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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その40~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その40~

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 「あなたの名前はなぁに?」キャロラインは猫に聞いた。「ねぇ、私はキャロラインていうの。わかった?」
 「猫に名前なんかないよ」と猫は言った。
 「無いの?」とキャロライン。
 「無いさ」と猫。「君たち人間は名前を持っているけど、それは自分が誰か分かっていないからさ。ぼくらは自分が誰か分かっている、だから名前なんかいらないんだ」
   (ニール・ゲイマン「キャロライン」)

 “What's your name,' Coraline asked the cat. 'Look, I'm Coraline. Okay?'
 'Cats don't have names,' it said.
 'No?' said Coraline.
 'No,' said the cat. 'Now you people have names. That's because you don't know who you are. We know who we are, so we don't need names.” 
  (Neil Gaiman, Coraline) 


 最近歳のせいか猫の名前をよく間違える。朝晩三匹にご飯をやるのだけれど、両手に餌のボウルを3つ持って猫の名前を呼びながらあげるのに、あげている猫の名前と呼んでいる猫の名前が合わない時が良くある。名前を忘れたわけではないのだけれど自分のアクションと出てくる名前がマッチしていないのだ。

 猫の方は、まぁ食事にありつけさえすれば多少名前を間違えても気にする風はない。じゃあ自分の名前が分かっていないのかというと、どうもちゃんと分かっているようなのだ。最近はレオがミルクが好きになったので時々あげるのだけど、居間で三匹がまったりしているような時にレオにミルクをあげようと思って間違えて「モモ」と呼ぶとモモが振り返る。

 慌てて「そうじゃなくてレオ」というと「なんだ、オレかい」みたいな顔してレオが立ち上がる。そこで疑問に思うのだけれど、レオは自分の事がレオだとは知っているようだが、あのアメショーがハルで灰色の猫がモモだということは分かっているのかなぁ、と。

 まぁ、そんなに真剣に考えることはないのだけれど、彼等にとっては自分の名前さえ分かれば良いのであって、ましてや個人主義の猫としては他の猫の名前まで覚えるような煩わしさは不要なことなのだろう。キャロラインが猫に言われたように人間はすごい数の人の名前を憶えているのに肝心の自分のことが分かっていないような気もする。このコロナ禍で炙り出された人間の色々な愚かさみたいなものも猫は鼻先で笑っているかもしれない。

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公園散歩再開 [gillman*s park]

公園散歩再開

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 新型コロナウィルス以来殆ど外出していないので自宅でトレーニングしているとはいえ結局4キロも太ってしまった。「コロナ太り」と言われるそうだけど、一番心配なのはやっぱり脚が弱ることなので散歩を再開することにした。

 学校も休校という事で公園には子供たちも居るので朝食前の早朝に近くの公園を散歩することにした。以前は毎日のように散歩していたのだけれど、日本語学校での活動を始めとして段々と週のうちのスケジュールが増えてきていつの間にか散歩は日課から外れてしまった。

 というか散歩をやめた一番の原因は股関節などの原因で歩くのが辛くなったことなのだけれど、二年以上リハビリを続けることでなんとか痛みなく歩けるようになったのが大きい。朝方はランニングしている人はいるけどそんなに人が多いということはない。今までより一時間くらい早起きしなければならないのが辛いけど、それも少しづつ慣れてきた。

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 歩くのが辛くなってからは外出や散歩のときも以前のようにカメラを持って歩くという事が無くなって、なんでもスマホで済ましてしまうことに慣れてしまった。でも、この朝の公園散歩を再開してから、散歩中に目にするものでちゃんとカメラで撮ってみたいと思う気持ちがまた少し戻ってきた感じがする。

 と言っても、まだ重いデジカメを持って散歩できるほどではないので、この間からはコンパクトデジカメを持って歩くようにしている。考えてみると昔からこの公園はぼくにとって写真の学校だった。このブログを始めるきっかけもこの公園を散歩したことが契機になっている。

