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谷根千今昔 ~谷中~ [下町の時間]

谷根千今昔 ~谷中~


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 ■書斎と星

『東京にはお星さんがないよ。』
 と、うちの子はよく言ふ。
『ああ、ああ、俺には書斎がない。』
 これはその父であるわたくし自身の嘆息である。
 まつたく小田原の天神山はあらゆる星座の下に恵まれてゐた。山景風光ともにすぐれて明るかつたが、階上のバルコンや寝室から仰ぐ夜空の美しさも格別であつた。これが東京へ来てほとんど見失つて了つた。
それでもまだこの谷中の墓地はいい。時とすると晴れわたつた満月の夜などに水水しい木星の瞬きも光る。だが、うちの庭からは菩提樹や椎の木立に遮られて、坊やの瞳には映らない。…
(「書斎と星」北原白秋/「白秋全集 第一三巻」)

 小田原で震災に罹災した北原白秋は東京の谷中に引っ越してきた。東京も震災にあったに違いないのだけれど、こっちに引っ越してきたと言うことはまだ谷中付近の方は大丈夫だったのかもしれない。東京の下町に引っ越してきて白秋は書斎もないし星も見えなくなったと嘆いている。

 白秋が住んでいたのは谷中の商店街に降りる手前を左に曲がって朝倉彫塑館を過ぎた辺りだけれど、そこら辺には幸田露伴も住んでしたことがあるし、ちょっと先には岡倉天心の屋敷もあった。いずれも今は当時の面影はない。天心の屋敷跡はポケットパークのような小さな公園になって六角堂の形をした記念碑があるのみだ。


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 一昨日、いつものカメラ仲間と谷根千を散策した。いつ頃から谷中・根津・千駄木をまとめて谷根千と称するようになったのかは知らないけれど、少なくともそんな昔ではないと思う。というのは、もう50年も昔になるけど、ここら辺はぼくの通学路だったのだけれど当時はそういう呼び方はしていなかったと思うのだ。

 当時は日暮里駅から谷中の坂を下って不忍通りにでて団子坂のきつい坂を登り森鴎外の住んでいた観潮楼のちょっと先にある高校に通っていた。卒業してからは全くと言っていいほどここら辺に来ることは無かったけれど、数年前に日暮里舎人ライナーが出来て日暮里駅を頻繁に利用するようになって、また谷中方面にも来るようになった。

 数十年を経て、ここら辺を歩いてみて驚いたのは谷中商店街を始めここら辺がすっかり観光地のようになっていたことだ。休日などは裏道を含めて散策する人で一杯だそうだ。それを裏付けるように狭い裏路地にもカフェや小物を売るお店が出来ている。外国人の観光客が多いような気もする。

 千住で育って、中学は両国、高校は駒込、会社が本郷と下町にしか住んだことが無いぼくにとっては白秋が嘆いたようなごちゃごちゃとした街並みは当たり前の光景なのだけど、見る人によっては迷路のようで面白いのかもしれない。もっとも方向音痴のぼくにとっては分かりにくいこと甚だしいのだけれど…。とは言いながら、歩いていて何となく安ど感があるのはやっぱり生まれ育った街並みの匂いを感じているからだろうか。   

    …つづく


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*散策当日は昼ごろに根津神社の境内で待ち合わせでした。ぼくは日暮里駅で降りて谷中を抜けて不忍通りを根津まで歩いたのですが、集合後また谷中まで歩き、そこからまた根津まで戻ると言う風に谷根千を都合三回行ったり来たり。でも、その度に道筋を変えて歩いたので今まで知らなかった路も通れて良かったです。

**知らなかったのですが谷中銀座は猫の商店街としても知られているらしく、猫を目当てに来る人も多いようです。とは言えいつも猫にお目にかかると言うわけでもないので…。今回の商店街の写真も一週間くらい前に撮ったものと、当日の午前中集合場所に行きながら撮ったものと、仲間と散策中に撮ったものと混ざっています。ぼくはどちらかというと猫よりも猫を撮っている人の方に関心がありますが…。


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下町、こころの風景 [下町の時間]

下町、こころの風景

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 長いこと生きていれば誰でも一つや二つの心の原風景と言えるような光景を持っていると思う。それは故郷の山河であるかもしれないし、生まれ育った街の細い路地の奥にあるのかも知れない。ぼくにとってはその一つが荒川土手の光景だ。

 お化け煙突の見えるぼくの育った町の近くには隅田川荒川(荒川放水路)という二本の川が流れていた。隅田川の方が家からは近かったけれど、隅田川の護岸はコンクリートの堤防で囲まれていてその細い堤防の上を歩いて遊んだりして、今考えるとなんとも危ない遊びだったような気がする。

