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お墓を考える [新隠居主義]

お墓を考える
 
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 今日は今年1月に死んだモモの納骨。ささやかだけどウチのお墓を馴染みのある谷中のお寺に設けた。ぼくとカミさんと猫三匹のお墓でウチからも近いから谷中の蕎麦屋にいった帰りにでも寄れるのも好い。

 とりあえず、「向こう」でも皆んなで暮らせると思うと何となく気が休まる。ほんとに向こうが在るのかという気もするけど、まぁ大人だからそこら辺は深く詮索しない。いずれ分かる事だから…。

 帰りはいつもの蕎麦屋で今日は白海老のかき揚げと卵焼きにもりそば。昨日は土砂降りだったから今日にしておいてよかった。少し肩の荷をおろした。
 
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 この歳になると誰でも終活というか、自分の葬式のことやお墓のことを考えるものだ。ぼくの友人たちの中でも地方から出てきた人間で東京に居ついたので、両親も居なくなった故郷の墓を墓仕舞いして関東に新たに墓を持ってきたり、逆に墓は自分の故郷が良いと奥さんとひと悶着あったり、いろいろである。

 ウチもそろそろそういう事を考える時期に差し掛かっていた。数年前に98歳の母を見送った時、派手なことが好きだった母だからそれ相応の見送りをしたけれど、その時こういうのはこれが最後かなと思ったが、コロナ禍のせいで一挙に慎ましやかな家族葬というのがスタンダードになってしまった。

 それで好いのだけれど、ぼくはリタイアした時から自分は葬式なし、戒名なし、墓なしでいいと思っていた。カミさんと話すとカミさんもそうで散骨か樹木葬がいいと…。ぼくの実家には父母の入っているお墓があり現在は兄のものになっている。もちろん手っ取り早くそっちに入るというのも好いのだけれど、こればかりは誰がどういう順番で逝くかは神のみぞ知るだが、考えてみたら兄のところも娘がもう嫁いでいるので、いずれは墓仕舞いということになるはずなのだ。

 まぁ、みんな逝った後に残った姪たちに墓仕舞いで叔父、叔母の分まで面倒をかけるのも気づまりなので自分のことは自分で考えようとしたのだけれど、これが具体的に手を打つとなると散骨だの樹木葬だの合同葬だのいろいろあって意外と面倒なことがわかった。そうこうしている内にいつもぶらついている谷中のお寺に縁あってお墓をみつけた。住職のお話も伺って安心も出来たし、お寺の教義にも反しないのでお世話になる決心がついた。

 そのお寺にぼくとカミさんと猫たちの入る小さなお墓を設けた。墓碑銘には既にぼくとカミさんと三匹の猫たちの名が刻まれている。墓仕舞いの事を考えると永代供養ではなくてぼくかカミさんかの長生きした方が最後に亡くなってから十三回忌後ないしは二十年経ったところでお寺さんが樹木葬にしてくれることになっている。これなら誰にも迷惑を掛けずに、しかも冒頭でいったように蕎麦でも食いに行く気軽さでいつでもモモの墓参りも出来る。まぁ、生きている者の自己満足には違いないのだけれど…。

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沖縄とぼくの50年 [NOSTALGIA]

沖縄とぼくの50年
 
DSC01254.JPG竜宮通り社交街(2017)
 
 1972年(昭和47年)5月15日、米国との沖縄返還協定が発効して沖縄の施政権が日本に返還された。今日でちょうど50年になる。沖縄返還の数か月後ぼくは初めて沖縄を訪れた。

 一か月にわたるウィーン少年合唱団の日本公演の最後の地方公演地として返還直後の沖縄が選ばれて那覇でコンサートが行われて、それまでぼくも学生アルバイトとして通訳兼少年たちの世話係みたいな役目で日本各地を回って最期の沖縄にも同行してやってきた。

 演奏旅行は長期にわたるので、移動日とは別にコンサートやイベントを入れない休息日を設けて子供達を休ませる配慮をしていたが、それでもツアーの終盤になると疲労がたまるのか、ただでさえ白い少年達の顔色が心なしか青白くみえる。那覇公演が終われば後は東京へ戻って上野の文化会館での最終公演を残すのみだった。

