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なまえ [新隠居主義]

 なまえ

       
 新しい年が来るといつも今年こそちゃんと日記をつけようと思ったりする。だが、続かない。長く続くようにするコツにしたって、毎日必ずつけようとすると、それが強迫観念になって嫌になるから書きたいことがあった時だけ書くようにした方がいい、とか。沢山書こうとするから続かないのだ、その日あったことだけを箇条書きにするのが良い、とか。人によっても言うことが違う。大昔は結構まめに書いていたが大学を出た頃、ある日突然文章を書くのが嫌になって、さらに自分の文章を見るのも嫌になって、それまでのを全部処分してしまったことがある。それ以来、断続的に日記をつけていた時期はあるにしても、基本的にはビジネス手帳にその時々の出来事雑感メモするくらいで日記らしいものはつけていない。それより、仕事上で毎日のように嫌になるほど文章を書いていたから、家に帰ってまで書こうという気は起こらなかった。

 仕事上で書く文章は、それなりの様式があるから自由に書くという風にはならない。ぼくは理詰めの文章がどうも苦手だから、長いこと書いていると疲れてくる。会社を辞めて、やっとそういう文章からはおさらばできると思ったら、今度は大学院で論文を書く羽目になった。これはビジネス文書とはまた違う様式が求められるが、これもある意味では理詰めの文章であることが要求される。その反動がこのブログに書いている文章かも知れない。だからいつも論理的ではなく、どちらかといえば情緒的だ。だが誰に提出するものでもないから、好き勝手に書いている。ビジネス文書や論文にはそれなりの目的があるが、ブログにはさしたる目的もない。じゃ、なぜ書いているのか。それは、自分でも良く分からないが、最近それは「なまえ」をつける作業をしているのではないかと思うようになった。

 世の中の大抵のものには名前がある。それがあるからぼくらはお互いに効率的に意思疎通ができるのだが、時としてその名前が誤解の元となることもある。それは名前は同じでも、それによって各人の頭の中に想起されるその中身が同じとは限らない事があるからだ。ぼくらはモノが先にあって、あとからそれに名前がつくと思っていたが、実はそうではなくて、そのモノに名前がつくことによって初めてそのモノの内実が浮かび上がってくる。言い換えれば、名前がつくまでは厳密な意味ではそのモノは存在しなかったことになるのだ。言語学者のソシュールがそのことに気がついたのは「始めに言葉ありき」という聖書の世界が背景にあったからかもしれない。

 モノ名前がつくと、人はそのモノについて考え始める。もっと厳密に言えば、人間は名前がついて初めて、そのモノについてちゃんと考えることができるようになる。身近にいるよく吼える動物に「イヌ」と名前をつけてはみたが、一匹一匹が異なる。チワワのように小さいものから、熊のように大きなセントバーナードまでどれもイヌイヌとは何なのだろうか。どこまでがイヌなのだろうか。同じ様に感情想いにも名前があるはずである。ぼくも毎日、毎日仕事をしながら、色々な感情や想いが自分の中を通り過ぎていった。分刻みのスケジュールの中では、その一つ一つの感情や想いの名前を確認する暇もなく、次の事態が発生してゆく。ましてや、その一つ一つに自分なりの名前をつける余裕などはない。一日が過ぎると、自分の中にはそれらの「名前の付けられていない想い」が折り重なるようにして積上げられていた。

 ぼくらは小中学校の時、国語の時間などで色々なモノの名前を習う。その中には「喜び」や「悲しみ」や「憎しみ」などの目には見えない多くのモノ(コトともいう)の名前も含まれている。それらは"よーいドン"で、ぼくらの幼い頭の中に入ってきて、ぼくらは次の日からその名前を使い出す。でも、それは最初は普通名詞としての「喜び」や「悲しみ」や「憎しみ」であって、田中君の「喜び」や山田君の「悲しみ」にはまだなってはいない。人は生きてゆく中でそれらの目に見えないモノの名前を普通名詞から自分の中で自分なりの固有名詞に切り替えてゆく。時が経つに従い、田中君の「喜び」と山田君の「喜び」の中身は隔たってゆく。しかし完全に違うものになったのでは話が通じなくなってしまうので、どこかで田中君の「喜び」と山田君の「喜び」は共通したものを持っていなければならない。

 生きるとは、ある見方をすれば普通名詞と自分の中の固有名詞との関係を整理して行くことだと思う。普通名詞を自分の中で固有名詞化しなければ言葉は身体に染みては来ない。だが、その人にしかわからない完全な固有名詞にしてしまっては、他人とのコミュニケーションを拒否することになるかも知れないから、そのギリギリの距離感をとりながらの作業を進めてゆく。それも生きることの一部だ。例えば、日常の中の何となくモヤモヤした気持ちに名前を付けてみる。それは「不安」なのか、「倦怠」なのか、それともそれはまだ自分の中では何とも名前のついていない感情なのか。昔どこかで遭遇したことのある想いなのか、など等。幸い今のぼくには、目の前を通り過ぎてゆく想いに名前をつけたり、または普通名詞のそれを自分の中で固有名詞化してゆくための時間が以前よりはずっととれるようになった。名前をつけるぼくの作業はまだ始まったばかりだ。

