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お返事は? [にほんご]

にほんごパトロール お返事は?


採集場所:東京都品川区T病院内
採集日:2005/11/11


 この写真、以前「犬猫の散歩お断り」の看板で登場したT病院の待合室の掲示板だ。
どこの病院にもあるような掲示板なのだが、
  ②順番になりましたらお呼びいたしますので、お返事をして診察室にお入り下さい
という文章の「お返事」というところがちょっと気になった。

どうということはないのだが、何となく幼稚園の先生が、
「ケンちゃん、お返事は? 呼ばれたらちゃんとお返事しなくちゃだめでしょ」と言われているみたいな、ちょっとした違和感が残った。
じゃ、ご返事ならどうだろう。 ~ご返事をして診察室にお入り下さい~
なんだか、手紙に返事をだしてから診察室にはいるような、これはこれで変な感じがする。
だいたい、「お」と「ご」があるから余計ややこしいことになる。

 そもそも「お」と「ご」はどうちがうんだろうか。
両方とも丁寧な表現の時に名詞につけるいわゆる接頭語だが、少し例を挙げてみると
 「」…お使い、お箸、お水、お見舞い、お手洗い、お吸い物、お手紙、お顔、お湯、お酒
 「」…ご本、ご飯、ご主人、ご本人、ご機嫌、ご検討、ご不在、ご在宅、ご旅行、ご結婚
などがある、「ご手紙を出す」とは言わないし、「お検討ください」とも言わないな。
どうも「」は大和言葉、つまり昔から日本にある言葉について、「」は漢語、つまり中国から輸入された言葉につくらしい。
ここらへんは、外国人の日本語学習者にはとても難しいところだ。日本語母語話者なら感覚的に分かるが、外国人には、どれが大和言葉でどれが漢語かよく分からない。
さらに、やっかいなことに、このルールには例外も多いときている。お値段、お洗濯、お茶碗、お野菜などは漢語でも「お」が付くし、この頃は、おトイレ、おビールなど外来語にも付ける人がいる。

 で…、最初に戻って「お返事」と「ご返事」はどうなんだろうか。
先のルールからいくと、漢語だとすると「ご返事」がよさそうだ。ところがどっこい、返事は漢語ではないらしい。
返事はもとは大和言葉だった単語に漢字をあて込んで作り出した言葉だ。つまり和語から発生した言葉に漢字をあて、それを音読みした言葉なのだ。
つまり、「かへりごと」→「返り事」→「返事」→「へんじ」となったわけでいわゆる和製漢語というやつだ。
大和言葉が元になっているのには、ほかにも「おおね」→「大根」、「でばり」→「出張」などもそうらしい。ちなみに和製漢語は幕末から明治期に西欧の概念や文物を輸入するために大量に作られた。
共和国、人民、労働、生産、自由など数え上げればきりがない。日本語にはカタカナなどの外来語が氾濫している、というが他方では日本で作られたこれらの和製漢語が漢字の故里中国にわたって立派に使われている。一説によると中国で使われている和製漢語は一万語を超えるという。
ということで、「返事」を漢語としてとらえれば「ご返事」だし、和語としてとらえれば「お返事」になるようだ。しかし使われ方が微妙に違うような気がする。文語体なら「御返事」だろうし、口語で「ご返事」は少し改まった言い方、「お返事」は丁寧な口調というような違いがあるかもしれない。
掲示板の例では、
順番になりましたらお呼びいたしますので、返事をして診察室にお入り下さい
でもいいのではないかと思う。

日本語は面白い。


Ansicht
*明治期に大量に作られた和製漢語の元はもちろん大和言葉というよりは、個々の漢字が持つ概念、意味領域を組み合わせて新たな概念を作り出す方式による和製漢語です。これにより日本は西欧の文明を急速に吸収することができたが、一方あまりにうまく出来ているため字を見ただけで分かったつもりになってしまい、本当の元の概念はどうだったのかを知る努力を怠らせた面もあったように思います。
**病院独特の語彙というのもあって「中待合」という言葉は病院で出会うまで知らなかった。大勢で待っているところが「待合」で、当該の診療科の患者用の待合室が「中待合」なんですね。


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カラスの急襲に注意! [にほんご]

にほんごパトロール カラスの急襲に注意!


