SSブログ

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その31~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その31~

DSC01189.JPG


 生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も
 
 (一休禅師)


 に限らずペットを飼って一緒に暮らしているうちに猫も自分も限られた時間を、そして限られた命を共に生きている仲間という気持ちにもなってくる。そういう意味でのなにか一種の連帯感とか仲間意識というものが生まれてくるみたいだ。

 なんて、偉そうなことを言っているけど、地球という自然界の中で見れば猫も人間も一個の命であることに変わりはない。ペットに死なれると本当につらいけど、考えてみればその死というものは同じ生き物である限り自分も例外ではないから、あちらがちょっと先に逝っただけのこととも言える。歳をとって場合によってはペットよりも自分が先に逝くことが無いとは言えない境遇になると余計にそう思えてくる。


DSC01191.JPG


 そういう意味で肌で感じた、いわば自然界における猫と自分の命の等価性という認識は一緒に暮らしていればこそ生まれてくる感情なのかもしれない。しかしこの命の等価性みたいなものを安直に人間社会に拡大してゆくと、それはそれで具合の悪いことになってくる。

 例えば、何かの災害の時、極端なケースでいえば自分の飼い猫とどこかの見知らぬ人の命の救助が二者択一的に天秤に掛けられたとしたら、心情的な面は別としても、ここで命の等価性を持ち出すことはできない。人間とそれ以外の生き物の命は人間にとっては等価ではない、というのが今のぼくらの共通認識の根底にあるからだ。

 長い歴史の中では専制君主や独裁者の下などで、時には人の命よりも君主のお気に入りのペットや愛馬などの動物の命の方が珍重された場合もあるかもしれないが、逆にそういう理不尽な時代を人類が潜り抜けてきたからこそ生まれてきた認識であり、社会的には命の等価性は人間の枠の中でこそ語られるべき事なのだ。もちろん仏教のように宗教的には命の等価性を人間の枠の外にまで広げているケースもあるが…。

 ■「ペットはペット」という線引きがしっかりとできることは、精神の健全性を示すものさしの一つである。 (斎藤茂太)

 そういうことの上に立ってみれば、精神科医としての斎藤茂太のこの言葉は確かにその通りなのだろう。冬の陽だまりの中で屈託なく昼寝している猫たちを見ながら考えた。「それも、これも全てを心の中に飲み込んだうえで…、それでも猫たちが今与えてくれているこの時間は何にも増して大切なものに思えてくるし、大切にしてゆきたい」と。

DSC01192.JPG




catblack.gif

nice!(53)  コメント(3) 
共通テーマ:アート

nice! 53

コメント 3

ゆきち

「ペットはペットとしての線引きがしっかりできること」ドキッとしました。現在かなり危うい精神状態にあることを自分でしっかり認識しておく必要がありそうです(^▽^;)
by ゆきち (2018-01-28 21:55) 

coco030705

こんばんは。
命の等価性ですか、哲学的な言葉ですね?そんなこと今まで考えたことがなかったので、とても考えさせられました。
私が命を救ったトムや、母が命を救ったリリーに、私は本当にある時期助けられたからこそ、今があると思えてなりません。動物は言葉を発しないのに、その存在だけで人間を救うことができる、すばらしい存在だと思います。



by coco030705 (2018-01-29 21:49) 

テリー

ペットは、かわいいですが、確かに、人間と等価ではない。
そのとおりですね。

by テリー (2018-01-31 23:46) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント