SSブログ

執着心 ~雛壇~ [新隠居主義]

執着心 ~雛壇~

Dolls01.jpg


 …大久保に住んでいたころである。その頃家(うち)にいたお房という女とつれ立って、四谷通へ買物に出かける。市ヶ谷饅頭谷(まんじゅうだに)の貧しい町を通ると、三月の節句に近いころで、幾軒となく立ちつづく古道具屋の店先には、雛人形が並べてあったのを、お房が見てわたくしの袂(たもと)を引いた。

 ほしければ買ってやろうというと、お房はもう娘ではあるまいし、ほしくはないと言ったので、そのまま歩み過ぎ、表通の八百屋で明日たべるものを買い、二人で交る交る坊主持(ぼうずもち)をして家にかえったことがある。何故とも分らず、この晩の事が別れた後まで永くわたくしの心に残っていた。…
  
「西瓜」(永井荷風)より



 永井荷風の小説は至るところに昭和の匂いがして好い。この小説の市ヶ谷饅頭谷のシーンなんかもぼくの脳裏の記憶と呼応するものがある。もちろん、ぼくの場合こんな艶っぽい話ではないけれど… 

 ぼくの通っていた高校は駒込にあった。不忍通りから白山通りに向かって急な団子坂を登る。森鴎外の記念図書館を過ぎて坂を登り切った辺りに学校はあった。当時、団子坂には何故か知らないが骨董屋が多くあって、ひな祭りが近づいてくると何軒かの骨董屋の店先には古色蒼然とした雛人形が置かれる。今風で言うと骨董屋だけれど当時は荷風のこの小説のように古道具屋と言っていたように思う。

 団子坂はおそらく東京でも最も急でそして長い坂の一つだと思うが、雪が降るとタイヤがスリップして車が立ち往生している光景を何度か目にした。雪の日の団子坂は車にとっての鬼門であった。ぼくが高校生だったある年の冬も車が立ち往生している脇をぼく自身も足を滑らして転びそうになりながら通り抜けた。

 その時、骨董屋の店先に置かれていた内裏雛の顔が含み笑いをしてこっちを見ているような気がした。その年も今年のように春が間近の遅い雪だったのかもしれない。また30年近く通った会社は本郷にあったが、毎日通勤時に歩いていた湯島天神の切通しの辺りにも何軒か骨董屋があって、骨董屋には何故か縁がある。そこでも今頃になると店先の雛人形を目にした記憶がある。


 この間、秋葉原に行った折にちょっと時間があったので久しぶりに両国駅に寄ってみた。両国は母校の中学校があり一時期住んだこともある懐かしい町だ。両国駅はぼくが子供の頃には房総方面に海水浴に行く時は始発列車がこの駅から出るので夏は大変な賑わいだったのを覚えている。しかし、今は大相撲の本場所が開かれている時以外はなんとなくひっそりとしている。

 昔は何本かのホームに列車が止まっていたけれど、今は総武線のホームが一本使われているだけで、残っていた向かい側のホームは使われていないようだ。ホームの階段を下りると改札の手前に長いトンネルがあって真っ赤な絨毯が引きつめられていた。どうやらそのトンネルは今は使われていないもう一本のプラットホームに通じているらしい。

 怪訝に思い絨毯をたどってゆくと赤い毛氈がひきつめられたホームの階段に無数の雛人形が並べられている。往時には夏のシーズンには多くの人たちが行き来しただろうホームの階段に今は大勢の雛人形が並んでいる。その出現が意外だっただけに何かぼくの心にジンと響くものがあった。

 先週、日本語学校で留学生達と校内に雛人形を飾ったけれど、その時は七段飾りだった。雛人形を並べながら留学生の一人が「Big familyですねぇ」と言ったけれどそれはfamilyではなく、最上段の内裏様を頂点とする大きなヒエラルキーと見ることもできる。このプラットホームの雛壇は一体、何段飾りなのだろうか。