 今のところ公園散歩コースは公園の丘を目指してその日の調子に合わせて3つ位のルートで約一時間、歩数にして5000歩~6000歩程度。もっともなんか目ぼしいものがあると、立ち止まって見たり最近は写真を撮ったりもするので全くハードな散歩ではないのだけれど…。

 でも、久しぶりの公園散歩の復活でいろいろな事に気づいた。公園の光景も、「毎日来なければ見えて来ないもの」、逆に「毎日来ていると次第に見えなくなってくるもの」もあることに気づいた。それは日常生活の目線とおんなじだ。毎日見ているつもりが実は何も見ていなかったりして…。久しぶりに散歩を再開したからまた見えてくるものがあって嬉しい。やっぱり時々は目の洗濯をしなければならないんだなぁ。

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がんばれ東京 [Ansicht Tokio]

がんばれ東京

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 ■ 東京抒情

 杉並の袋小路で子供らがかくれんぼする
 築地の格子戸の前で盛塩が溶けていく
 東京は読み捨てられたの漫画の一頁だ
 亀戸の洋服屋の店先で蛍光灯がまたたく
 多摩川の橋下でラジコンボートが沈没する

 大久保の線路沿いに名も知れぬ野花が咲く
 世田谷の垣根の間からバッハが聞こえる
 青山のかまどの中でパンがふくらむ
 東京はなまあたたかい大きな吐息だ
 東雲の海のよどみに子猫のむくろが浮く

 国領のブルトーザが石鏃(やじり)を砕く
 本郷の手術室で瞳孔が開き始める
 小金井の校庭の鉄棒が西陽に輝いている
 等々力の建売で蛇口が洩れつづける
 東京は隠すのが下手なポーカーフェイスだ

 美しいものはみな嘘に近づいていく
 誰もふりむかぬものこそ動かしがたい
 私たちの魂が生み出した今日のすべて
 六本木の硝子の奥で古い人形が空を見つめる
 新宿のタクシー運転手がまた舌打ちをする

  (谷川俊太郎「東京バラード、それから」)



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 まだ母が存命の頃、リハビリを行うために定期的にリハビリ病院に長期入院していた時期がある。毎日のように母を見舞って病院に行ったが時間によってはリハビリ中で治療が終わるまで長時間待たなければならない時もあった。

 そんな時はたいてい病院のすぐ裏の荒川土手に上って時間をつぶしていた。土手に上ると天気のいい時などは下から街の喧騒が聞こえ、川沿いのグランドからは少年サッカーの掛け声が響いてくる。

 ぼくも子供の頃は自転車でよくこの土手に遊びに来ていた。その頃は鉄橋の向こうにお化け煙突が見えたのだけれど今は見えない。そのかわり視線を反対側に移すと今は間近に東京スカイツリーが見える。

 この場所はぼくにとってふるさと東京の心の心象風景そのままなのだし、それが今も見えそして感じられるという事が嬉しい。古くは小津安二郎監督の「東京物語」にも、その後の「三年B組金八先生」でもよくここが登場していた。

 東京にはいろんな人が暮らしている。地方から出てきて東京で大学を出て故郷に戻る人。逆に故郷から就職や転勤で来ている人。取り合えずここに暮らしている人も多いと思う。でも、中には彼らにとって故郷があるように東京が故郷の人だって少なくはない。ぼくは千住そしてカミさんは深川の生まれ育ちで帰る故郷は無い。というかここが故郷で大好きな街でもある。ぼくらは幸せにもその故郷に住み続けているという意識でいる。

 その東京が日本中が落ち着き始めたころ、ただでさえ禍々(まがまが)しい東京都庁の伏魔殿のような都庁舎が赤く染まり、東京湾を睥睨するレインボーブリッジも血の色に染まった。東京アラートとかいう横文字好きの都知事の名付けた警報のサインらしい。

