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沸騰する世界 [Déjà-vu]

沸騰する世界

 火にかけられた鍋の中のお湯が今まで静かだったのに、それが沸点に達した瞬間いきなり煮立って吹き上がり始める。もちろん目には見えないけれど静かなお湯の中でも沸騰するためのプロセスは確実に進んでいたのだがそれがぼくたちには見えなかっただけなのだけれど…。

 世界は今そんな時を迎えているのかもしれない。たった10年で世界は熱せられた鍋の中の湯のように煮詰まり始めた。沸騰前に鍋の底からいくつもの小さな泡が沸き上がるように、よく見れば今までも個々の国や事象での予兆はあったのに違いないのだけれど、それは何か繋がったもののようには見えていなかったのかもしれない。

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 2011年に訪れたトルコもこの10年で大きく変わってしまった。当時はEU加盟を見越してコインのデザインもユーロ風になっていたのだが、その後エルドワン政権になって急速に右に舵をきっている。多くの宗教的紆余曲折を経て今の形に落ち着いた世界遺産のアヤソフィアもこれからはモスクの寺院にされることが決まった。

 イスタンブールからダーダネルス海峡を渡ってしばらく行ったエーゲ海に面したところにアイワルクという保養地がある。海岸沿いに瀟洒なホテルが立ち並ぶ風光明媚なところだ。早朝、朝霧の中を海岸を散策すると陽の光のかげんで時折空中にふっと小さな虹が浮かび上がった。夢のような瞬間だった。 

 朽ちた桟橋の向こうにはうっすらと島影が見えるが晴れた日にはその先にはレスボス島の島影が見えるという。海岸線からは目と鼻の先にあるが、そこはもうギリシャ領だ。レスボス島はレズビアンの語源にもなっている伝説の島だが、今この島が大変なことになっている。


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 Dardanelles Channel


 レスボス島にはトルコなどからの大量の避難民や移民が押し寄せ、島の難民キャンプは混乱に陥っている。難民の大半はシリアやアフガニスタン等からで、トルコを経由してギリシャそして欧州本土を目指している。難民の数はキャンプの3千人の定員をはるかに超えて一万人以上が対岸トルコからやってきた。

 数日前にはそのキャンプでコロナ感染が判明し、それにからんで数カ所から放火と思われる火災が発生、キャンプが全焼して大混乱に陥った。難民・移民に関してはドイツがメルケル政権の方針で数百万人を受け入れたことによっていまだにドイツは混乱しており、右派の台頭も招いているし、このコロナ禍で欧州はもうどこも難民を入れようとはしないだろう。*

 よく化学反応はちょとした刺激や添加物の投入で劇的に進むことがあるといわれるけれど、煮詰まりつつあった世界が新型コロナという刺激で一気に沸騰した感じになった。これはもとに戻ることはないだろうし、これからどのような変化が待ち受けているのだろうか。

 *先日ドイツがレスボス島の難民のうち家族連れを中心とする1000人規模の難民受け入れ表明をしました。


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 Cappadocia


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IstanburDSC02384.JPG*イスタンブールのアヤソフィアを訪れた時、入場まで少し並んで待たされたのだけれどその時近くにトルコの小学生の団体らしい子供たちがいました。みんな陽気で人懐っこい笑顔が溢れていました。あれから10年近く経って彼らも大人になっていると思うのですが、どんな大人になっているんでしょうか。今でも彼らの顔から笑顔が消えていないことを祈ります。(アヤソフィアにて)

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母の時間 [新隠居主義]

母の時間

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  ■日日

  ある日僕は思った
  僕に持ち上げられないものなんてあるだろうか

      次の日僕は思った
  僕に持ち上げられるものなんてあるだろうか

      暮れやすい日日を僕は
  傾斜して歩んでいる

  これらの親しい日日が
  つぎつぎ後ろへ駆け去るのを
  いぶかしいようなおそれの気持ちでみつめながら
 

  ■Days

  One day I wondered if there was something
  I would be unable to lift.

