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沖縄とぼくの50年 [NOSTALGIA]

沖縄とぼくの50年
 
DSC01254.JPG竜宮通り社交街(2017)
 
 1972年(昭和47年)5月15日、米国との沖縄返還協定が発効して沖縄の施政権が日本に返還された。今日でちょうど50年になる。沖縄返還の数か月後ぼくは初めて沖縄を訪れた。

 一か月にわたるウィーン少年合唱団の日本公演の最後の地方公演地として返還直後の沖縄が選ばれて那覇でコンサートが行われて、それまでぼくも学生アルバイトとして通訳兼少年たちの世話係みたいな役目で日本各地を回って最期の沖縄にも同行してやってきた。

 演奏旅行は長期にわたるので、移動日とは別にコンサートやイベントを入れない休息日を設けて子供達を休ませる配慮をしていたが、それでもツアーの終盤になると疲労がたまるのか、ただでさえ白い少年達の顔色が心なしか青白くみえる。那覇公演が終われば後は東京へ戻って上野の文化会館での最終公演を残すのみだった。

 沖縄では大歓迎でテレビ取材なども多かったけど、那覇に入った当日はコンサートもないので子供達をビーチに連れて行った。ところがそこで子供の一人が転んでサンゴ礁で膝をパックリと切る怪我をしてしまい、救急車を呼ぶというハプニングが起こった。やはり疲れているのかもしれない。幸い数針縫っただけで翌日のコンサートには支障がないことがわかったのだけれど、ひやっとした。あれからもう50年経ってしまった。

 ぼくがその次沖縄に行ったのはそれから数年たって新婚旅行で行った宮古島の帰りに那覇に寄ったのと、またその数年後でその時にはぼくはもう就職していて真夏の沖縄に出張で訪れた。市場調査のような仕事だったので那覇の街を歩き回った。復帰から数年経ったとはいえ街にはまだ至る所にアメリカ統治の跡がみられた。国際通りもまだ今のように土産物屋だけの通りではなく、バーやレストランや生活用品の店舗など目抜き通りには違いないのだけれど生活の匂いがしていた。
 

DSC06965.JPG
農連市場(2017)
 
 その出張で那覇の街をめぐっていた折に、国際通りから少し離れた農連市場という地元の人たちの台所のような公設市場があって地元の人に勧められたので見に行った。そこは狭い通りの両側にバラックのような建物が連なっていてその通りはぎっしりと人の波で埋め尽くされていた。まるで何かの刺激に興奮した蜂の巣の中の蜂たちが一斉に蠢いてブーンという羽音が聞こえてくるような熱気を感じた。その姿は那覇のイメージとしてずっとぼくの頭にこびりついていた。

 それからはずっと沖縄からは遠ざかっていたがリタイアしてから2008年頃から毎年飛行機代も安いシーズンオフに沖縄に行くようになった。ある時30年ぶり位に、そうだ、と思い立ってあの農連市場に行ってみた。脳裏にはあの日の熱気に満ちた光景がまだ残っていた。牧志市場の長い通りを抜けると農連市場の通りに出る。で、その時と同じ場所に立って唖然とした。廃墟。そういう言葉がすぐ浮かんできた。すぐ上の写真がその時の写真なんだけれど、昼前という時間帯もあったのだけれど人影はなく、とても寂しかった。

 その後に行った時にはもう再開発になるらしくて取り壊しが始まっていた。どんどん変わって行くのだなぁ。それはもちろん地元の人にとっても好い事なんだろうけど、街が日本中どこにでもあるような様子になったり、国際通りのように行く度につまらなくなっていると感じるのは、たぶんぼくがノスタルジーという病に罹っているからだろう。辛うじて栄町みたいなところにその余韻が残っているけどそれも時間の問題だと思う。最近、ツーリズム開発は土地の魅力を殺さない工夫がもっと必要かなと思うようになった。でも、まぁ50年も経てば何もかも変わるか…、いや、基地問題だけは…。


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美ら海水族館
 

Nostalgia07.gif
 


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コメント 1

kuwachan

50年経つとやっぱり何もかもが変わるのが普通でしょうね。
ただ、確かに沖縄の基地の問題は一筋縄ではいかないですね。
by kuwachan (2022-05-18 23:42) 

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