 頂上の内裏様に行きつくのには気の遠くなるような段階が控えている。まるで大きな組織のようだ。ぼくは勤めている頃は自分くらい地位に執着しない人間はないと思っていたし、いわゆる上昇志向というものが自分にはないのだと思い込んでいた。しかし今この気の遠くなるような無数の雛壇の光景を前にして、何故かそれを駆け上がってみたい衝動に駆られた。案外ぼくも上昇志向が強かったのかもしれない。

j0213492.gif
Inkyoismlogo.gif

 *上の荷風の小説の中に出てくる「坊主持(ぼうずもち)」というのは、同行者が交替に荷物を持って、坊さんに出会うたびに持つ人を変えることらしいですが、いかにも昭和的に微笑ましくも男女がイチャついている光景が目に浮かんできますね。

 そう言えばぼくも小学校の頃、最初はじゃんけんで負けた子が皆のランドセルを持って、猫に出会ったらまたじゃんけんで持ち手を決めると言う「猫持ち」(そんな名前はついていませんでしたが…)をやった覚えがあります。

 **高校があった駒込や会社のあった本郷・湯島近辺は、森鴎外、夏目漱石、樋口一葉や石川啄木などの明治の文人たちにゆかりの場所が多く、ぼくがいつも会社の帰りに歩いていた湯島の切通しの道には、
 二晩おきに、
 夜の一時頃に切通の坂を上りしも
 勤めなればかな
という石川啄木の歌の石碑がありました。残業の帰りなどは今も余り変わらないなぁ、と思いながら句碑の前の坂を下りて行った覚えがありますね。

 (cam:Xperia so-01)


RYGKR0023141.jpg

 
執着心
 執着心 ~その2~


nice!(51)  コメント(10) 
共通テーマ:blog

nice! 51

コメント 10

mimimomo

こんにちは^^
永井荷風の小説、味がありますね。
今時の小説は実に直裁的な言葉が多いですが・・・
坊主持って初めて知りました。
両国の駅の階段にお雛様、、、なかなか粋な計らいですね~
by mimimomo (2012-03-03 15:12) 

Silvermac

昔住んでいた場所を訪れましたが、記憶にあるもので見付けたのはお地蔵様だけでした。
by Silvermac (2012-03-03 17:04) 

ナツパパ

父の母校も両国にあって、用事があって傍を通ると懐かしいな、といいます。
今ではもう同級生との交流が無くなってしまった、と寂しそう。
慰める言葉が浮かんできません。
by ナツパパ (2012-03-03 17:36) 

engrid

ゆっくり散歩がしたい界隈ですね
名残を尋ねた街歩き、古道具屋を覗いたりして
いいでしょうね
by engrid (2012-03-03 21:47) 

evergreen

私は権現裏門坂に住んでいたので、藪下通りは散歩道でした。
団子坂には美味しいパスタやさんがありました。
あとは、千駄木倶楽部とか。
by evergreen (2012-03-03 22:46) 

aya

お雛様は住宅事情で お二人の飾り雛だけでした。
でも特別欲しいとも思わなかったので、親孝行でしょうか。
ただ桃の花を飾って、ちらし寿司を作ってもらって、喜んでいました♪
by aya (2012-03-03 23:11) 

blanc

『坊主持』という言葉初めてしりました。
なるほどそう言う意味があるのですね!
当時はお坊さんがそんなに沢山歩いていたのですね。
by blanc (2012-03-03 23:30) 

りぼん

nice!&コメント有り難うございました
by りぼん (2012-03-04 15:49) 

としぽ

知らずにやっていたけど坊主持ちと言うのですね。
お雛様はこの時期になると色々なところで展示されるようになりましたね。
by としぽ (2012-03-04 20:33) 

rantan-nya

両国は博物館と蕎麦屋さんへ・・
団子坂あたりは谷中散歩のときにちょっとだけ・・ 
多摩っ子のわたしには、憧れの地名ばかりが^^;
古道具屋のお雛様は、ちょっと怖い感じがしますね~
by rantan-nya (2012-03-04 23:51) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント