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今だから「正義」の話をしよう [新隠居主義]

今だから「正義」の話をしよう

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  ここのところ眠れない夜が続いているのでベッドの中で本を読んだり音楽を聞いたりしている。去年、NHKで放送されて話題になったマイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』が電子ブックで出たので寝床のなかで読んでいた。深夜電力で充電したiPadなら、停電の暗い中でも読めるのもありがたい。

 小説ならずっと前にZaurusを使っている頃に、綿矢りさの『蹴りたい背中』や『インストール』を電子ブックで読んで以来、あまり抵抗はなかったが、哲学書のように考えながら読む類のものは線を引きながら読む習慣のあるぼくにはちょっと辛かった。

 この本の中でサンデル教授も言っているが、ここでいう「Justice(正義)」とはぼくらが普段使っている「正義の味方仮面ライダー」のように悪を懲らしめる時の正義というよりは、どちらかというと「公正」という言葉に近い。いわば政治哲学の根幹をなす概念なのかもしれない。

 
ドイツ語のGerechitigkeit(正義)も法的に正しいという意味で、ぼくらのいう正義よりはやはり公正に近いかも知れない。そこには政治哲学形成の歴史的経緯として、ぼくら日本人には馴染みの薄い「神」とか「契約」とかいう概念が見え隠れしている。

 それは現代西欧世界の主流になっているキリスト教社会という土壌の上に築き上げられているから、その色彩を色濃く残しているが、方向性としてはどんな文化にも共通する普遍的な政治哲学の根本をなすものとしての公正を模索していると思う。

 もちろん、政治が目指す幸福のあり方は民族や国、個人によっても異なる。今回の大震災をみてもぼくら日本人は連帯感や共同意識に安心や共感を覚えるが、国によってはそういうものよりも個人が勝ち上がることに価値や幸福感を感じるかもしれない。それ自体は国や文化によっては異なっても良いことで、他国から押し付けられるべきものではないと思う。

 しかし、どのような文化であっても人間社会として求めてゆく共通の大事なものがあるのではないかというのが、近代西欧社会が長い失敗の歴史の末にたどり着いた結論だと思う。それを担保してゆく仕組みが民主主義といわれるものだが、それは残念ながら世界のコンセンサスにはなっていない。

 ぼくらの社会も今は基本的には民主主義を目指している。目指しているというのはもちろん途上という意味だ。民主主義の暗闇の様な今のロシアや中国に比べればずっとマシだが、ぼくらは「よりマシ民主主義」で満足すべきではない。

 それに、この民主主義というのは少しでも目を逸らしたり、気を抜いたりすればたちどころに後退してしまうというやっかいな面を持っている。サンデル教授がこの本の中で明確な結論を出しているわけではないが、色々な例をあげて民主主義の核となる「公正」とは何かを思考実験を通じてぼくらに考えさせてくれる。

 アメリカの自動車メーカの例を挙げた「命に値段は付けられるか」やビル・ゲイツが稼いだ金に税金をかけるべきかを例に挙げた「富は誰のものか」また徴兵制や傭兵を例にとった「兵士は金で買えるか」等など、毎回様々な角度から思考実験を重ねてゆく。

 教授の説明や説にももちろん異論、反論がある。また哲学の「専門家」から見ればそれはいくつかある見方の一つでしかないと言うかもしれない。しかし、今回の大震災での民放の日本広告機構ACのCM垂れ流しや、今の原発報道のあり方、そして原発事故処理を命がけでしている人々はなぜそうしているか、また遡ってあの尖閣諸島映像漏洩事件の意味などを、ぼくらなりに自分の頭の中の思考実験にかけてみる必要がありそうだ。

 だが、そう考えるそばから、ぼくに囁くぼく自身の声がきこえる。「お前のそのプアーな頭で考えるより、もっとちゃんとした専門家の解説や大学の先生の意見を聴く方が良いに決まってるさ」 確かにそうかもしれないが、ある意味ではたとえば原発問題などは、難しいことはみんな専門家と称される人達に丸投げして関心も思考も停止させていた結果が今なのではないか。

