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一夜の花 [gillman*s park]

一夜の花

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 …「夢にすれば、すぐに活きる」と例の髯が無造作に答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火(かやりび)が消えて、暗きに潜めるがつと出でて頸筋にあたりをちくと刺す。

「灰が湿っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋をとると、赤い絹糸で括りつけた蚊遣灰が燻りながらふらふらと揺れる。東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花(あじさい)の茂みを洩れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。

「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋の上に塊(かた)まって茶色の球が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯(さっ)と来て吹き散らす。塊まらぬ間に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描いて、黒塗に蒔絵を散らした筒の周囲(まわり)を遶(めぐ)る。

あるものは緩く、あるものは疾(と)く遶る。またある時は輪さえ描く隙なきに乱れてしまう。「荼毘(だび)だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾(と)うから知っている。

「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍らにある羊皮の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙(ぞうげ)を薄く削った紙小刀(ナイフ)が挟んである。巻(かん)に余って長く外へ食(は)み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖(さき)で触ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て、「香でも焚きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。…

  夏目漱石 「一夜」より



 これは夏目漱石の短編「一夜」の一節だけれど、ぼくは漱石の作品の中でもとりわけこの一編が好きだ。極めて短い小説で、はっきりとした筋があるわけでもない。男二人と一人の女が蚊遣を焚いた和室でとりとめのない夢の話をしている。それは一見芸術談義の様相を呈してはいるがそれもまたとりとめのない話だ。

 八畳の座敷に立ち上る蚊遣の煙。庭の紫陽花の繁みの向うから隣家が奏でる尺八と箏の音が聞こえてくる。三人の他愛のない一夜の会話を紫陽花の花がじっと聴いているようだ。話の中には蜘蛛も蟻も登場する。若冲も出てくる。しかしそれは話の添え物であってこの噺の主人公ではない。

 この噺の本当の主人公は漱石の美意識だとぼくは思った。それは漱石の美意識でもあり、そして恐らくはその時代の日本人が持っていた美意識なのかもしれない。髭無き男(三人のうちの一人)が言う、「八畳の座敷があって、三人の客が座る。一人の女の膝へ一疋の蟻が上がる。一疋の蟻が上がった美人の手は…」「白い、蟻は黒い」

 静謐で妖艶で幻想的な美意識の世界。それは間違いなく漱石のもっと前の時代から日本人の頭の中に引き継がれてきた美意識なのだと思う。この小説を読むたびに、自分の今の借り物の安っぽい美意識がとてもみじめなものに見えてしまう。紫陽花の花が嗤っているようだ。


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  *公園のアジサイも咲き始めました。華やかで大ぶりなアジサイの花の塊の足元にひっそりと咲いていたガクアジサイの花がとても可憐でした。毎年今の時期になるとアジサイの花が見られることがとても幸せなことのように思えます。

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コメント 7

albireo

父親が、若い頃に読んでいた、岩波の漱石全集があるのですが、
僕は殆ど読んでいません・・・
この話は、面白そうですね。
折角、書棚に収まっている漱石全集。読まないのは、勿体ない事だと
思っているのですが・・・
by albireo (2012-06-08 21:12) 

aya

ガクアジサイがいい雰囲気ですね、
この花は引いて撮った方が、良さが出ていいですね! 発見でした。

by aya (2012-06-08 23:00) 

reorio

夏目漱石の千円札が好きです!お年玉の頃を思い出して
なんだかワクワクするんです、あれ?ごめんなさい全然関係なかった・・・(_)

さっき仕事の休憩時間に、紫陽花撮って来ました!
風雨で背中が冷たい・・・今夜UP予定です^^
by reorio (2012-06-09 18:17) 

rantan-nya

蚊遣という言い方、いいですね
どうしても蚊取り線香といってしまう^^;
by rantan-nya (2012-06-10 23:02) 

engrid

がくあじさいが、とてもいい雰囲気です
ひっそりした感があります
一夜、読んだような記憶が曖昧です
読み返したく、思っています
by engrid (2012-06-11 14:49) 

coco030705

こんばんは。
漱石が好きなのに、この一遍は知りませんでした。すばらしい文章ですね。ぜひ読んでみます。がく紫陽花は大好きな花です。

by coco030705 (2012-06-11 20:20) 

JOY

私も読んでみます。「夢十夜」は好きですが、「一夜」は知りませんでした。
by JOY (2012-06-12 17:41) 

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