                      
                       

 
 *暫く会っていなかった人と話すと、何か違うなと感じることがありますが、その一つの原因はその間に生じた互いの言葉の固有名詞化の進展があるかもしれません。時間とともに互いが使う言葉の意味が自分の中では変わって行って、それが今までと同じ意味のつもりで話すと違和感を感じるようになるのかも。

 自分の中で起こる固有名詞化自体は、その人が生きた証ですから好いことなのですが、意思疎通の面から言えば、究極は互いの中での固有名詞化をどこまで許容できるかだと思います。

 **考えてみれば、写真を撮るという事もぼくにとっては、普通名詞を固有名詞化することの一部かも知れません。自分の目の前を通り過ぎてゆく、ありふれた情景やモノに映った自分の想いに名前を付けるようなものです。記憶想い等に名前をつけて、それについて考えてゆくという点では、ぼくにとっては言葉映像も同じ重さを持っているような気がします。

 特に最近、ばあさんと過ごす時間の中では、今までの自分の中では何とも名前のついていない想いや感情と遭遇することが多いのです。これからその一つ一つに名前を付けてゆこうと思っています。


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ナツパパ

我が国にも言霊というものがありましたね。
今回のお話は、わたしもじっくり考えたいです。
by ナツパパ (2008-01-07 19:34) 

としぽ

こんばんは。毎回見事な文章と感心しています。
物に名前を付けるというのは大切な事ですね。
by としぽ (2008-01-07 20:41) 

Silvermac

私が駄文を添えるようにしているのは、「ボケ防止」です。(^^)
by Silvermac (2008-01-07 20:47) 

aya

名前をつける作業は、死ぬ間際にします。
まだどれと言って、名づけられるものが無いんです。 流されやすいのかも
知れません、名づけても、これからまた変わりそうだし(^・^)
by aya (2008-01-07 22:25) 

manamana

1枚目の写真も象徴的でいいですね。
(印も、何かわかる人通しのなまえでしょう)
by manamana (2008-01-07 23:53) 

くみみん

こんばんは。
言葉は同じでも同じ状況を共有しなければ解釈が異なることがありますね。
言葉でものを伝えることを正確にしようとすればするほどできないもどかしさをいまだに感じます。私は感覚的にしかものを理解していないのかもしれないですから、写真は伝えるためにすごく便利な道具です。
by くみみん (2008-01-08 00:53) 

タロウの母

名前をつける・・・
名前を付けたことによって固定観念が発生することもあるように思います
例えば最近良く耳にする「○○症候群」
なんでも病気にしてしまうことに違和感を感じています
(かなり内容とズレタ感想ですね・汗)
by タロウの母 (2008-01-08 10:12) 

engrid

名前をつけること 名前をつけて分類しているのかもしれません
または 覚えておくための手段であるかもしれません。
そうこれは あくまでも私の心の内のことでしょうか
by engrid (2008-01-08 16:59) 

チャッピィー

こんばんは。
ブログに訪問頂きありがとう御座いました。
新年会続きで訪問遅れてしまいました・・ごめんなさい。
そうですね・・日記は経験済みですね・・
ブログ良く続いているなぁ・・って思いました。
by チャッピィー (2008-01-08 20:05) 

テリー

名前というのは大切ですよね。私は、国号折り、数学の方が好きでしたが、公理、定義から定理を証明してゆくのが好きでした。
by テリー (2008-01-08 22:57) 

かめむし

形の無い感覚や思いを言葉にしたり、写真に撮る・・・
完全に翻訳は出来ないけれど、なんとなく表すことが出来たら
とてもうれしいですね。
by かめむし (2008-01-09 05:43) 

GUSUKO-BUDORI

名前が付いた瞬間から…
それがかけがえのないものになるような気がします。
名前をつけるのが少しこわいような?
そんな気もしてしまいます。
by GUSUKO-BUDORI (2008-01-09 23:45) 

seita

この日記を読んで、言葉にすることも写真も、イメージにインデックスをつけて自分用にファイリングするようなものなのかなぁと思いました。若年のうちはインデックス自体が少ないので大雑把なものになりがちですが、年齢を重ねると丁寧なファイリングを行えるようになるのではないかと思います。そのファイリングの一部を公開する作業が、ブログではないでしょうか。
by seita (2008-01-14 23:00) 

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