Sunday ありきたりの幸せ

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 コロナ禍のお籠りでまた公園散歩をするようになって、そう言えば昔は公園でよく写真を撮ったなぁと思って久しぶりにファイルを覗いたら当時自分で「Beautiful Sunday ありきたりの幸せ」(2012年)と名付けた一連の写真が目についた。

 公園の丘の上で三人ほどの子供が無邪気にじゃれ合っている、ただそれだけの写真で、その光景はありふれた何処にでもあるような光景なのだけれども実はそれこそが大事な瞬間なのだという意味を込めてタイトルにした。

 ぼくはこのブログAnsicht05に「ありふれた日常を、ありふれた日本人の…」というサブタイトルをつけて15年前に始めた。それは分刻みに近い目まぐるしい自分の会社生活を終えて出会った「ありふれた日々」をちゃんと見つめていきたいという意味だったのだけれど、母の介護をしながら本当は人生に「ありふれた日」など一日たりとて無いのだという事にもすぐに気づかされた。

 コロナ禍で世の中が大きく変わってしまった今、子供たちもマスクをして距離を置いて暮さなければならない。この写真のような光景は今やありふれてもありきたりでもない風景となってしまった。ぼくはありきたりなものは皆大事なものだと思っている。本当は普遍的なものだからありきたりなのだけれども、通常の世界では「ありふれた」「ありきたりの」というのは「つまらない」と殆ど同異義語として使われている。

 そういう「ありきたりの」モノ、コトの価値や有難さはそれを失くして初めて分かるのだけれど、その時にはもう遅いということも多々ある。逆説的に言えば「ありきたりの」ものがつまらないとされる時代は幸せな時代なのかもしれない。公園のこのありふれた日常の姿、でも今はなんと幸せそうなそして美しい光景に見えるのだろうか。

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 ぼくが付けたタイトルの「ありきたりの幸せ」にぼくは二つの意味を込めた。一つはほんとうは幸せがモーリス・メーテルリンクの「青い鳥」のように何所にでもある「ありきたり」なものであるということ、そしてもう一つは「ありきたり」であることの幸せ。ぼくは若い時からずっと恥ずかしく思っていた自分の凡庸さをやっと何とか自分でも受け入れられるようになって、この二つの「ありきたり」を大事に思うようになった。

「ありきたり」と「幸せ」の関係を言葉遊びで…

 ありきたりの幸せ
 ありきたりな幸せ
 ありきたりが幸せ
 ありきたりに幸せ
 ありきたりで幸せ
 ありきたりでも幸せ
 ありきたりなのに幸せ
 ありきたりだから幸せ

 みんなが幸せになりたいと思っている、だけど必ずしもそうはいかない、とすれば幸せとはありきたりなものではないのかも知れないし、逆にありきたりを幸せだと思えばそれは何所にでもあるものなのかもしれない。

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 理想は「ありきたりの幸せ」を大事にする社会であり、「ありきたりでも幸せ」を尊重する、つまり普通で例え特別に秀でていなくても一介の市井の人間でも幸せになれる社会を目指すべきなのだろうけど、そう簡単には行かないようだ。

 現在の世界を見渡せば、ありふれた日常、ありきたりの幸せに浸るだけの人間は権力者にとっては絶好の餌食である事も忘れてはならないと思う。今世界にはそういう嵐が吹き荒れている。あたりまえの日常に感謝しなければ幸せにはなれないが、それだけでは知らぬ間に奪われてゆくものがある。当然のことだが日常には感謝用心の両方が不可欠なのかもしれない。…特に今は。

 例え今幸せだとしても、それにかこつけて何か大事なものを手放したら、自由とか権利とかは一度手放したらそれを取り戻すことは容易ではない。知らない間に一番大事にしていた「ありふれた日常」や、「ありきたりの幸せ」自体も取り上げられているのに気づくかも知れないが、その時は時すでに遅しなのだ。

「権力は腐る」は仮説ではなく人類が何十万、何百万という人間の血と命で贖って得た貴重な真理なのだと思う。如何なる善政を行なった権力者も時が経てば必ず腐敗するという事を歴史は証明している。ありきたりの幸せを守り切るには、ありきたりでない覚悟もどこかでしておかなくてはならない時代になったと思う。