採集場所:埼玉県D大学校内
採集日:2005/8/23

  僕は自分の母校の大学がうちから近いのでよくそこの図書館を利用する。キャンパスには広い中庭があってちょっとした木立があるのだがそこに最近カラスが出没するらしく、写真のような看板がでている。
  ずいぶん大げさな表現だし、それを読むと、なんか人間がカラスに怯えて遠慮して暮らしているような気にもなる。こういう看板をみるとまたすぐに色々なことを詮索したくなる。きっと誰かがカラスに襲われたのだろう、それで問題になってこの庭を管理している大学の管財課に尻が持ってこられたんだな。

管財課長「山田君、こないだの例のカラスの注意書き、出来た? 早くやらないとまたなんか言われそうだから。」
山田職員「ああ、あれですね。できましたよ、ばっちりインパクトのあるやつ。これですよ。[頭上、カラスの急襲に注意! カラスを刺激しないで下さい。] どうです、インパクトあるでしょ。」

「ちょっと、おおげさすぎないかなぁ。」
「課長はカラスの恐ろしさを知らないからそんなこと言えるんですよ。この間なんか学生がちょっと石投げただけで、学校中カラスに追いかけ回されたんですよ。」

「石投げたの? それじゃあ急襲じゃないんじゃないの。急襲っていうのは、いきなり襲ってくるんだから、石投げたんなら相手が怒るの分かりそうでしょ。だったら、[カラスの反撃に注意しましょう。]の方がいいんじゃないの。」

「なに言ってんですか、僕だって追いかけられたことがあるんですよ。」
「え、君も石投げたの? ダメだよ。」
「そんなことしませんよ! 子育ての時期はカラスは気が立っていて、何もしなくても襲ってくることがあるんですよ。」

「それじゃ、[なにもしなくてもカラスが襲ってくることがあります、気をつけましょう。]の方がいいんじゃないの。」
「茶化さないでくださいよ、学生がカラスを刺激して怪我でもしたらどうするんですか。」

「それは困るよね。でも、石投げる以外にカラスを刺激するって、例えばどういうこと?」
「え~と、いろいろあるでしょ、ほら、そう、カラスと目が合ったりするとヤバイですよね。」
「なんか、カラスってヤクザみたいだね。」

「も~、この案でいきましょうよ。」

「そこまで言うんなら、君に任せるけど、最後にひとつだけいい?」
「何ですか?」
急襲っていう字ね、難しいけどうちの学生に読めるかな?」

「?」

といったようなやり取りがあったかどうかは分かりませんが…


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犬猫の散歩 [にほんご]

にほんごパトロール  犬猫の散歩は固くお断りいたします


採集場所:品川区T病院敷地内
採集日:2005/9/14

 僕が毎月通っている、T病院は設備の整った大きい病院だ
病院に続く道はゆったりとして散歩にはおあつらえ向きの道だ
春は桜が満開のときなぞまことに美しい
入院患者が散歩している姿も時折見かける

 ところがその道は途中から病院の私有地になっていて
つきあたりが病院の本館になっている
散歩に最適なのは、その病院の私有地になったあたりからだ

というわけで写真のような看板がかけられた

こういう看板をみると僕はすぐ、それが作られた経緯を詮索してしまう
病院の事務長かなんかのところに患者から苦情がきたのだろうと思う

事務員「事務長、何回か苦情が来てますから注意の看板でもかけましょうか?」
事務長「そうだね、一応、対応しましたって態度で示しておかないとね。」
「じゃ早速、犬の散歩お断り、って看板作らせます。」
「犬だけでいいの?」
「え?」
「猫だって散歩するんじゃないの?」
「確かに猫が歩いているのは見かけますが、散歩ですかね、あれ。」
「いや犬の散歩って書いておくと、猫ならいいんだな、っていう変わり者もでてくるってこと。」
「そんなこと言ったら、ウサギ、かめ、フェレット、ミニ豚、イグアナ散歩お断りって書かないと…」
「君はほんとに口がへらないなぁ、僕が犬猫っていったら、そうですねって言えないのか。」
「はぁ。」
「猫ぐらい入れといたっていいじゃないか!」
「はぁ、わたしは別にいいんですけど…、なんかおかしくないですかね。」
「君はどうしていつも、そう犬猫を差別するんだ!」
「え、差別ですか?それ じゃあ、いいです、犬猫にしましょう。」
「そうだよ、そういうふうに最初から素直に言えばいいんだよ、評価の時期だって近いんだからねっ。」

というようなやり取りがあったかは知りませんが…


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犬走りを歩きましょう [にほんご]

にほんごパトロール

犬走りを歩きましょう

携帯電話カメラで撮影
採集場所:足立区立N小学校校庭
採集日時:2005/9/11 AM11:30


 昨日、選挙の投票に行った。我が家の方の投票所は近くの小学校だ。
昼前に投票を済ませてしまおうと思って学校に行くと、大勢の人がいる。
いつもこのくらいの時間に来るのだが、明らかにいつもの選挙の時よりも人の数が多い。
小学校の正門を入ると、入り口に「犬走りを歩きましょう」という看板が立っている。

 その小学校の投票所は体育館だが、そこに行くためには校庭を通らねばならない。
校庭には、他の学校でもよくあるように細かい砂利がひていある。しかし雨が降るとこの砂利が土と混ざり白い水溜りがそこここに出来て、とても歩きにくい。
その日は雨は降っていなかったが雨の降ったときのことを考慮してこの看板を出したのか。

その看板は古そうだったが、選挙のときだけ使うのか、それとも生徒たちにも使っているのか。

選挙に来た人用だったら、相手は地域の成人なんだから「歩きましょう」は失礼だろう、「お歩きください」くらいは書くべきだ。
もし相手が小学生だったら「犬走り」がなんだか分かるんだろうか?
実はお恥ずかしいが、僕も「犬走り」がどういうものかはちゃんと知っていなかった。

【犬走り イヌバシリ】を百科事典で引くと、
犬行(いぬゆき)とも。築地(ついじ)の外の溝と築地との間の平地。その幅の広いものを(ぜん)地といい、平安京大内裏の築地外の(ぜん)地は約8m、犬走りは0.9~4.5mであった。城の石垣と塀の間の空地、一般構造物の外壁に沿った地盤にコンクリートや砂利をしたところを言う場合もある。
分かります?

広辞苑には、小股にちょこちょこ走ること、という意味も載っていました。



一般的には、上の写真のコンクリートの所を言うらしい
ところが、犬は狭いところならどごでも走り回る、で…


 
専門的には各分野で3つ位の意味があるらしい

・線路と周辺の土地との境界となる場所→鉄道関係、鉄道マニア(左)
・堤防の内側(河川の反対側)で地盤よりやや高い位置に作られた場所→堤防工事(中)
・城で石垣が二段になっており、その間が土間になっている、これは濠を渡り城内に攻め入ろうとする敵を防御するための場所でこれを犬走りという→築城用語(右)

う~ん、犬はどこでも走り回るんだ。だから犬が走り回りそうな細長い狭いところはみんな犬走りなのかな。(犬走りは細長いけど、猫の額は狭い)

で、人はそこは走ってはいけませんよ、歩きましょう、という意味の看板なんですね。
え? そうじゃない?

肝心の衆議院選挙の方はどうなったか。僕が選挙前に感じた通りの結果になりました。


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ワンの一言 [にほんご]

 にほんごパトロール ワンの一言


採集場所:都立舎人公園
採集日時:2005/8/29

犬のひとり歩きはいけません

僕はこの看板が好きだ。
公園を散歩していてこの看板の前に来ると、いつもつっこみを入れたくなる。
「犬のひとり歩きはいけませんって?誰に言ってるんだよ。じゃ犬が二匹とか、猫と一緒なら良いのかい?」とか色んな突っ込みが浮かんでくる。

 飼い主に向かって言うのなら「犬にひとり歩きさせないで下さい」とか、なるんだろうが、犬でもひとり歩きと言うんだろうか。一匹歩き。
広辞苑で調べると、【独り歩き】→一人歩きではないんだな。
独り歩きという意味は、一人で歩くことの意味と、一人前になって独立することの意味とあるらしい。
う~ん、犬は一人前になって独立してはいけないんだな。

 そのうち、この看板に「ワンの一言」というなんだか分からないテープが貼られた。どういう意味なんだろう。公園を散歩している人から、「いけません」と言うところが、高飛車だというクレームがあったんだろうか。それでこれは犬に言ってるんですよ、ということにしよう、としたのかな。
とすると「ワンの一言」じゃなくて「ワンへの一言」じゃないの。

 それとも、犬に言っているんじゃなくて、犬が言っているのかな。犬がひとり歩きしている犬にむかって、「ワン、君ぃ、犬のひとり歩きはいけません」って。まぁ、どうでもいいけど、見る人が首を傾げたくなるようなテープはやめてよ。

その上、こんどは「糞を処理しょう」だって、せっかくのセンスのいい看板が台無しだね。


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僕らは命を食べている [にほんご]


 
  昨日、ロシア人のE君と酒を飲みながら話していたら、ちょっとドキッとすることがあった。
彼はロシア人と言ってもバイカル湖に近い地方の出で、顔は日本人そっくりである。日本へ来る前はモンゴルに四年間くらい留学していた。

彼と食べ物の話をしている時いきなり「日本はどこで羊を殺しますか?」ときかれた。
日本でも羊や豚や牛を食べると聞いたが殺しているところを見たことがない。どこで、どうやって殺しているんだろう、と疑問に思ったらしい。

僕は思わず「工場で」と答えたが、どうやって、というのは答えられなかった。
モンゴルでは羊を殺すとき痛みを与えず、一滴の血も流さない方法があって、それで自分の羊を殺して食べるのだと言う。

 僕らはと言えば、羊の肉だって、豚肉だって、牛肉だってスーパーで見る白いトレーに盛られてラップをしてある、あの形のものしか見ないし、それは「工場」から来るものだと思っている。
それは商品であって、かつて生きていたもの、という思いはない。

しかし彼の話を聞いていて、元来食べると言うことは自分の手で殺してその命を食べると言うことに他ならないと感じた。昔モロッコを旅していたとき、荒野の中でキャラバンが止まるとカバブ売りがやって来た。彼は手にカバブと今切ったばかりの羊の首を持っていた。それは、「新鮮だよ!」、という意味なんだろうが、いかにも生々しかった。

でもそれは考えてみれば「命」「食」との一体性を認識できるぎりぎりの距離感だったかも知れない。段々と離れてゆくに従って「命」は「商品」に変わってゆく。そう思った。

E君の話を聞いて思い出したこと…

・ずっと前にNHKで「世界の食シリーズ」と言うドキュメンタリー番組があって、そのなかでドイツの農家のソーセージ作りを記録したフィルムがあった。
それは晩秋のある日、ドイツの農家の中庭にまるまると太った大きな豚が引き出されたところから始まり、屠殺そして加工と続く。カメラはたんたんとその様子を記録している。最後は血の一滴まで「Blutwurst(血のソーセージ)」に加工されて捨てるものは何もない。ソーセージは薫製にして保管し一家はそれで一冬を越す。
*「無駄がない」、と言ってもコストと効率のために牛に牛の肉骨粉を与えて共食いをさせる「有効利用」とは違うと思うが…。