 これを書いていて、もう忘れかけていたある言葉を思い出した。それはぼく自身がまだビジネス現役時代の10年位まえ、ある大学で若い学生達にレクチャーをした時、講義の最後に学生達に人生の先輩として何か一言メッセージを残してくれと大学側に言われて引用した言葉だ。その言葉はぼく自身が仕事に行き詰まっていた時に出会った。出口が見えない山積した問題を前にして、つくづく自分の頭の悪さ、無知と弱さに嫌気がさしていた。

 そんな時読んだ一冊のコンピュータ雑誌に、当時ハッカーの神様と言われていたDr.Mudgeのインタビュー記事が載っていた。
彼は本名はペイター・ザトコといって今はコンピュータセキュリティの専門家になっているらしいが、それ以上のことはぼくは当時も今も知らない。しかし、その記事に載っていた彼の言葉はぼくの心に残ってメモをしていた。

 「何事にも興味を持つこと。物事を額面どおりに受け取らないこと。自分で考え、つらくとも自分で世の中を理解しようとがんばること。真実の追求を常に行い、それについて得た知識を他の人と分かち合うことを光栄に思えること。(PC Computing 1999 3月号 インタビュー記事より) その時、ぼくはその言葉を自分自身とその場にいた若い人に贈った。そのことを忘れかけていた。

 もしかしたら、これが被災者の惨状を横目に、ぼくたちがいち早く日常生活を取り戻していることの後ろめたさを、少しでも補ってがんばってできることの一つではないかと思う。


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hako

NHKで放送していた「東大での講義風景を、横目で眺めていたときに、
分かりにくい学生の質問や回答を、自分の言葉に置き換えて
学生に確認してから、それに対しての答えや意見を言う態度を見て、
その真摯なスタンスが、いいなぁと思ったことが有りました。
by hako (2011-04-04 21:24) 

Silvermac

「正義」も様々ですね。
by Silvermac (2011-04-04 21:27) 

JOY

原発事故で「無責任・無関心」の責任の重さを知りました。
いろいろな問題が大きく手に負えないように思えても、すこしでも話し合っていくことの積み重ねが大事なのだとも。

gillmanさん、どうか体もゆっくり休ませてあげてくださいね。
by JOY (2011-04-05 12:51) 

ナツパパ

こういう非常時には、わたしなどあらゆるものに、情報も含めて、
流されゆく一人なんだなあ、と思い知らされました。
それでもしっかりと見ることはできる、と思っています。
by ナツパパ (2011-04-05 19:38) 

fumiko

昨年末から非常識な業者とのマンション紛争が続いていますが、
おかしな条例がまかり通っていることを今回の出来事で初めて知りました。
自分たちの身近に事が起こらなければ考えなかったことです。

そして3・11の大災害の勃発!
ゆえに防災、災害についてはより真剣にとらえています。
gillmanさんの記述の最後の部分
「自分で考え、つらくとも自分で世の中を理解しようとがんばること。真実の追求を常に行い、それについて得た知識を他の人と分かち合うことを光栄に思えること」を試行錯誤しつつも実践できている、と言い切れる自分がいること。それが唯一の救い、今はそんな思いでいます。
by fumiko (2011-04-07 00:48) 

koume

非常に興味深く読ませていただきました。
by koume (2011-04-07 22:59) 

坊や

丸投げしてる事山ほど在ります。
by 坊や (2011-04-08 17:31) 

としぽ

TVで見た時は結論があまり良く分からなかったです。
電子ブックは色々と使い方有りそうですね。
by としぽ (2011-04-08 21:59) 

rantan-nya

原発のこともあって、専門家って何だろうと思うようになりました。
マスコミに出る専門家って、ほんとに専門家? 何の?という気がします。
やっぱり自分で考えて、理解しようとしないとダメですね・・ 
by rantan-nya (2011-04-13 00:06) 

中野

私も読みました。
するどい視点の記事に刺激を受けました。
ありがとうございます。
by 中野 (2011-04-13 17:33) 

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