 それに比べると荒川は草の生い茂る広々とした土手に囲まれていた。家から近いには違いないのだけれど、子供の足にしてみれば結構な時間がかかるから頻繁に遊びに行くようになったのは、やはり小学校高学年になって自転車を買ってもらってからだった。

 ところが、まだ小学校低学年の頃に一度だけ友達と歩いて土手まで行ったことがある。ある時当時ウチの近所に住んでいた少し年上の油屋のシロちゃんと荒川土手に行こうということになって、随分と歩いて西新井橋の先の土手まで遊びに行った。土手で遊んでいる内にシロちゃんが近くに親戚の家があるから行こうと言い出したので、ぼくとそれから一緒に居た女の子もついて行った。

 土手の上を荒川に沿って歩いて行ったのだけれど、行けども行けどもその親戚の家とやらに着かない。段々と日も暮れかかって来て女の子もべそをかき始めた。結局ぼくらは千住から荒川の小台(おだい)の方まで歩いてやっとシロちゃんの親戚の乾物屋の家にたどり着いた。

 その頃には街のあちこちに灯りがともり始めており、やっと店にたどり着いたぼくたちを見て親戚のオジサンはびっくりした。もちろんその頃は携帯もないから家に連絡もしていない。オジサンは慌ててクロ電話でぼくの家に電話を入れてくれた。案の定、家の方では大騒ぎになっていた。ぼくたちは子供の足で5キロ近くも歩いてたどり着いたので、くたくただった。結局、お菓子かなんかを食べさせてもらって、オジサンのトラックで家まで送ってもらった。六十年近くも昔の話だ。

 もう少し大きくなって自転車を買ってもらってからは頻繁に土手に来るようになった。時には土手の上の道を伝って堀切の方まで行くこともあった。自転車に乗っていると特に夏の間は土手の上は川風が気持ち良かった。引っ越したこともあって大人になってからは、殆ど行くこともなくなったけれど、あの気持ち好い風の肌触りや土手の下のグラウンドから聞こえてくる野球チームの掛け声など、今でも深く心に残っている。


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 *母が90歳近くになってからは年に何回かは定期的にリハビリ病院に入院することが続きました。母の入院していていたリハビリ病院は荒川土手のすぐ近くにあったので、母に面会に行った際、リハビリ中の時などに時間つぶしによく土手に上りました。

 土手に上って左手をみると東武線の鉄橋、右手には京成線の鉄橋、その向こうには東京スカイツリーが見えます。この場所は小津安二郎監督の「東京物語」にも登場します。主人公の息子の町医者が診療所をひらいているところです。

 ぼくが子供の頃自転車で走った時と同じように、今でも土手の下のグラウンドからは少年たちの元気な掛け声が聞こえてきます。ただ、当時の野球少年たちは今ではサッカー少年に変わっていましたが…。


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夏が通り過ぎて行く [下町の時間]

夏が通り過ぎて行く

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  今朝起きたら、もう秋になっていた。毎年思うのだけれど、夏の盛りを過ぎたころ一日のどこかの瞬間で夏が終わろうとしていると感じることがある。それは吹いてくる風に混じってくる冷めた温度の空気だったり、時折空の隅に現れる秋色の蒼だったり、木々の間を通り抜けてくる光の透明度だったり、夏のそれとは何となく異なる秋の予感のようなものだ。

 冬の日の中に春が段々と立ち上がる、三寒四温のように、季節はグラデーションのように次第に移り変わってゆくのかもしれない。でも、それと矛盾するかもしれないけれど、ぼくには昨日で夏ははっきりと終わったと感じるような季節の節目の一日があるという思いもある。今朝がそんな日だった。もう、少し前から朝晩は涼しくなって秋が近いのだと思っていたけれど、それでも時折寝苦しい夜や呆れるほど強い真昼の日差しがかえってくることもあった。

 でも、今朝起きて、もうそんな日は戻っては来ないだろうとはっきりと感じた。それは何が違うのか定かではないけれど、自分の中に潜んでいる動物的な感覚が季節の節目を感じとっていたのかもしれない。そんな日はちょっとさみしい気持ちにもなるけれど、そんな微妙な季節感を持つこの国に生きている幸せを感じる時でもある。


 この間ウチの前を町内の祭りの神輿が通り過ぎて行った。最初に子供たちが曳く山車が来て続いて子供神輿、そして最後に大人神輿がやってくる。町内の祭りは毎年ではなく何年おきかに行われているのかもしれないが、前の時も家の二階から写真を撮った覚えがある。ここでも本祭りと影祭りのようなものがあるのかわからないけれど、今年の祭りの行列は前回のよりも人数も多いようだった。今まで見たこともない女踊りの行列まで出ていた。

 通りを祭りの行列が通る少し前には広報車が来てスピーカーで神輿が通ることを触れ回る。近所の奥さんたちが自分の家の前に出てくる。真夏の日差しを受けて通りのアスファルトは煮えたぎるような暑さだ。深川で生まれ育ったカミさんは祭りが大好きだけれど、いつもウチの前を通る神輿を見て、なんで誰も水をかけてあげないんだろう、といぶかっていた。

 確かに深川の八幡様の祭りでは神輿に盛んに水をかけることで有名だけれど、ここらでは見たことがない。ところが今年は前触れに回っている広報車が「バケツに水を用意して神輿にかけてやってください」と言っていたので、近所の奥さんたちも手に手にバケツを持って出てきた。カミさんも喜んでバケツを持って通りに出て行った。今、目の前を夏が通り過ぎて行った。

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土手の上で [下町の時間]

土手の上で

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 俺は東京で生まれて東京で育ったから「故郷がないんだ」と言う男がいる。だが、その男だって生まれた土地はもっているのである。
 ただ。故郷というものは「捨てる」ときにはじめて、意味を持ってくるという性質のものらしい。
 だから一生故郷を捨てないものには「故郷」が存在としては感じがたいだけのことなのである

  
  (寺山修司「人生処方詩集」)
 


 
  ばあさんがひと月の予定でいつものリハビリ病院に入院している。真夏のこの暑さで体力が落ちているのもあるけれど車いすの生活が脚の筋肉を弱めていることもある。車で三十分位のところなのでいつものように二日おきに着替えを持っていきがてらばあさんの様子を見ることにしている。

 
 先日もリハビリ病院のばあさんのところに行った折、ばあさんは入浴中だったので終わるまで待っている必要があった。行った時がリハビリ訓練中だったり入浴中であることはよくあることだ。そういう時はばあさんのベッド脇のチェストの着替えを入れ替えて整理するか、時間がかかりそうな場合は病院の近くの千草通りをブラつくこともある。

 その日は入浴が始まったばかりでまだ大分時間がかかると思ったので、病院のすぐ先にある荒川土手のほうに行ってみることにした。前にも何度か来たことがあるけれど、今日は真夏の日がじりじりと照りつけている。でも、ここ数日天候は安定していなくて今日も青空の一角には入道雲の一部を覆うように灰色の雲がへばりついている。

 土手の前の細い舗装道路を横切って草むらに覆われかけた急な石段を上ると土手の上に出て急に視界が開ける。土手の上から見晴らすと荒川に沿って河川敷のグラウンドが広がっている。左側にJR線と東武線の鉄橋が見える。その向こうには昔はお化け煙突が見えていたはずだ。視線を右にやるとすぐそばに堀切橋が見え、さらに右を見やると下町の街並みの向こうにスカイツリーが見える。

 荒川土手の左側の鉄橋と堀切橋に挟まれたこの場所は毎回のようにテレビドラマの金八先生に登場していた。ぼくはたまにしか見ていなかったけれど、画面に登場したあの鉄橋と堀切橋の位置関係でここだとすぐわかった。それに、ここは小津安二郎監督の「東京物語」にも登場しているはずだ。堀切橋を渡った先の駅が山村聰扮する医者が開業している平山医院のある場所だ。

 尾道から上京してきた老夫婦が東京で医者をしている自慢の息子を訪ねるが、その場所は想像していた東京とはちがっていたかもしれない。それは東京とは名ばかりの場末の下町なのだ。杉村春子が扮する次女もお化け煙突が見える下町に住んでいる。両者とも都会の中で精いっぱい生きてはいるが、その心根の底には故郷を捨てた者の心情が見え隠れしている。彼らにとって尾道から出てきた両親は、忘れていたその故郷を運んできてしまったのだろう。

 目線を堀切橋の右手に移すと入道雲と雨雲のような灰色の雲が重なっている空の下に、下町の街並みとその向こうにスカイツリーが見える。とりとめの無い猥雑な街並み。決して整ってはいないけれど、そこには確かに人間が生きているという空間が広がっている。ぼくも歳をとってから、とみに自分が生まれ育ったこの下町が自分の故郷だという思いが強くなってきた。寺山修司によれば、自分が生まれ育った土地を捨てて初めて「故郷」という存在が心の中に浮かんでくるのだという。