・反捕鯨団体のPRフィルムを見た。真っ青な大海原に鯨が悠々と泳いでいる
そこに捕鯨船が近づき銛を打ち込む。鯨はのたうち回り、やがて海は真っ赤な血の海と化す。
「残酷さ」を訴えた映像が延々と続く。確かに見るに絶えない、しかし牛や豚や羊はどうなんだろうか。我々には見えていないだけなのだ。だからといって捕鯨を云々するつもりはない。命を食べるとはきっとそういうことなんだ。

・ある若い獣医師の話。農家で飼っている牛が難病にかかり農家が困っていた。
その獣医は情熱を傾け、長い時間をかけて何度も通って、大変な苦労のあげくやっと治してあげた。農家は大変喜んで、しばらくして獣医のところにお礼を持ってやってきた。
そのお礼というのは治したその牛の肉だった。

僕らの「命」「食」との距離感はおかしくなっている。
この国の食糧自給率は40%を割っている。
…なのに食料の20%以上は捨てている。
つまり奪った命の二割は食べることもなく、残したり、賞味期限切れで捨てているのだ。

 


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徹子の部屋で… [にほんご]

 この間、外国人と日本語で話していてあまりに「あなた」を連発するものだから、「あなた」は余り面と向かって話相手には使わないとアドバイスしたら、テレビに出ている女の人でいつもそう話している人がいる、と言われた。
欧米系の日本語学習者は文章にどうしても主語を付けたくなるので「あなた」をよく使う人が多い。だが日本語で二人で話しているときは普通、一人称や二人称の人称代名詞は省略することが多いし、そのほうが普通に聞こえる。
あえて相手のことを言うときは「山田さんはどうですか?」とか「お客様はどうなさいますか?」とか名前や立場名を言うのが普通だ。確かに「あなた」なら名前や関係に気を使う必要がないので便利だが、お客様に「あなたはどうなさいますか?」はいかにも失礼だ。

 先日、テレビの「徹子の部屋」を見ていたら、黒柳徹子がゲストに対して盛んに「あなた」を連発していた。このことを言っていたのかも知れない。(もう1人デビ婦人も「あなた」を連発するが、彼女の場合はどちらかというと「あ~た」に近いし、傍若無人な人物の語り口として意識して話しているから、他人にもそれは普通の話し方とは違うということは伝わる。)

 テレビを見ていても、いったん気になると、なかなか話の中に入ってゆけなくなるので困る。黒柳徹子の場合、もう一つ気になったことがあった。
その日の「徹子の部屋」のゲストは話題になっている○○兄弟とかいう子供マジシャン(小学校低学年)だったが、その子供たちに敬語を使っていたように思う。よく覚えていないが「あなたたち、○○なさるの?」とか「あなたたち、○○でいらっしゃるから」というような表現があったと思う。

これは敬語と言うより、いわゆる山の手言葉なのだろうか? 田園調布か成城あたりのお母様がお子様に「さあ、召し上がれ」という類か。黒柳徹子はタレントとして自分の話し方のスタイルを確立しているし、我々もそういうものだと思ってさして気にしないでいた。しかし外国人に指摘されて、もう一度日本語として少し距離をおいて聞いてみると、おかしなところが見えてくる。


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ハトがある? [にほんご]

 このあいだテレビを見ていたら「ファイナル・アンサー」アグネス・チャンがでていた。彼女はもう30年近く日本にいるが、日本に来て最初に見て驚いた話として、「日本は、公園に鳩がいっぱいアルので驚いた」と言っていた。

生き物とそうでないものとの存在を「アルイル」で使い分けすることは、日本語のかなり初級でやるのだが彼女にはいまだに難しいのか、それとも単純な言い間違いだったのか。
いやいや彼女の流暢な日本語を聞くと、彼女がそんな単純な間違いをするはずはない。
なにか理由があるはずだ。

 その鳩の話には続きがあって、彼女は日本で公園や神社に鳩がいっぱいいるのを見るたびにいつも、「美味しそうだなぁ」と思っていたという。
どうやら中国では鳩は「食べ物」として見られているらしい。そんなわけで、もしかしたらアグネスも鳩を生き物とは見ていなかったので、つい「いる」でなく「ある」を使ってしまったのかも知れない。