 沖縄では大歓迎でテレビ取材なども多かったけど、那覇に入った当日はコンサートもないので子供達をビーチに連れて行った。ところがそこで子供の一人が転んでサンゴ礁で膝をパックリと切る怪我をしてしまい、救急車を呼ぶというハプニングが起こった。やはり疲れているのかもしれない。幸い数針縫っただけで翌日のコンサートには支障がないことがわかったのだけれど、ひやっとした。あれからもう50年経ってしまった。

 ぼくがその次沖縄に行ったのはそれから数年たって新婚旅行で行った宮古島の帰りに那覇に寄ったのと、またその数年後でその時にはぼくはもう就職していて真夏の沖縄に出張で訪れた。市場調査のような仕事だったので那覇の街を歩き回った。復帰から数年経ったとはいえ街にはまだ至る所にアメリカ統治の跡がみられた。国際通りもまだ今のように土産物屋だけの通りではなく、バーやレストランや生活用品の店舗など目抜き通りには違いないのだけれど生活の匂いがしていた。
 

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農連市場(2017)
 
 その出張で那覇の街をめぐっていた折に、国際通りから少し離れた農連市場という地元の人たちの台所のような公設市場があって地元の人に勧められたので見に行った。そこは狭い通りの両側にバラックのような建物が連なっていてその通りはぎっしりと人の波で埋め尽くされていた。まるで何かの刺激に興奮した蜂の巣の中の蜂たちが一斉に蠢いてブーンという羽音が聞こえてくるような熱気を感じた。その姿は那覇のイメージとしてずっとぼくの頭にこびりついていた。

 それからはずっと沖縄からは遠ざかっていたがリタイアしてから2008年頃から毎年飛行機代も安いシーズンオフに沖縄に行くようになった。ある時30年ぶり位に、そうだ、と思い立ってあの農連市場に行ってみた。脳裏にはあの日の熱気に満ちた光景がまだ残っていた。牧志市場の長い通りを抜けると農連市場の通りに出る。で、その時と同じ場所に立って唖然とした。廃墟。そういう言葉がすぐ浮かんできた。すぐ上の写真がその時の写真なんだけれど、昼前という時間帯もあったのだけれど人影はなく、とても寂しかった。

 その後に行った時にはもう再開発になるらしくて取り壊しが始まっていた。どんどん変わって行くのだなぁ。それはもちろん地元の人にとっても好い事なんだろうけど、街が日本中どこにでもあるような様子になったり、国際通りのように行く度につまらなくなっていると感じるのは、たぶんぼくがノスタルジーという病に罹っているからだろう。辛うじて栄町みたいなところにその余韻が残っているけどそれも時間の問題だと思う。最近、ツーリズム開発は土地の魅力を殺さない工夫がもっと必要かなと思うようになった。でも、まぁ50年も経てば何もかも変わるか…、いや、基地問題だけは…。


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美ら海水族館
 

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恩師の手紙 [新隠居主義]

恩師の手紙
 
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 日本語学校の留学生とのお付き合いもはやいものでもう20年近くになろうとしている。以前も留学生は国を離れて一人で寂しいこともあるから、親兄弟と電子メールを頻繁に交換してたようだけど、今は毎日のようにスマホなどのビデオ通話で顔を見ながらオンラインで話している学生が多い。

 それが50年前ともなると国際間では電子メールはもちろん無いし、当時あった国際電話などは1分間数千円という時代でとても貧乏留学生の使えるモノではなかったから家族などとの連絡は全て手紙と言う事になるのだけれど、それでさえエアーメールとなると切手代もバカにならなかった。

 ぼくは当時大学生で、大学ではフランツ・カフカのゼミに居たのだが、長びいた学園紛争の後ということもあってそのゼミの教授には何も言わずにドイツに行ってしまって、向こうから事後報告のようになってしまった。なのに教授は怒るどころか、自分の経験も含めて色々と有用なアドバイスを手紙でくれ、しかもぼくの手紙は保管しておいてくれるということで教授とも何度も往復書簡のようなものを交換させてもらった。帰国後、約束通り全ての手紙をちゃんと保管して返してくれた。

