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波照間島で考えたこと ~食と命について~  [gillman*s Lands]

波照間島で考えたこと  ~食と命について~

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 波照間島に居るといたるところでヤギに出会う。サトウキビ畑の隅とか、草の生えているちょっとした空き地などに繋がれている。青空の下で草を食むヤギの姿は島ののんびりした象徴的な光景だ。これらのヤギはペットや出荷用の家畜ではなくて島の住民の食用に飼われているらしい。常用の食用ではなくて島の大運動会など重要なイベントの時に潰して御馳走として食べる、いわば伝統食のような位置づけなのだという。

 内地では仏教の影響で昔から極少数のマタギが獲る獣以外は表向きには四足の獣の肉を食する習慣が無かったのだけれど、沖縄などでは古来ブタやヤギなどの肉が食されていたようだ。明治以来、食肉の習慣が定着してからは主に衛生的な観点から一般の屠畜は禁止されているが、処によっては古くからの習慣もあってあまりうるさく言わない場合もあるようだ。

 沖縄には豚のテビチなどちょっと生々しい姿の料理もあるけど、それはぼくらが獣の命を食べているということを認識する意味では大事なことだと思った。以前モンゴル系の留学生に東京では羊はどこで売っていますか、と聞かれて戸惑ったことがあるけど、彼が聞いたのはマトンではなくて食べるための生きた羊だった。ぼくたちは一部の都会っ子のように、さすがに魚が切り身で泳いでいるとも、鶏はテバだけがあるとも思ってはいないけれど、その生きた姿を頭に置いて食してはいない。

 この島に来てヤギの姿を見てなぜこんなことを思うかというと、この島に来る前に一編の映画を見ていたからだった。Amazonで買った一枚のブルーレイディスクでタイトルは「Samsara」。全編70mmで撮られていて家庭のテレビで見てもその映像美は驚異的だ。パースペクティブに捉えられた画面の全てのポイントにシャープなフォーカスがあたって、まるでアンドレアス・グルスキーの写真の動画版を見ているような錯覚に陥る。

 全編ナレーションなしで一時間半のフィルムに観客をひきつける力はその映像美と共に、撮る者の世界観に裏打ちされた映像シークエンスから発しているのかもしれない。その中の一シーンにぼくらが毎日食している鶏肉や豚肉やミルクが、まるで電気掃除機やアイロンのような工業製品のように生産されている現実が写されていた。その映像は二重の意味でぼくに衝撃を与えた。

 一つは今言ったように命が完全に工業製品化している現実、そしてもう一つはその製品を作り出す人たちのまるでチャップリンのモダンタイムズに登場するような表情。動画自体は刺激的な映像もあるので、気にする方は視聴を避けてほしいのだけれど(実はぼくも苦手ですけど)、映画のそのシーンの短い動画がYoutubeにも出ていた。そこにはまさに命の工業製品化という現実が写されている。

 TPPをはじめとして世界は今、国際的なマーケットを巡って熾烈な競争の時代に入っている。効率化によるコストダウンは食の世界においても例外ではない。確かにそれ自体は時代の大きな流れかもしれない、しかし、生命にかかわる世界でもそれが平然と進展してゆくことにぼくは釈然としないものを、更には漠とした恐怖感さえ感じている。

 飽食の陰で、ぼくらは自らの手で命を「潰す」こともなく、食のブラックボックスにぼくらの心の安寧は守られている。生き物は生きるために生まれてきてそして生きている。その生き続けていたい意志を持っている生き物の命を貰わなければぼくらは生きてはゆけない。だからこそぼくらはせめて自分の命を生きるに値するものにする義務を負っていると思う。

 それにしても生まれてこの方一度も野を駆けた記憶もなく、ひたすら食として命を奪われてゆく生き物の存在をぼくらは知らなすぎるのかも知れない。効率と言う名に追い立てられて命を工業製品化する今のシステムの行き着く先は何処なのだろうか。生命工学や遺伝子工学の発展で、そのうちぼくらの身体のパーツさえも工業製品になってゆくことは想像に難くない。

 食と命について波照間島で感じたこと、それは食のブラックボックス化の陰で命が無機質な工業製品になってゆく恐ろしさと、それが時代の流れだということで、知らされず、疑問も持たず、従って恐ろしいとさえ思わなくなってくるという更なる恐ろしさだった。ぼく等が命を食べているということを忘れないためにも、この島のような原初的な食文化に思いをはせることも大切なのかもしれない。

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 *食は文化であると同時に社会全体のシステムの一部でもあるので、個人でできることは限られている様な気もしますが…。それなら、いっそ知らない方が良いんじゃないの、という考え方もあるかもしれません。じゃぁ、自分はどうするか、と時々考えます。到底ベジタリアンにはなれないし…。

 もちろん全ては「せめて…」の世界だけれど、自分としては普段から3つのKを心がけています。感謝、関心、過剰の抑制。命を頂くことに感謝し、常に食の事に関心を持つ、そして自分の食べきれるだけを注文したり、調理したりして過剰にしない。そしてでたものは完食する。余り勇ましくはないんですが……


<食と命について>

食の安全とは命を見つめること
せめて…
ぼくらは命を食べている


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コメント 7

engrid

3つのk、、深く心得ておきたいです
by engrid (2014-03-08 17:56) 

ZZA700

私も何年か前にあの映画のディスクをレンタルしましたが、
最後まで見られませんでした。
「いただきます」の意味をきちんと理解しなければならぬと思いました。
3つのKには深く共感します。
by ZZA700 (2014-03-08 21:48) 

Baldhead1010

環太平洋という環境の中にも、その国において一次産業が果たす文化的・公益的役割が個々違うわけですから、その役割を守るための関税は絶対必要だと思うのですが。
by Baldhead1010 (2014-03-09 15:39) 

親知らず

3つのK、私もしっかり意識して食事を頂こうと思います。
by 親知らず (2014-03-10 08:28) 

aya

いただきます、の精神ですね。
折角の食材、美味しく食べたいと思います。 友人が石垣島から
帰ってきました。石垣島のラー油と共に(^・^)
by aya (2014-03-11 18:03) 

JOY

「Samsara」、観たい映画です。
食の工業製品化のこと、最近しみじみ(という言い方は変だと思いますが・・・)感じるようになりました。
売っている製品を買わなければ食べられない自分に疑問も感じたり。。
そうは言っても、いきなりなんでもやろうとしないで、できることから地道に、、、と思っています。
by JOY (2014-05-07 00:04) 

coco030705

こんにちは。
gillman さんのエッセイを読んで、人間が他の動物の命をいただいている動物だということを思い出しました。たまにそうだと思うのですが、すぐ忘れてしまいます。
この飽食の時代において、残さず食べるということは大変意味があると思いました。
by coco030705 (2014-05-21 10:33) 

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