*ちなにみハトはフランス料理でも美食家のメニューらしい。


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遅いっ!  モノクロニックな日本 [にほんご]


 先週、韓国の就学生数人と横浜に遊びに行こうということになって、鶴見の駅で10時半に待ち合わせて行くことになった。一行は日本人4人と韓国人6人のグループになった。当日は「ソウルタイム」といって、時間通りには来ないことがあると聞いていたので20~30分位のアローワンスは持っている必要があると思った。

 当日、日本人はもちろん全員時間通りに来た。(日本人といっても年輩者が多かったので、今の人よりは時間に律儀だ) 韓国人の方は時間通りに来たのが一人。彼は韓国では15分くらい遅れてくるのが普通だ、と言っていたが、その後15分から30分遅れの中で、さみだれ的にやってきた。最後の一人は待ち合わせ時間を少しすぎたところで電話が入り、今起きたところなのでこれから行く、という。結局、皆で喫茶店で彼女を待つことにして、一時間半遅れでの出発となった。最初に来ていた韓国人のSさんは、さすがにこれは韓国でも例外的な遅れ方だ、と言っていた。


 これで短絡的に結論を出すことは、たった一回の出来事なので危険だ。 が…、まじめな韓国の就学生であるSさんが言った、韓国では約束に15分くらい遅れてゆくのは普通、ということろが印象に残った。韓国の時間感覚には「のりしろ」があるような気がする。それはそれで悪くはない。

日本では人と約束したら5分前か時間きっちりには行くのが常識だと思う。(今の若い日本人はどうであるかはよく分からないが、しかし遅れれば言い訳は言う)日本では時間を守ることに少なくとも社会的な価値を認めている。で、普通の日本人は世界中がそういう価値観を持っていると思ってもいる。だから違う国に行って時間通りにことが運ばないと「いい加減な国だ」と思ってしまう傾向がある。でもそれは狭すぎる見方かも知れない。


 ここでまた先日話したエドワード・ホールというアメリカのおじさんが面白いことを言っていて、時間には文化的時間概念があるらしい。時間の感覚にはPタイムMタイムと言うのがあり、Pタイムとはポリクロニックタイムの略で、同時に多くのことが進行してゆく。つまり人と何時に約束していても、例えば大事な友人が来ればそちらの用を済ませてから約束のところにいく。または同時刻の約束を複数する、というような中東、中南米や南欧の時間感覚に近い。

一方、Mタイムとはモノクロニックタイムの略で一度に一つのことのみ処理する、いわば課題遂行型、時間厳守型の時間感覚だ。日本やアメリカ、北ヨーロッパなどがそれにあたるらしい。このどちらが今までの産業社会に適した時間感覚であるかは言うまでもないと思うが、どちらが「良い」システムかは一概に言うことができない。

幸いにしてと言おうか、不幸にしてと言おうか日本人は明治維新以来ずっとMタイムに大きな価値を見いだしてきた、そして今ではそれが日本人の「気質」のようになっている。むろんそれが日本人労働者のいわばファンダメンタルな力となって今の産業社会を支えている。会社で約束の時間に人が集まれないようでは、会議一つもまともに開くことができないからだ。これは「文化」だから一朝一夕にはできない、つまり日本の競争力を支える重要な資質だったと思う。この点については海外で仕事をしたいろいろな人が実感をもって語っているし、僕もそう思っている。


 しかし今、日本人のMタイム信仰に大きな影がさしていることも事実だ。

その理由は

一つはコンピュータと通信手段の発達による「ユビキタス社会」の到来で、何時にどこそこにいなければならないという形で時間に縛られる必要性が薄くなりつつあるからだ。会議も定時に集まらなくてもメールなど時間に拘束されないメディアが可能だし、待ち合わせに遅れたりしても携帯で連絡がとれるのでトラブルが回避できるなど、単に時間を守ることの価値が相対的に低下しているのではないだろうか。