 そういえば、ぼくも若いころに心密かにもう戻らないつもりで日本を出たことがある。その意味では一度故郷を捨てているかもしれない。でも日本に戻ってからもここが故郷だという気持ちには中々ならなかった。それは映画「東京物語」の子供たちのように、自分も毎日を生きるのに精いっぱいで戻ってきた土地が自分の故郷だったことにも気が付くいとまが無かったのかもしれない。そのことにやっと気づかせてくれたのは、今ぼくの周りに流れているとりとめの無い時間なのかもしれない。


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 *今日またばあさんの病院の帰りに荒川土手によってきました。(9/9) 正午過ぎの日差しは先日に増して強く温度も最高に達していました。河川敷のグラウンドでは休日とあってか少年サッカーチームの激しい練習が行われていました。

この間は誰もいなかった土手の上には、少年サッカーチームの父兄らしい男女がパラソルをさしたり、携帯用のチェアを持参したりして土手の上から練習の様子を観ていました。なかには自分の子供でしょうかベンチに座っている少年のゼッケンを食い入るように見つめていた女性がいて印象的でした。

 **この土手の上に立って目の前のパノラマを見渡すと、この50年の間に東京の下町のモニュメントが左手のお化け煙突から右手のスカイツリーへと移って行ったことを思い、何となく感慨深いものがあります。

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吾妻橋から [下町の時間]

吾妻橋から

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  最近ぼくは友人と夜浅草で落ち合う時などは、少し早めに行って吾妻橋の袂から隅田川越しに夕暮れの光景を眺めるようになった。水上バスの船着き場の横から大川越しに対岸を眺めると金色の高層ビルが赤味を含んだ夕方の光に照らされて映えている。その隣にスカイツリーが寄り添うように立っている。隅田川と首都高速道路という横のストレートな線から天に向かって生えたような建物たちが全体として一つの絵になっているように感じられる。

 大川の向う側は墨田区になるけれど、そこも下町だからさしたる高層ビルはない。目の前のビルも決して超高層ビルではないけれど他に比するものがないからとても目立つのだ。ぼくは吾妻橋からながめたワンセットになったその一角の景色を小さなスノードームに封じ込めてみたくなった。きっと、そのスノードームを手にとって振ると、小さな水球の中で真っ白な雪が舞い上がりそれが夕陽を受けてはらはらと建物たちの上に舞い落ちるのだ。そんな夕暮れの光景がぼくの頭の中で広がっていった。

  元来ぼくは超高層ビルなるものがあまり好きではない。ぼくは人の棲むところは窓から飛び降りても怪我をしない程度の高さが好いと思っている。歴史上でも人の棲む建物がそれ以上の高さになるには権力の誇示や優越であったり、逆に逃避や見張りであったり、はたまた目印であったり、経済的効率化であったり、単に棲むこと以外の理由がそこには存在していると思う。

 ブリューゲルの描いたバベルの塔の絵を子細に見てみると、人間が高みに登ろうとする涙ぐましいほどの様子がありありと見えてくる。もしかしたらスカイツリーもそんなものの表れかもしれない。よくなんとかと煙は高いところに登りたがる、と言うけれど人間の根源的な欲望の中にそういうものがあるのかもしれない。

 舎人ライナーに乗って新宿方面に目を向けると、遥かかなたに幻のように新宿超高層ビル群のスカイラインが浮かび上がってくる。新宿へ行くと空がとても狭く感じられる。街はごちゃごちゃしているけれども、大抵は東京の空は世界の他の大都会に比べても広くて美しいと思う。特に下町の空は広い。浅草の空もこれからも広いままでいて欲しいと思う。吾妻橋からのこの光景はこのままスノードームの中に大事に閉じ込めておいてほしいのだ。


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 *今、スカイツリーの眺望を売りにしてか、スカイツリーの周辺に高層マンションが出来つつあるようです。下町の空も段々と狭くなってゆくのでしょうか。


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心の背景 [下町の時間]

心の背景

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                 SonyEricsson Xperia by gillman

  東京の下町で生まれ育ったぼくたちには見上げる故郷の山がない。嬉しいとき、悲しいときに空を見上げても、そこに山はなかった。その代わり、ぼくの子供の頃にはマンションも大きなビルもなかったから、下町には思いっきり広々とした空があった。

  故郷の山が、自分の視界のどこかに常に入っていて、それが嬉しかった想い出や悔しかったある日の苦さの光景にも無意識に寄り添っているものだとしたら、子供のぼくにとってのそれは千住のお化け煙突だったかもしれない。

 何もない下町の空にお化け煙突は悠然と立っていた。当時、それは東京で一番高い建造物だった。視界の中のどこかにお化け煙突が見える所が自分の居場所のように子供のぼくは思っていた。それはずっとぼくの心の背景だった。

