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まっすぐな道でさみしい [新隠居主義]

まっすぐな道でさみしい

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 ■ まっすぐな道でさみしい (山頭火)

 
 この句をみると昔行った石垣島のサトウキビ畑にのびた真っ直ぐな道を想い出す。どんよりと低く垂れこめた雲から今にも雨粒が降ってくるような重たい空に向かって、赤茶けた道が一本真っ直ぐに伸びていた。その道の消えるあたりに海があった。風は生暖かい。

 山頭火の俳句は定型が無い自由律の句だから、時には唯の呟きのように聞こえることもあるけれど、形にとらわれないだけに一つ一つの言葉自体の持つ力が表れていると思う。俳句でも助詞ひとつの選び方で印象は大きく変わることがあるが、山頭火の句においてはそれ以上に助詞は句全体に強い影響をおよぼす力を持っていると思う。

 この句はやっぱり、「まっすぐな道さみしい」でなければならないと思う。「まっすぐな道さみしい」や「まっすぐな道さみしい」ではこの気持ちは表せない。ただ、道が寂しいというよりは真っ直ぐであるがゆえに寂しいのだ。山頭火は「道」という随筆の中でこう書いている。

 「道は前にある、まつすぐに行かう。 …これは私の信念である。この語句を裏書きするだけの力量を私は具有してゐないけれど、この語句が暗示する意義は今でも間違ってゐないと信じてゐる」 真っ直ぐな道はその道が点となって消失してゆく処まで見渡せてしまう。しかし、目の前に真っ直ぐな道があるからといってそのまま真っ直ぐにどこまでも進めるものではないことも山頭火は知っていたはずだ。

 ぼくは曲がりくねった道だって、それはそれで味はあると思う。見えないその先に何があるのかと言う期待と不安。ただひたすらに真っ直ぐと言う言葉は、それもまたそれで美しいかもしれないけれど、最初から真っ直ぐな一本道を描けるほど人生はシンプルではないし、真っ直ぐな一本道を歩いてきたつもりでも振り返ってみれば曲がりくねった処もあるはずだ。それもこれも分かったうえで選んだ山頭火の一本道は「まっすぐな道でさみしい」道だったのかもしれない。

 

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(cam Nikon D300/Sony TX-7)

 

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ナツパパ

いい句ですねえ。
山頭火の句集は持っているのです。
でも、印象になかった。
今までさほど力を入れて読まなかったのかな。
もう一度、そう、連休中に読んでみます。
by ナツパパ (2013-04-27 09:09) 

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