 めったに無い珍しい光景だと喜んで写真を撮りに行く人も多いみたいだけれど、東京を故郷と思うぼくらには見ていても痛々しくて、居たたまれないような光景なのだ。あのアピール好きの都知事さんに言いたいのだけれど、東京アラートで目立つように街を真っ赤にするよりも「がんばれ東京」というエールをおくるサインの方を是非作って欲しいのだ。


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情報に身構える [新隠居主義]

情報に身構える


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 コロナ禍の中で世界中が騒然としてざわついている。感染予防に何が有効かとか、PCR検査をはじめとして各国の対応の仕方についても色々な情報が飛び交っている。中には意識的に流されるフェイクなどもあったり、一国の大統領までフェイクまがいの情報を出したり混とんとしてきた。そこへアメリカの人種差別や香港の騒動も加わってそれについても情報戦とも言えるような状況が展開されている。

 ひと昔前と違う今の難しさは、昔だったらテレビか新聞位しか一般の人にとってはニュースソースがなかったのに対して、今はSNSやネットニュースやネット動画を始めとして多様なニュースソースがあるという事だけど、逆に言えばそれがぼくらの頭の中の混乱の大きな原因にもなっている。

 そして、今までテレビや新聞は少なくとも中立や公平の外形を整えていたのだけれど、新たに勃興してきたメディアにはそう言った保証めいたものはない。まぁ、「私はネットなんて要らないし、テレビと新聞で十分」と言う人も多いと思うけど、それらの既存のメディアも先の原発事故や今回のコロナ禍でも見えてきたように必ずしもぼくらの知りたい真実を伝えている訳ではないという事にもぼくらは薄々感づいてきた。

 今回のコロナ禍では図らずもネット授業やリモートワーク、社会情報システムの脆弱性などいわば社会的なIT基盤の面において日本が世界から周回遅れに近い惨状だった事も浮き彫りになってしまった。これからはもっとネットなどを通してのコミュニケーションや情報把握する力が求められて来ると思う。(ただし、パソコン等に詳しい事と情報リテラシーは全く別のものと思う)

 もちろん、ネットとは全く無縁の生活を送るというのもそれも貴重な一つの選択肢であることには間違いがないけれど、ぼくのようなジイさまは別としても、若い人のようにこれからどんどん仕事をこなして行こうという人たちには情報の問題は無縁ではないと思う。

 今回のようなことがあると日常生活の中で身近な人からもLINEメールやFacebookのシェアやTwitterのツィートなどの形でいろいろな情報が送られてくることになる。そうした中でぼくが一番大事だなと思っているのは「全ての情報にはバイアス(偏り、偏向)が掛かっている」という事を念頭に置くという事だ。そのバイアスに気づくことがまず大事ではないかと思う。

 と言ってもそれは簡単なことではない。何故ならその情報を受ける自分の方にも間違いなくバイアスがあるからだ。そしてぼく自分も含めてそれに気づくのは極めで難しいことも確かだ。そのバイアスは育った環境や今までの自分の経験、受けた教育など様々な要素が心の奥深くで複合して醸成されていることが多いからだ。

 さらに厄介な事には、今のネット社会では自分のバイアスに叶った情報だけを集めようとすれば、世界の果てからでもそれらの情報は自分にすり寄ってくるのだ。つまりそうして日々自分のバイアスが補強され、しかも同じバイアスを持った集団を作り上げてゆくことまでできてしまう。

 これはもちろん悪い事ばかりではない。今アメリカで起こりつつあることもその一つとして見ることもできる。人権意識という一つの意識の高まりがネットを通して広がりつつある。実はバイアスの中身はマイナスの偏見〜アクティブな信条まで広範囲に及んでいる。つまり、SNSなどでのシェアやリツイート等はそのバイアスの中身によって「共感者」にも「共犯者」にもなりえる面を持っているという事だと思う。