 でも、それはぼくが大人になりかける頃、ぼくの視界の中から消えて行った。お化け煙突に代わって東京タワーが東京にとっての故郷の山になりつつあった。ぼくは東京タワーも好きだ。でも、それはもはやぼくにとっての下町の山ではなかった。ひとつには、それがぼくの生活圏の視界のなかからは外れていたから。

 今日舎人ライナーに乗っていて、東京スカイツリーがいつの間にかいつもぼくの視界の中に入って来ていることに気づいた。公園を散歩している時も、車で買い物に行く時も、ぼくの視界のどこかに入っている。そのスカイツリーは東日本大震災のゴタゴタにすっかり気を取られているうちに外見は出来上がってしまっていた。

 「お前、大きくなったなぁ」 あんなに成長するのを楽しみにしていたのに、肝心な時に長期出張で子供の傍に居られなかった父親みたいに、何かちょっと損をしたような気分になった。でも、建ち上がったスカイツリーを遠くから眺めていて、これから自分の晩年の生活の中で、今度はこのスカイツリーがぼくの心の背景になってゆくような気がした。

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盛り場 浅草伝法院通り [下町の時間]

盛り場 浅草伝法院通り

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  盛り場という言葉を最近あまり聞かなくなったように思う。今はどちらかというと繁華街という言い方の方が多いかもしれない。ぼくは盛り場という言い方も嫌いではない。なんとなく猥雑で、ちょっと怪しい雰囲気も出ているではないか。

 ぼくは千住で育ったので盛り場というと、地元の北千住上野浅草あたりがそれにあたった。当時ぼくらにとっては銀座は盛り場という感じではなくちょっと特別な場所だった。身なりなどでも行くのにいくばくかの心構えがいるという意味で他の盛り場とは違っていた。

 浅草には浅草寺の近くに奥山劇場というのがあって、子供の頃には親に連れられて浅香光代などの女剣劇を見せられたことが何度かあるが、浅草の街によく行くようになったのは大学に入ってからかもしれない。大学の授業をさぼって浅草ロックフランス座のあたりをうろついていた。

 後で知ったのだが、丁度その頃にはぼくと同い年のビートたけしが北千住をもじった北千太という芸名でフランス座にでていたらしい。それ以前にも萩本 欽一などもこのフランス座にでていたらしい。萩本 欽一はぼくの高校の先輩でもあるので浅草は何かと縁が深い思いがする。

 昨日、一年ぶりに会った友人と浅草に呑みに行った。ドイツ時代からの友人なのだが、彼はもうずっとイギリスに住んでいて毎年夏に東京にくるのでそのたびに会ってどこかで呑んでいる。浅草寺本堂の外側の修理はすっかり終わったらしく、もとの壮大な瓦屋根の外観にもどっていた。

 仲見世を抜けて伝法院通りの方に入る。平日の夕刻だがけっこうな人どおりだ。この伝法院の通りは昔はテント作りの古着屋や土産物屋が並んでいたが、今は江戸時代風の店構えの建物が並んだ小奇麗な通りになっている。もっともこの先のロックはもう昔のような活気はなくちょっと寂れた感じになっているのが残念だが…

 一緒に行った友人は日本に住んでいる時もここら辺の下町にはあまり縁がなかったらしい。たまには下町気分を味わうのもいいだろうということで浅草にやってきた。伝法院通りをお寺の敷地に沿って行くと、右手にみんながホッピー通りとか牛筋煮込み通りとか勝手に呼んでいる通りに出る。

 店の前にテーブルを並べた呑み屋がずらっと並んでいる。客引きがいるが最近よく行く店は決まっているのでまっすぐそこへ行くが、昨日に限って店が閉まっていた。仕方なく隣の店に入るが実はこちらの店の方が一般には知れているのだが。隣の店は実直そうな親父の人柄がよかったが、牛筋の煮込みの味はぼくにはこっち方があっているように感じた。

 友人と通りに出されたテーブルで呑みだす。まずはジョッキの生ビールで乾杯。つまみは納豆のてんぷら、それにお決まりの牛筋の煮込み、サメの煮凝り、マグロのぶつ切りなど。それからビールのあとはホッピーで出来上がるという寸法。昨日は仕上げにデンキブランまで呑んでしまった。連日の酷暑も、関東をかすめて行った台風のおかげか気温も下がり一息ついて、気持ちのいい夕風も吹いていた。