  The next day I wondered if there was anything
  I would be able to lift.

  As days lead toward darkness
  I walk on slumped over.

  watching, with doubt and fear,
  those familiar days gallop away backward,
  passing me by, one after another.

   (「二十億光年の孤独」谷川俊太郎/W.I.エリオット訳、集英社)


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 早いもので今年の九月は98歳で死んだ三回忌になるのだけれど、コロナ禍で法要ということにもいかないので、カミさんと二人だけで墓参りに行くことにしている。
 
 人を想うということはその人の時間を想うことかもしれない。その人の居た時間。その人と居た時間。そしてその人の居なくなった時間。

 晩年の母の時間は自分の好きなものを沢山身の回りに置いて、絵を描いたり、書をしたためたり、彫り物をしたり好きな時間を過ごしていた。テレビは脇で点いていたけれど殆ど観てはいなかった。

 そのうち車いすになって手の届く範囲が狭くなって、好きなものを身の周りに置いた円周が段々と小さくなってゆく。そのうちに字が思い出せなくなって、顔が思い出せなくなって…。

 歳とってからの母を時々撮っていたけれど、毎日顔をあわせているから照れくさいのか、どうしても大きいカメラは向けることができなくていつもスマホで隠れるように撮っていた。死んだ時も。それらの写真は今でも時々見返すけれど写っているのはやっぱり母の時間だ。

 晩年の母を撮った写真ではこれが一番好きな写真だ。さりげない母の時間が写っていると思う。後年日々崩れてゆく母の姿を見続けてこちらの心も折れそうになった月日が続いた。でも、この写真を見ると母には静かな時間がまちがいなく存在したんだという穏やかな気持ちがもどってくる。…写真の力。



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Buchenwald (ブーヘンヴァルト)で思ったこと ~2~ [新隠居主義]

Buchenwald (ブーヘンヴァルト)で思ったこと ~2~

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 1971年9月4日、ブーヘンヴァルト強制収容所を訪れるその二日前。東ドイツの国境でやっと手続きが済みアイゼナハに向う。昼時で腹が減ったのでアイゼナハでアウトバーン(メンテがしてないので至る所に穴が開いている)を降り、駅のレストランで昼食をとる。席は大きなテーブルに何人かの相席だった。相席の地元のドイツ人の一人がそのレストランのメニューを見せて、西ドイツではこの料理は何マルク位するか言ってみろという。それじゃあ、こういう洋服はいくら位だとか、矢継ぎ早に色々と聞いてくる。

 食事が終わって同じテーブルにいたもう一人のドイツ人の男性とレストランの部屋を出たところで出会う。ワグナーのタンホイザーの舞台になったバルトブルグの城を見たいので道を聞くと、ぼくらの車に同乗して案内してくれると言う。車を回して出発しようとすると、レストランの前に待機していたパトカーに乗った警官に停止を命じられた。

 ぼくらのパスポートを見て警察まで同行してくれという。一緒にいた学校の先生だというドイツ人はあいにく身分証明書を持っていなかったので、それを確認するためにレストランの前から別のパトカーで彼の自宅まで連れてゆかれた。彼とは別れぎわ握手をして今度春のメッセの時にはビザをとって是非寄ってくれ、家庭的なもてなしをするからと言っていたが、その顔は蒼白で緊張していた。

 ぼくらはパトカーの後についてゆく。警察で40分位待たされる。何を調べているんだろう。やっと警官が戻ってきて言うにはぼくらのビザはライプチッヒのメッセ(見本市)専用のビザであるから、この街を見ることは許されない、真直ぐに目的地に向ってくれとのこと。