 今は何でもメール等で速くて便利だけれど、手紙には独特の精神作用のようなものがあると思う。便箋に手紙をしたためる時間も、それが相手に届くのに要する時間も全てが無駄と言うよりは何かを熟成させるための時間なのだともとれるかもしれない。

 その教授は先年亡くなったのだけれど、頂いた教授の手紙をこの連休中に読み返していて目頭が熱くなった。あの頃、二十歳過ぎたばかりの若造に真っすぐに真摯に対峙してくれたことに今でも感謝してもしきれない。
 
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「  …ひとつだけ君にすすめておきます(すでに実行しているかもしれませんが) 今君の頭に浮かんだこと、眼に、耳に入ったすべてのことを、どんなに短くてもよいのですが、小さなノートに書き留めておいて下さい。それは、君が又日本へ帰ってきて今よりもひまができたときに大きく芽を吹き発展した形をとるはずです。

 この二十歳前後の君の心の中を流れた思想の芽生えのようなものは長く君の心から離れることなく、一生を支配するかもしれません。日記のように堅苦しいものでなく、小さなノート一冊で足ります。あるいは、手紙という形の方が書きよければ、気の向くままに私あて送ってもらえば、君の帰る日まで一まとめにして保管しておいてあげましょう。

 君の書いてよこした一つ一つのことについて話したいこともありますが、書くひまもありませんので、帰朝したときにでもゆっくり話しましょう。

 蛇足ですが、ドイツ語でハンディやコンプレックスを感じたら二、三日フランスへ遊びに行ってくるといい。会話も看板も(もし君がフランス語を学んでいないとすれば)ほとんどわからなくなるでしょう。そしてドイツへ又もどってきたとき、君は急にドイツ語の理解が上達したように感じてほっとするはずです。


 今日はこれだけで、また 1970.11.9 」 

 ぼくは今でも恩師のその言葉を守るようにしている。
 

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I Hope Peace ! [新隠居主義]

I Hope Peace !

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カスミソウ [新隠居主義]

カスミソウ
 
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 カスミソウ(霞草)という草がある。地中海からアジアあたりが原産らしいが、今はもっぱら切り花として使われている。豆粒のように小さい花を春霞のように無数につけるのでその名がついたということだけれど、原産種はもっと大きな花をつけるものだったらしい。

 英語ではbaby's-breath(ベイビーズブレス)で赤ちゃんの吐息だが、恋人の吐息とも解せるかもしれない。ドイツ語ではSchleierkraut(シュライアークラオト)で意味はベールみたいな草ということなので、これはすぐイメージが湧く。

 切り花としては単独で使われるよりも、花束に入れたり花瓶に活ける時に他の花と一緒にいれたりすることが多い。カスミソウが入ることで、全体がパッと明るくそして何となくハッピーな雰囲気になる。自分も十分派手なのに主役でなくて脇役として他を引き立てるのが得意という不思議な性格を持っているような気がする。
 

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 いつも花屋さんが持ってくる切り花の中にはこのカスミソウが入っていることが多い。でもカスミソウは猫のモモハルがじゃれついて花瓶を倒すこともあって、大きな安定した花瓶に入れないと危ないのだ。それをぼくが言った時カミさんが、お義母さんはカスミソウが好きだったでしょ、と云った。

 現役で仕事をしている頃は同居しているぼくの両親のことはずっとカミさんに任せっぱなしで…。ぼくも組織の中で生き残るのに必死だったけど言い訳にはならない。母がカスミソウを好きだった、そんなことも知らなかったことを思い知らされると同時に、ぼくが不在の間にカミさんが両親と過ごしてきたぼくの知らない時間が彼女の背後に立ち上がった。これからはカミさん孝行をしなければなぁ。
 
 ■ セロファンの 中の幸せ かすみ草  (椎名智恵子)
 
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