 ここは以前は主に近くの場外馬券売場で馬券を買った親父さんたちがホッピーを呑みながらラジオのイヤホンを耳につっこんで競馬中継に興じる呑み屋街だったのだが、今はどの店にも一組くらいは外国人観光客が座っている。ぼくらが呑んでいた店にも外国人観光客が座っていたが、それよりもこの店にも電話で席の予約が入っていたのには驚いた。時代は変わったな。 

 浅草のように下町に活気が出てくること自体は嬉しいのだが、どこかブランド化して薄っぺらな感じになってゆくのも少しさみしい感じがする。だが、それは客の勝手で贅沢な言い草というものだろう。街も人も時代に応じて変わってゆかなければ生き残ってはいけない。浅草にはそこらへんの時代の新旧の塩梅を巧く織り交ぜながら生き残っていって欲しいと思った。

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昔日の光 [下町の時間]

昔日の光

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 この間リハビリ病院に入院しているばあさんの所に行った時、少し時間があったので病院の周りをうろついた。病院に着いたらばあさんのリハビリ訓練の時間が始まったばかりでそれが終わるまで少し待つ必要があったのだ。その間に下町の路地散歩を決め込んだ。

 ばあさんが入院している病院は北千住駅の裏手の立て込んだ一画にある。病院の前の通りを渡ると千草通りという路地がある。狭くて車はもちろん入れないし、人がすれ違うにもなんとなく挨拶をしてすれ違わないといけないような狭さだ。商店街と言うには店は少なすぎるが、民家の間あいだに惣菜屋、八百屋や瀬戸物屋、肉屋などがあってひととおりの買い物はできそうだ。ぼくはこの千草通りが好きで、一人でばあさんの所に見舞いに来たおりには時たま散歩して歩く。

 ぼくが育った千住のやっちゃ場の裏やお化け煙突の近くにもこんな狭い路地が続いていた。もちろん当時はこんなに舗装はしていなかったし、場所によっては通りの真ん中に所々飛び石のようなものがあって、雨が降ってぬかるんだ時にはその飛び石が頼りだった。子供のころはその飛び石を石蹴りの陣地のようにして石の上を跳ねてどこまで行けるかなんて遊びをやっていた。

 千草通りを歩いていると、両側にはさらに細い路地が伸びている。それらの細い路地は両側の民家の玄関先になっていて自転車やら植木鉢やらが雑然と置かれている。こういう路地にはたいてい野良猫がいたりするんだが、今日は猫の姿はない。下町の路地は車は入れないし、表の音も家の中に筒抜けだから今考えてみれば決して住みよい環境ではないはずだ。しかしそれだからこそ不審者が路地に入ってくればずぐわかるし、子どもだって安心して遊んでいられたように思う。ちょっと出かけるときだって鍵なぞはかける必要もなかった。

 ここの路地での生活が今でもそのようなものなのかどうかはわからない。ぼくは当時はそんな環境がさして好いとも思わなかったし、もっと小奇麗なそしてもっと便利な暮らしがしたいと思っていたに違いない。下町の路地はぼくにとって故郷の山河のようなもので、故郷に飽き足らず飛び出した人間が、時を経てまた故郷の山河に思いを馳せるように、また還ってきて大きな安らぎを感じているのかもしれない。当時は余りに身近過ぎてその価値が分からなかったのだろうか。しかし今、時を経て変わってしまったはずの自分の目は、この路地を棲む者ではなく、観る者の視線で見てしまっている。昔日の光は戻ってはこない。

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遠ざかるShowa [下町の時間]

遠ざかるShowa

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  明治時代大正時代という呼び方自体にはぼく自身はなんら違和感を持たない。しかし、昭和時代という呼び方にはまだいささかの抵抗感がある。活字やマスコミにもまだその表現がそんなに露出していないことも一因かもしれないが、自分の生きた時間が時代という大きな括りの中に埋没してゆくことへの恐れが多いのだと思う。しかし今、昭和は否応なくひとつの時代となりつつある。


 この間久しぶりにばあさんを連れて柴又の帝釈天にいってきた。今までは墓参りの帰りに帝釈様に寄ってゑびすやで鰻を食べてくるのが楽しみになっていたのだが、最近は墓参りをすると疲れてしまうのか、車いすで参道を歩くのが億劫なのか寄らずに帰ってきてしまうことが多かった。

 その日はばあさんの調子も良さそうだったので、長雨の合間をぬって柴又の帝釈様にいった。金町で水戸街道を外れて柴又街道に入るころには日が差してきた。久しぶりの帝釈様は人もまばらで静かだ。考えてみれば人でごったがえしているときにここに来たことはあまりない。墓参りに行くのは大抵平日だし、暮れに来るのは12月30日と決めているから、こっちが人ごみを避けて来ている形だ。