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ありきたり…昔から(どこにでも)有る物と少しも変わらず、珍しくないこと。「~のデザイン」(新明解国語辞典)
・「ありきたり」は漢字でかくと「在り来たり」で動詞「在り(有り)来たる」の連用形が形容詞として用いられるようになった語。
・「あり(在り、有り)」は「存在する事」、「来たる」は動詞の連用形に付いて「し続けて現在にまで及ぶ」と言う意味。
・従って、ありきたりの原義は「もとから存在し続けてきたこと」「今まで通りであること」で、それが転じて「ありふれていること」「珍しくないこと」の意味となった。(語源由来辞典)
・この「在り来たり(ありきたり)」の漢字の部分をとると「在来(ざいらい)」となり。在来種、在来線などで使われる言葉になる。在来種はもとからずっとそこに在る種類だし、在来線は新設線や新幹線に対して以前からある路線と言う意味。
・この「在来」を日中辞典で調べてみると中国語では「原有、通常、以往」等なので「在来」はこの「在り来たり(ありきたり)」からきた和製漢語かもしれない。

【ありふれた】…どこにでもあって、珍しくない。「有り触れた顔ぶれ/有り触れている」(新明解国語辞典)
・「ありふれた」は漢字で表すと「有り触れた/在り触れた」となる。動詞「有り触れる」+完了を表す助動詞「た」で成り立ってる。「有る/在る」は「存在すること」、「触れる」は「広く多くの人々に知られていること」を意味している。(語源由来辞典)
・「触れる」は触れ回る、お触書(おふれがき)などで広く知らしめることをいう。



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梅雨空逍遥 [gillman*s park]

梅雨空逍遥

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 ■ あの雲がおとした雨にぬれてゐる ( 種田山頭火「草木塔」)



 毎朝六時前に起きて散歩に出るのは最初は苦痛以外の何物でもなかった。ぼくの場合歳をとっても朝早く目が覚めてしまうということは全くなく、何もなければいつまででも寝ていたい質なのだ。ても散歩を再開してみるとあの朝の空気に触れる気持ちよさと言うものが戻ってきて、それが今励みにはなっている。

 と言っても、散歩を再開してから晴れた日と言うのはほんとに数えるくらいしかなくて、あとはどんよりとした今にも降ってきそうな、あるいはポツポツと降り出したような空模様の下の散歩ではあるのだけど…。折角小さいけれどもカメラを持って歩くようになったのに中々晴れてくれない。

 梅雨なのだからしようがないのだけれども、でもここ数年の梅雨は「梅雨(つゆ)」という日本の気候独特のしとしと雨と雨が織りなす情緒を携えた季節から、どこかしら東南アジア的な「雨期」と言う言葉がふさわしいような季節へと変貌を遂げているような気がする。

 特に近年は線状降水帯というようなやっかいな代物が出現して今週も九州の各地が未曽有の洪水に襲われたりしている。この未曽有のとか、五十年、百年に一度のと言う形容詞も毎年聞くようになって…、ということはこれが常態化しており稀有な事ではなくなってきていることを覚悟しなければいけない段階に来ているような気にもなった。


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 昨日も早朝家を出た時にはすでにポツッと来ていて、一応フード付きのウインドブレーカーは羽織ってきたのであまり降ってきたら引き返そうと思ってとりあえず公園に向かった。雲が低くたれこめ、風も出てきた。雲の動きも早い。

 公園散歩の途中でいつも一休みするところが何カ所かあるのだけれど、その一カ所であるベンチに腰掛けて空を見上げると太陽が雲のベールの向こう側に月みたいにどんよりと光っている。いつもはここでスマホを見て今日の予定なんかを考えたりするのだが、どことなく雨雲に急かされるようにまた歩き出した。

 散歩のときカメラを持って歩くと、そんなに何枚も撮るわけでは無いけど歩いている間に無意識に景色の中のマクロ的な視点ととミクロ的な光景を交互に切り替えて見比べながら歩いていることに気づく。例えシャッターを切らなくても通り過ぎてゆく光景が普段より頭の中に入ってきそうな気もするのだけど…。でも、シャッターが切れない。

 いつも必ず来る丘のところに差し掛かったころには風がかなり強くなっていた。やはり今は植物が成長する梅雨時なのだろう公園の繁みの草が大分背伸びをしてその上を強い風が通り抜けると、うねる海原のように波立つ。葉に当たった鈍い日の光が妖しく蠢いている。こういう光景がちゃんと撮れるようになりたいなぁとぼんやりと思った。

 そう思いながらも時間をかけてちゃんと向き合わないでチャッチャッと撮って逃げるようにして丘を下った。心の中では、何しろ散歩だからとか雨のせいにしている。池のところまでくるといつものアオサギが風を避けるように定位置から少し外れた石の上に留まっている。理由はよく分からないけど不思議にも今日も早朝散歩に出て良かったなぁと思いながら家に戻った。


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