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クロのおじちゃん [猫と暮らせば]

クロのおじちゃん

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 ぼくたちは日常何気なく使っているが、モノを指し示したり、呼びかけたりする言葉というのは実は意外と難しいものだ。外国人の日本語学習者は「これそれあれ」(これを日本語教師は「こそあど」と呼んでいます。最後の「ど」は「どれ」です)の使い方にてこずる場合が多い。目に見える具体的なモノを指し示す「これ・それ・あれ」に加えて、「その話はおかしいよ」とか「あれあれで良かったんだよ」などという文脈上での使い方もあるのでかなりの上級者でも間違えることがある。

 「ぼく」や「きみ」等の人称代名詞も本当は難しい。山田太郎という固有名詞はその人にしか使わないし、その人だけを指し示すが、例えば「きみ」は話の状況によって山田君を指すこともあれば田中君を指すこともある。「ぼく」も同様だ。このように状況によってその指し示すものが変わる言葉を言語学者のイェスペルセンShifter(転換子)と呼んだ。この転換子は特に幼児期の子供や失語症の患者には難しいようだ。

 ロシアの言語学者であるロマーン・ヤーコブソンは彼の論考集の中でこのイェスペルセンの転換子について次のように触れている。

 ■自分自身を自分の固有の名前と同定することを覚えた子供が、人称代名詞のように話し手から話し手に移行することができる用語に慣れるのは容易でないことは明白である。子供は話の相手からyouと呼ばれているときに自分自身について一人称で話すことを恐れるかもしれない。1)

 つまり子供にとっては「ぼく」という言葉は自分である太郎のことを指すが、もし相手が使ったときには「ぼく」は太郎でなく相手の正夫くんのことを指すのだということが、混乱を起こすらしい。だから「は自分のことをぼくって言っちゃいけないんだ。ぼくだけがぼくで、はただのなんだ」というわけなのだ。そういえば、迷子になった子供に大人が尋ねるときに「ぼくはどこから来たの?」などと、相手のことを一人称でいうというのも、その点に留意したものかもしれない。日本語はすごい。

 呼び方についてヤーコブソンはシベリアの北極海沿岸に住むサモイェード族のこんな習慣も紹介している。2)  その民族では自分の名前を自分で声に出して発話するのはタブーとされているそうだ。そういえばぼくらも、大人になってからは他の人が自分の名前を呼ぶことはあっても、自分のことを指すのにいちいち自分の名前を言うことは自己紹介以外にはほとんどないし、しかも自己紹介の時でも、自分の名前を声に出して口にするときは何故かちょっと気恥ずかしい気持ちになる。(モーパッサンは自分の名前を自分自身で発音するととても奇妙に聞こえると告白している ~ヤーコブソン~)

 タブーではないが、たいていの国においては大人になれば自分のことは「は、ぼくは」等の一人称代名詞でよび、自分の名前である「太郎は、花子は」等とは言わないことが多い。自分のことを「ウノはね…」などと自分のことを自分の名前で呼ぶセレブ風芸能人がいるが、我々の社会ではそれはShifter(転換子)がうまく使えないという幼児性の表れ以外の何物でもないとみなされる。考えてみればモノを指し示したり、呼びかけたりする言葉というのはそのモノや人などと自分との関係を表す重要な言葉なのだ。

 ペットを飼っていると段々とペットに話しかけるようになっている自分に気がつく。一緒に暮らしているうちに何となく言葉が通じるように感じるのだろう。我が家でもそうだった。最初は猫と一対一の関係で話しかけているが、そのうち複数の関係の中での話をするようになる。例えば、ぼくが忙しい時に限って三匹の猫のうちの誰かがお腹が空いたと言いに来る。そんな時ぼくは「今忙しくて手が離せないからオカアサンに頼みなさい」というようになった。傍で見ればただの猫馬鹿のようだが自然とそうなってしまった。

 別にカミさんは猫たちの母親ではないが、ここでカミさんの名前を出して「キヨコに頼みなさい」とか代名詞を使って「彼女に頼みなさい」などというのはかえって変なものだ。何となくすわりが好いので「オカアサン」という呼び名になった。同様にカミさんが猫たちにぼくのことを言うときには「オトウサン」ということになっているらしい。かくしてぼくとカミさんはレオモモのオカアサンとオトウサンになった。

 そのつもりで聞いていると、ばあさんもいつの間にかクロにむかって自分のことを「カァチャン」と呼んでいた。餌をあげる時もクロを呼ぶのに「ほら、カァチャンのところにおいで!」などと言っている。ばあさんは、ぼくやカミさんがいるところではぼくらに気を使ってかレオモモだけでなく、クロにも「ほらトウチャンが帰ってきたよ」とか、カミさんのことも「そんなとこで爪をとぐとカァチャンに叱られるよ」などと言っているから、クロにはカァチャンが二人いて微妙な関係にあるようだ。だがこの間カミさんの話を聞いて、クロについてのばあさんの本心がわかったような気がした。

 その日、ぼくは外出していて夕方帰宅した。ばあさんは居間にいて、カミさんは少し離れた玄関のあたりにいたらしいのだが、ぼくが帰宅して玄関に入った時に、ばあさんはそばにいたクロにこう言っていたそうだ。「ほら、おじちゃんが帰ってきたよ」 そうか、ぼくはクロのおじちゃんだったのだ。


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    *1)Roman Jakobson,"shifters,verbal categories,and the Russian verb" p.132
  **2)Roman Jakobson,"shifters,verbal categories,and the Russian verb" p.133

 先の10月30日にヤーコブソンの盟友であり、社会人類学の巨匠でもあるレヴィストロースが亡くなりましたね。100歳近い長寿でしたが彼とともに「構造主義」も歴史の中に消えてゆくような、学問の一つの時代が終焉してゆくような寂しい気持ちになります。
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SilverMac

一人称代名詞、大変面白く読みました。
by SilverMac (2009-12-06 22:09) 

愚理庵

ボクは貴兄のブログ、大好きです。こっそり拝見しておりました。
by 愚理庵 (2009-12-07 00:32) 

mimimomo

おはようございます^^
面白いですね~
日本人は一番小さい子に合わせて物を言う習慣がありますよね。例えば一番小さい子のお兄さんのことを、母親は『お兄ちゃんが・・・』と言った具合。
gillmanさんもお母様のことを・・・、奥様のことを・・・^^
by mimimomo (2009-12-07 05:51) 

ナツパパ

関西の友人と話していたとき、相手のいう自分、というのがわたしのこと
と知ったときは驚きました。
自分そうおもわへん...というのは、あなたはそう思いませんか、ということでしたっけ。
by ナツパパ (2009-12-07 09:11) 

としぽ

ご無沙汰しています。
最近はあれ、これ、それと言う事が多くなってきています。
外国人には難しい言葉で理解し難いみたいですね。
我々がthatの使い方を理解し難いのと同じように思います。
by としぽ (2009-12-07 10:06) 

rantan-nya

日本語の一人称って、ほんとに不思議です。改めて面白いと思いました。
今、自分のブログの中で自分のことを何といったらいいのか、困っています・・
まぁ、主役はネコなのでニンゲンといったりなんだり^^;


by rantan-nya (2009-12-08 00:19) 

kasumi

我が家の猫たちもすっかり
「おとうさん!」「おかあさん!」
で反応するようになりました・・・♪
by kasumi (2009-12-08 09:39) 

aya

興味深いお話でした。 転換子、今の若者は多いですよね。
幼児期に何かあったのかな(´∀`;)
by aya (2009-12-08 21:12) 

リフソロ

mimimomoさんがおっしゃっていらしゃることに「ハッ」としました。
確かにそのとおりだと。
by リフソロ (2009-12-09 15:11) 

engrid

大変興味深く、拝読いたしました
我が家でも、やはり お父さん・お母さんと 対ネコに対しては呼び合っています、、ごく自然にそうなっていますね
by engrid (2009-12-09 18:05) 

通りすがり

はじめまして。眠れない夜、ところどころ涙してしまいました。うちも同じだったなぁ‥今はみんな亡くしてしまい夫婦2人ですが、そろそろ立ち直って大きな犬を飼おうかと話し合ったばかりでした。

自分のことを周りから呼ばれるままに名前にちゃん付けで認識していた幼少時代が懐かしく、やっぱり小さい迷子の男の子には、「ぼく、誰とはぐれたの?」と私もやはりそう声かけてるなって。
日本語はすごいです。
by 通りすがり (2009-12-10 03:32) 

鯉三

大変楽しく読ませていただきました。
家族で猫を飼うとこういうことが起こるのですね。
「こそあど」は教えるのが難しいですね。テリトリーの概念も一様ではありませんし、学生たちはかなり使い分けで苦労しているようです。
by 鯉三 (2009-12-10 23:20) 

blanc

最後の言葉に思わず笑ってしまいました。
お母様チャーミング!!
by blanc (2009-12-12 02:20) 

sera

日本語は面白い♪色々感動と驚き♪
by sera (2009-12-14 16:14) 

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