 参道の両側の店を車いすを押しながらゆっくりとみる。昼飯は今日はゑびすやではなく、参道の店先で天ぷらを揚げている大和屋にした。ここは店の中が雑然としているのがいい。壁には古びてセピア色になったフーテンの寅さんの写真が無造作に何枚も貼ってある。店の親父が天ぷらを揚げている後ろの客テーブルでは、小学生らしい男の子がノートを広げてなにやら勉強をしている。

 今日は都民の日だから東京都は学校が休みなのだ。勉強をしているのはこの店の子供だろうか、時々エプロンをしたお母さんらしい女性が宿題かなんかの世話をやいている。この間延びした時間の流れ方がいい。天丼をたのむ。この店の天丼のタレは真黒だ。その真黒なタレがしみ込んだ飯がとにかく旨い。

 昼食後また佃煮を買ったりして参道を歩くが、何しろ短い参道だらか五分も歩けば端に行ってしまう。日はまだ高い。そこで車いすでも行ける距離にある寅さん記念館に行ってみようということになった。以前一度行ってみたときにはあいにく閉館していたのでまだ入ったことはない。

 寅さんといっても、もちろん実在の人物ではないから伝記などがあるわけではない。そうではなくて記念館の中には映画「男はつらいよ」の舞台になった草団子屋「くるまや」のセットが作られている。28年間実際に使われていたセットらしい。その「くるまや」のセットの中に身を置くと言いようのない懐かしさに出くわす。ちゃぶ台が置かれた土間の奥の部屋。ぼくの家も菓子屋だったので、職人の匂いのするその空間がとてつもなく懐かしいのだ。

 館内はあざとい位に昭和の匂いがした。見ているうちに懐かしさよりも寂しさがこみ上げてくる。昭和はもう、こうやってショーウィンドウに飾られる時代になってしまったのだ。記念館を出て土手の上から江戸川の河川敷を眺める。そよ風が心地いい。ばあさんも久々にみる緑にあふれる光景にうれしそうだ。車いすにのったばあさんの前をジョギングの若者達が通り過ぎてゆく。

 帰り道、車が柴又街道を抜けて金町あたりで水戸街道に出たところでふと思い出した。あの日もちょうどこのあたりを運転していた。もっとも方向は今とは逆で千葉方面に向かうところだったが。1989年(昭和64年)1月7日の早朝。正月明けの土曜日、ぼくは前から予定されていた付き合いゴルフに向かうために車を運転中でここらへんにさしかかっていた。

 予想をしていたこととはいえラジオからそのニュースが流れてきたときには形容のしようのない気持ちに襲われた。「天皇陛下が崩御なされました」 それが昭和が終わった瞬間だった。あれからもう20年も経ってしまった。あのウェットな時代Showaは遠くにいってしまったのか。
 

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 *その朝の天皇崩御のニュースの具体的な表現は今は厳密には覚えていませんが、車の中でその知らせを聴いた時、一瞬周りの車の動きも止まったように感じました。もちろんそれは錯覚なのですが… ゴルフ場に着いたら、当然ゴルフ場のような遊興施設は自粛して閉鎖されていました。

 **その前の年の暮れに昭和天皇の重篤な状態が報道されて以来、忘年会を含めあらゆる遊びや祝宴・忘年会の局面で「自粛」という文字が飛び交い、日本中が沈潜した雰囲気に包まれていたのを覚えています。

 ***過ぎ去った時代を懐かしがるのはそれは人間の心情として当然のことだと思いますが、遠ざかったからこそ今、見えてくるものもあると思います。歴史を忘れっぽいぼくら日本人にとって冷静に振り返るということはとても大事なことだと感じています。

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やっちゃ場の朝飯 [下町の時間]

やっちゃ場の朝飯

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 先月、大阪から出てきた友達に誘われて家の近くにある舎人市場の場外食堂「千住 佐野新」に朝飯を食べに行った。ホコホコとした鰯のフライの美味しさに感激したが、そこのおかみさんがほくと幼稚園も小学校も同じだったことを知ってさらにうれしくなってしまった。

 その日は本当は千住のやっちゃ場に朝飯を食べに行こうと誘われたのだが、朝早くから千住まで出てゆくのが億劫だったので歩いて行ける近場の舎人市場に行くことにしたのだが、市場で朝飯を食べるのも存外楽しいことを知って、今度はやっちゃ場で朝飯をしようという約束をしてその友達と別れた。