 でもなんであんなにタイミングよく二台もパトカーがあそこに居たのかと訝ったけど、ひとつ思い当たる節があった。レストランで食事をしてドイツ人の男性といろいろと西ドイツの話をしているときに同じテーブルにいた客が一人食事中に中座して姿を消した。こちらでは食事中に中座するということは余りないから、たぶんその人が密告の電話をしに行ったのだと今でも思っている。

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 ここで少し東ドイツ時代の秘密警察であるシュタージ(Stasi/Staatssicherheit)にまつわる話をしておかなければならない。東ドイツのシュタージはある意味では恐らくソ連のKGBを上回る国民監視体制をひいていた。シュータジ(秘密警察)は反政府の芽を徹底的に摘むために秘密警察としての機能を自組織の中だけでなく多くの一般市民を個人の弱みを握るなどして密告者(IM/ドイツ語: Inoffizieller Mitarbeiter、非公式協力者)に仕立て上げることによって完全なネットワークを作り上げていた。

 東西ドイツが再統一されてから、東ドイツ時代のシュタージの市民監視記録の情報公開請求ができるようになったので、請求すればたぶんぼくらの情報も残っていると思う。もっとずっと後だけれど東ドイツの友達を二度ほど訪ねていった日本人の女性が最近になってシュタージの情報公開請求をしたら、二度とも彼女が友人の住む街の駅に降りたった時からの行動記録が逐一残っていたという話をドイツ映画翻訳家の人が親しい友人から聞いた話として紹介していた。

 ブーヘンヴァルトの強制収容所はユダヤ人だけでなく、共産党や反ナチスなどの政治犯も多く投獄され処刑されていた。戦後東ドイツはその強制収容所を保存し、展示し後世に残そうとしていた。しかしそれは自らの贖罪というよりはその罪を全てナチスに被せると同時に国内に向けての反西側のプロパガンダの場にしてしまったのだと思う。

 だが、その程度こそ違い強制収容所に展開されていたようなこと、つまり自分の政権や体制に都合の悪い分子は徹底的に排除するという全体主義的な性格だけはこの国にしっかりと受け継がれていたことに驚いた。1990年東西ドイツが再統一されて以来それらの状況が次々と明らかにされて、非公式協力者(密告者)の中にはオリンピックのメダリストなど著名なスポーツ選手等も居たことも判明して一時は大変な問題になった。

 ドイツ再統一から30年、それではそういうことはこの世界からもう姿を消したのかというと、むしろそれは最新のIT技術などによってより巧妙に、より完璧になっているのかもしれないと思うことがある。最近の世界の状況を見るにつけ、何ともやり場のない無力感に襲われている。

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 *今ドイツでは極右・右翼政党であるAfD(ドイツのための選択肢、Alternative für Deutschland、略称:AfD)が2015年にメルケル首相がハンガリーで立ち往生していたシリア難民ら約100万人に対し、超法規的措置としてドイツでの亡命を認めたことを契機に、反移民さらには旧東ドイツ住民の不満を吸収する形で特に旧東ドイツ地区で大躍進をとげています。

 ぼくが2016年にドレスデンを訪れた時目にした、難民、移民によってもたらされた新市街の変わりようは驚くべきものだったし、ライプツィッヒで泊まったホテルの下で反移民の大規模なデモが始まったのを目にした時も時代が大きく変わりつつあることを感じました。

 今までEUの優等生として欧州をけん引してきたドイツもこのコロナ禍で疲弊していることは間違いがなく、この先ドイツ国内がどういう方向に進んでいくかはメルケル氏も引退が近いこともあって目が離せないと思います。旧東ドイツ地域では今Ostalgie(オスタルギー)つまりOst(東)とNostalgie(ノスタルジー)を合わせた造語なのですが、旧東ドイツ時代を懐かしむ言葉も生まれています。

 これらはもちろん、その時代の素朴な商品や一見静かな生活への感傷的な見方で政治体制や自由のない時代を是認しているわけではないのですが、現状への不満の表れとも解することはできます。長いこと分断されていた東西の溝はそう簡単には埋まらないようです。




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