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 ではぼく自身はというと、自分の持ってるバイアスもはっきり分からず、情報の専門家でもないので何とも心許ないのだけれど、情報を受け取るに際して普段からこれだけは気を付けようと思っていることがある。もちろん、それがぼくにちゃんと出来ているという事では全然ないのだけれど…。

 1.情報を受けるに当たって気をつけていること
①まず自分の今までの全経験を動員して自分の頭で考える→②違和感があれば→予断せずにまず頭の中で仮置きするという事を大事にしている。ぼくら日本人はこの「仮置き」するという事が苦手なのかもしれない。仮置きしておくとすぐ忘れてしまうという恐怖感があってか、直ぐ信じてしまうか言下に否定してしまうかのどちらかに傾くのかもしれない。西洋の凄いところはこの「仮置き」を忘れずに検証し続けることだと思う。→③最後まで残る自分の中の素朴な疑問の声を消さない。「ほんとかなぁ」と言う心の声を聴く。

 ぼくはその「情報の筋」というものも大事だと思っている。時間と手間を掛けてでも自分なりの「情報筋」を育ててゆく必要があると思う。今度のコロナ禍では筋の悪い情報が飛び交っているような気がする。至近距離にある情報ほど見えにくいことがある、ある程度時間をかけて良い「情報の筋」を見つけておく。今の時代、特に今のように混乱した時においては情報の「筋」を読む力が大事だと思う。それがないと、ネット等での安易なシェアやメールを通して自分自身が「筋」の悪い情報源そのものになってしまうような気がする。

 2.その情報の元を自分で可能な限り追い続けたり元を遡ってみる努力をする。
・反復して検証→時間をかけて検証するのも大事。すぐ忘れないで、フォローする癖をつける。
・複数の情報ルートにあたる。
・身近な人、その情報源もしくは取り扱われている関連の人に自分で確かめてみる。
・テレビなら情報を送り出す相手の表情をとことん読む。→ナンシー関方式

 3.偏り過ぎない、切り捨てない…
・自分のBookmarkや「お気に入り」の情報だけに囲まれて狭まる世界、自分と言うバイアスがかかりっぱなしの世界に正常な恐怖感を持つ。
・物事には必ず2つ以上の見方があると言うことを肝に銘じる。
・「無駄な情報」を排除する「検索」に用心する。一見無駄なものと見えても実は偶然性こそ人生を豊かにしてくれることを思い起こす。例えば新聞の片隅に小さく出ていた記事に偶然目が行き、そこから新たな視界が開けてくるような事を大事にする。すべてを検索に頼らない。

 4.極端に激しい言葉に過剰反応しない…断定、シンプルすぎる論理に気をつける。情報に使われている日本語の形容詞と語尾でその人の性格が想定できる。「空前絶後」「世界最大の」「かつてない」「過去最大の」「未曽有の」「断固として」など等大仰な形容詞の多発、断定形の連続などには反射的に身構える癖をつける。

 5.その情報から情動要素を抜いたら何が残っているかを考える
文学作品は別としても日本語は感情を乗せやすい言語であると言われることもある。文章から不安、憐憫、嫉妬、共感など情動に関わる語彙を除いてどういうロジカルな情報が残されているか考えてみる。


 考えただけで疲れてきそうだけれど、今はビッグデータの解析などから漠とした大衆ではなくバイアス別のクラスター毎に反応感度の高いキーワードを駆使するなど世論操作の技術というのも急速な進化を遂げているらしい。それはナチスが残した政治プロパガンダの手法を遥かに凌駕して新たな段階に入ったような気がする。

 最後に情報について考える時いつも頭に浮かんでくるのは、将棋棋士羽生善治さんのこの言葉だ。「何事であれ、最終的には自分で考える覚悟がないと、情報の山に埋もれるだけである」 恥ずかしながらぼくは今のところまったく自信がない。つくづく難しい時代になってきたものだ。


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