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お盆雑感 [新隠居主義]

お盆雑感
 
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  東京のお盆は7月15日なので早々に実家の墓参りを済ませて、盆の入りの13日には玄関で迎え火を焚いてお迎えをした。これが我が家では両親が居る頃からの年中行事なのだが、年々簡略化してしまっているような気がする。

 勿論喪中の時期や新盆(にいぼん)には岐阜提灯を灯して万端の用意をして行っていたのだけれど、その時期が過ぎた頃から盆飾りはするにしても段々小さなものになっているかもしれない。まぁ、これも形だから心がこもっていれば両親にも叱られないとは思うのだけれど…。

 我が家では毎朝仏壇にお茶を備えて、過去帳をめくって拝んでいるのだけれど、段々とこっちも歳をとってきて仏壇にむかうたびに向こうに居る両親に近づいて行くような不思議な気持ちになって来る。

 最近、よく「形質の声」を聴くようになった。形質の声とはぼくが勝手に名付けたのだが、普通「形質」というと遺伝形質の事で両親や先祖から受け継いだ遺伝形質の事を示す。学問的に言えば形態形質とか生理形質とかいくつかのカテゴリーがあるらしいのだけれども、ぼくは身近に感じるものとして大きく「体質」と「気質」とに分けている。

 その形質には「発現期」というのがあって、物心ついたあたりから「まぁ、理屈っぽいところがお父さんにそっくりになってきた」とか「なんだか後ろ姿がお父さんそっくり」とか母親などに言われたりするようになる。当の本人はそう言われるのが凄く嫌だったり、そうなっている事にも気が付かないのだけれど…。

 形質にはその「発現期」とは別にそれに気づく「発見期」というようなものもあるような気がする。ぼくの場合若い時には遮二無二自分一人で生きているつもりで、あまり感じなかった自分の中の両親みたいなものの存在が中年を過ぎた頃から、ちらほらと自分の心の中で見え隠れするようになった。

 例えば、ぼくは疲労が溜まってくると鼓膜が痛くなることがあるのだけれど、そんな時は「あ、これは親父の体質だな」とか、どうでもいいようなことを取り越し苦労していると「あ、自分の中のお袋が考え込んでいる」みたいに、いわば自分の中で形質が働いている様子が想像できることが増えてきている。

 それはもちろん長い間両親と一緒に居たのでその観察の結果から来ているのかもしれないけれど、もしかしたら生まれてすぐ離れ離れになった親子でもそういった形質の声を聴くことはあるかもしれない。それは先祖から連綿と続いた諸形質の現在でのひとつの到達点が自分という存在であることを想えばありえることだ。…お盆にあたってなんとなく想ったこと。

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