二つ目は、Mタイム型システムが必ずしも人を幸せにする唯一のシステムではないことに、我々日本人が気がつき始めているのではないか。Mシステムはその性質上、「効率」という概念と隣接している。しかし本来は別のものであるはずである。産業社会の発展という要請の下にこの二つの概念は隣接することになった。「効率」が優先してMタイムが単なるその手段となったとき、先のJR西日本の脱線事故のような悲惨な事故をおこすリスクを抱え込むことになるのではないだろうか。

「時間を守る」ということは、今でも日本人の優れた特質であり、国際的にみれば人的競争力にもなっていることは間違いないが、ここらでもう少し余裕のあるシステムを考えてみる必要はないのか。

 


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それは、ちょっと… [にほんご]

 この間、オーストラリア人の夫妻に日本語を教えていた時のこと。どこまで教えるかで少し悩んでしまった。
彼らは二人とも英語学校の教師なんだけど、日本語はまだ初級の初めの段階。

 今の日本語教育では生活面での実用性を重視して、初級の初めの段階で自分の希望や意思を伝える表現を教えることになっている。
つまり「~たいです」とか「○○が好きです」とかの表現がそれにあたる訳で、当然その反対の意味の表現や否定の形も教えないと実用性がないので当然教えるんだけど、これが結構やっかい。

 「~たいです」の否定は「~たくないです」もしくは「~たくありません」。「○○が好きです」の反対は「○○が嫌いです」。
欧米の人は覚えた言葉はすぐ使ってみるので好いんだけど、文法的には正しくても否定の場合は少し問題が出てくる。

例えば、知り合って間もない会社の同僚の田中さんと外国人ジムさんの会話を想定してみると…

田中:「ジムさん、スシでも食べに行きませんか?」
ジム:「スシは食べたくありません」(もしくは「スシは嫌いです」)
田中:「…」

日本語の初級者だと分かっていても何となく気まずいクーキが流れるなあ。

これが
田中:「ジムさん、スシでも食べに行きませんか?」
ジム:「すみません、スシはちょっと…」
田中:「あ、そうだよね、生ものが苦手な人結構いるもんね。じゃあ、ラーメンはどう?」

とまあ、こんなにうまく行くかどうかは別として一応会話の形にはなっている。
ということで、否定の時は、「○○はちょっと…」という表現を推奨する。理由は日本人は直裁的な表現で否定したがらない、という表現特性を持ってる、というようなことを何とか状況設定の中で分からせる努力をするしかない。日本で生活していると、日本人の曖昧な表現にでくわす経験が多いので何となく納得してもらえることが多い。

 そうすると、彼らは頭の中でチョムスキーばりの表現変換をして「○○は嫌いです→○○はちょっと…」と言ってくれる。ところが彼らの頭の中では、おそらく母語では「スシなんか食えるか!」とか「スシなんかでっ嫌いだ!」とかいうフレーズが渦巻いているにちがいない。言い方の違いは表現特性の問題として捕らえているから、日本人も頭の中では同じように考えて言っていると思うにちがいない。ただ表現がそうなっているだけだと…。

でもこれでいいんだろうか。

 しかし日本人の頭の中では少し違うプロセスが働いている。日本語では直裁的な表現で否定をしないという、そういう表現特性の裏には、「相手に恥をかかせない」という心理が働いている、と思う。とすれば、相手の言っていることを否定することは、相手に恥をかかせることになるんだ、という日本語の文化的コンテクストを分からせなければ、表現の自動変換的な思考から抜け出てもらうことは難しくなる。

 自己主張、論議、交渉をベースとした言語習慣を持つ人間に、短時間でこれをわからせるのは至難の業だと思う。しかしある言語を学び使うということはその背景をも理解し受け入れることを含んでいると思う。尤も、理解しても受け入れる必要はないのかも知れないが…。(しかし全く受け入れることなしに本当に理解できるのか?)

 


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