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街と言う舞台 [Ansicht Tokio]

街と言う舞台

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 ■灰色の舞台

 
早朝の街は雲量約九
 都市を悪夢の中に忘れてきた

 ネオンは夜の雨で漂白され

 この街の歴史
 この街の地理は
 全く百科事典の三四行で
 乾いた足音ひとつ聞こえない

 確率零なる挨拶の機会

 地図をもたぬ不安に
 ふと素直になりながら
 ボール紙で街路樹をつくる

 灰色の舞台 青い童話

 早朝の街は湿度約九十
 そしてやはり無機質のような…
 僕は足を速める

  (「二十億年の孤独」 谷川俊太郎)




 ぼくはちょっと離れた処から街の様子を観察するのが好きだ。視界の中の街の一画を頭の中で切り取ってそれを舞台に見立てる。舞台の上を通行人A、通行人Bが横切って行く。中にはちょっと位セリフのありそうな脇役級の若い女性が意味ありげに通り過ぎて行く。そうこうしているうちに舞台中央の書き割りが開いて舞台裏からヘルメットのおじさん達が立ち現れる。

 工事の警備のおじさん達らしく、朝礼が終わって各自の持ち場に行くのか。そのうち一人のおじさんがラジオ体操みたいな格好で身体をほぐし始めた。「昨日はチョット飲みすぎちゃったなぁ~」なんて思ってるのかもしれない。さて、これからこの舞台上でどんな情景が展開されるのか。

 ここでは視界の中の切り取った街の一画を舞台に見立てて鑑賞する訳だけど、この「見立て」というのは日本の美意識もしくは鑑賞法の一つの特徴でもある。見立てとは何かをちがった別のものになぞらえて鑑賞することだが、日本庭園なんかはそれこそ見立ての塊みたいなものだ。

 俳句や和歌なんかにも見立てがよく登場する。落語だって噺の中で手拭いや扇子を色んなものに見立てている。見立てとは、元々は貧しくてモノが十分にないとか、その場では現物が手に入らないような状況で苦肉の策で発生したのかもしれないけれど、それは長い時間の中でぼくたち日本人の精神の遊びのようなものにまで昇華されてきた。

 見立ては、やがて茶の湯のように高い抽象性や簡潔性を伴った美意識へと繋がっていったような気がする。それはやっと現代になってポップだモダンだと称するような美の存在に世界が気づく遥か昔のことだ。ぼくは昔を過大に評価したり、美化したりするのは余り好きじゃないけど、これはちょっと凄いと思う。で今、溢れるようなモノに囲まれて、ないモノが無い。見立てる必要もない。もしかしたらぼくらの精神の中までモノでいっぱいなのかもしれない。ぼくらは今見立てのような精神の遊びを少し忘れていないか。


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 *「見立て」というのはと面白い言葉で、「あの医者は見立てが巧い」というと病気の診断が上手と言う意味だし、「このネクタイはカミさんの見立てなんだ」というと奥さんが選んだということですね。

 また「このまま円高が進めば100円割れもあるというのが専門家の見立てだ」と言えば予測だし、もちろん「この庭園ではあの築山を富士山に見立てている」というのは、富士山になぞらえているということです。

 知らなかったのですが、「見立て殺人」という言葉があるらしく、これは最近はやりのミステリー等で伝説や童謡などに見立てた連続殺人事件や、それを匂わすような操作のされた現場のある殺人事件などを言うらしいです。


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mimimomo

こんにちは^^
‘見立て’にもいろんな意味があるのですね~今まで考えたこともなかったですが。
いわゆる昔風にないものに見立てる、そんな使い方好きですね^^
やはり戦後物のない時代に育ってきたせいでしょうか・・・?
by mimimomo (2016-05-06 11:46) 

めぎ

外国暮らしでは、ここに無い日本のものを何かで見立てて代用するということが多々ありますけど、それも年々少なくなりました。今はネットで多くのものが取り寄せられますから。それも良いような、残念なような、ですねぇ。
by めぎ (2016-05-06 14:13) 

ZZA700

子供の遊びは見立ての宝庫でしたね。
洗面器はヘルメットにも車のハンドルにもなりました。
今の子はそんな風に遊ばないかも知れませんが。
by ZZA700 (2016-05-09 19:55) 

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