 数日前その友達から今度こそ千住のやっちゃ場に朝飯を食べに行こうというメールがきて、昨日の朝出かけて行った。朝八時に京成千住大橋の駅で待ち合わせた。約束の時間より少し早く着いたので駅の周りを少し歩く。駅のまん前に店があった薬局のやっちゃんと隣の煎餅屋のみっちゃんは小学校の同級生だったが、二軒とももうそのお店はなくなっていた。

 ぼくは幼稚園に入るころまでやっちゃ場のすぐ裏に住んでいて、そのあとそこから歩いていける距離だがもうすこしお化け煙突よりの町に引っ越したので、やっちゃ場周辺の記憶はあまりはっきりとはしていない。それでも今の雰囲気は当時とは随分と変わってしまったような気がする。

 駅に戻ると友達はもう来ていた。二人で連れ立って行ったのは、やっちゃ場の入口にある「武寿司」だった。友達は以前一度来たことがあって、その時朝飯に食べた魚が美味しかったので、またその店に行こうということになった。小さな店で四、五人が座れるカウンターとテーブル席が二つくらいなのですぐいっぱいになってしまいそうだ。

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 ぼくらが店に入った時にはカウンターの奥に夫婦らしい中年の男女が一組座っていた。ぼくらもカウンター席に座った。注文は友達に任せた。彼は酒と食べ物については玄人はだしの知識を持っているので彼と一緒のときはいつも彼に任せっぱなしにしている。鰹と鰈の刺身、とり貝をつまみにまた朝からビール。

 カウンターの向こうで刺身を盛っている店の主人に「この店はいつ頃からここでやってるの」と聞くと、ちょっとむっとした風で「戦後ずーっとここでやってますけど…」とにらみ返すように言われた。こりゃまずいなと思って「いえね、オレも子供の頃このやっちゃ場のすぐ裏で育ったもんで…」とあわててフォローを入れた。

 奥からおかみさんがでてきて「あら、どこら辺なの。うちの人もずっとここで育ったから、もしかしたら知ってるかもしれませんよ。おいくつかしら、うちのよりずっとお若いと思うけど…」 「オレ? 昭和二十二年生まれだけど」 「あら、そんじゃ、うちのと同い歳だわ」 店の大将の顔がいきなり弛んで「ダンナさん学校どこ?」 

 「オレは千二小だけど…」ぼくが言うと、「アタシもですよ。じゃ、おんなじだ
」と大将。千住第二小学校をぼくらはセンニと呼んでいた。「え、そうなんだ、何組? オレは5組だったけど」 「アタシは2組でした」 ぼくらの小学校では卒業までの6年間一度もクラス替えがなかったので、クラス名を聞けばそれだけで分かるのだった。

 「そうか2組か。家に帰ったら卒業アルバムを見てみるよ」 「6年2組の卒業写真を見ればすぐわかりますよ。なにしろ撮影の日に学校休んじゃって、アタシだけ丸の中に入ってますから…」 脇からおかみさんが「いまの面影があるからわかりますよ」と口をはさむと、大将は「へっ」と。

 それから寿司をつまみながら話が弾んだ。先だって行った舎人の佐野新の話や同級生の動向そしてこの千住のやっちゃ場のこと。このやっちゃ場は三百年以上の歴史があるのだが、魚や生鮮野菜の販売主流が大手のスーパーになることによって、卸売市場を通さない扱いが増えるなどで今のやっちゃ場にはぼくらが子供の頃のような賑わいはない。自分の脳裏にかすかに残されていた往時のやっちゃ場の喧騒を想ってちょっと感傷的になってしまった。朝のビールは心に浸みわたるのだ。

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 *ぼくはなぜか昔からやっちゃ場に縁があって中学時代通っていた両国中学のすぐ隣が両国のやっちゃ場でした。ぼくが入っていた剣道部の道場は塀を隔ててすぐ向こうがやっちゃ場の競りをする処だったので、夏の暑中稽古の後などは声をかけると、塀の向こうから冷たいスイカを放り込んでくれたりしました。その両国のやっちゃ場のあった処も今は江戸東京博物館になってしまいましたが…

**「やっちゃ場」というのは東京の言葉で野菜や果物などを扱う青物(あおもの)市場のことです。千住のやっちゃ場もぼくの子供の頃の元は青物市場だったのですが、今は青物は舎人に集約されて千住は魚などの海産物が主流のようです。両国のやっちゃ場も青物市場でした。
 やっちゃ場の名前の由来は、ぼくは「やちゃい(野菜)」が語源だと聞かされていましたが、明鏡国語辞典や日本語語源辞典で調べてみたら「やっちゃ、やっちゃ」という競りの掛け声が元だと出ていました。


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