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荷風の浅草 Asakusa [Ansicht Tokio]

荷風の浅草 Asakusa

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 …ジャズ舞踊と演劇とを見せる劇場は公園の興行街には常盤座(ときわざ)、ロック座、大都劇場の三座である。踊子の大勢出るレヴューをこの土地ではショーとかヴァライエチーとか呼んでいる。西洋の名画にちなんだ姿態を取らせて、モデルの裸体を見せるのはジャズ舞踊の間にはさんでやるのである。見てしまえば別に何処(どこ)が面白かったと言えないくらいなもので、洗湯(せんとう)へ行って女湯の透見(すきみ)をするのと大差はない。興味は表看板の極端な絵を見て好奇心に駆られている間だけだと言えばいいのであろう。われわれ傍観者には戦争前にはなくて戦敗後に現れて一代の人気に投じたという処に観察の興味があるのだ。

 ジャズを踊る踊子は戦争前には腰と乳房とを隠していたのであるが、モデルが出るようになってから、それも出来得るかぎり隠す部分の少いように仕立てたものを附けるので、後や横を向いた時には真裸体(まっぱだか)のように見えることがある。昨年正月から二月を過ぎ三、四月頃まで、この裸体と裸体に近い女たちの舞踊は全盛を極めた。入場料はその時分から六拾円であるが、日曜日でない平日でも看客は札売場(ふだうりば)の前に長い列をなし一時間近くたって入替りになるのを我慢よく待っていたものだ。しかし四、五月頃から浅草ではモデルの名画振りは禁止となり、踊子の腰のまわりには薄物や何かが次第に多く附けまとわれるようになった。そして時節もだんだん暑くなるにつれ看客の木戸前に行列するような事も少くなって来た。

 一座の中で裸体になる女の給金は、そうでない女たちよりも多額である。それなら誰も彼も裸体になるといいそうなものであるが、そんな競争は見られない。普通の踊子が裸体を勤める女に対して影口をきくこともなく、各(おのおの)その分を守っているとでもいうように、両者の間には何の反目もない。楽屋はいつも平穏無事のようである。 …


  永井荷風 「裸体談義」より


 永井荷風が足繁く浅草に通うようになったのは終戦直後からだと思う。空襲で焼け出されて市川の知人宅に居候をしていたのが、同地にやっと居を構え少し落ち着き初めた頃だ。浅草ロックの踊り子達とも親しくなり、自身の作品も浅草ロック座の舞台にかけたりもしていた。冒頭の随筆「裸体談義」は昭和二十四年に書かれたのだけれど、その頃の浅草の街の猥雑さが良く出ている。

 今では荷風の描いた浅草の面影はほんとうに少なくなってしまったけれど、ぼくはその頃の雰囲気を脳の片隅でかろうじて記憶している。ぼくがまだ小学校の低学年の頃だから、この「裸体談義」が書かれた少し後になる。親に連れられて何度か奥山劇場に演劇を見に行った。奥山劇場は伝法院の通りの辺りにあったと思うのだけれど、劇場の前には池があったのを覚えている。

 演劇といっても奥山劇場で行われていたのは当時全盛を誇っていた女剣劇でウチが観に行っていたのは浅香光代の舞台だった。その頃は女剣劇といえば浅香光代の他に二代目大江美智子や不二洋子等がいたらしいけれど、ぼくが舞台を記憶しているのは浅香光代の舞台だけだ。なんで女剣劇を観に行ったのかを以前ばあさんに聞いたことがあるけど、その頃ぼくの家はお菓子の製造をしていたので浅草の取引先から何度か奥山劇場の切符を買わされたらしいのだ。

 奥山劇場では二階席から観ていた記憶がある。眼下のスポットライトに照らされた舞台のちょっと派手な色のライティングの中で、渡世人の格好をした女役者が大勢の男を相手に刀を振り回して殺陣を展開する。その殺陣の最後に形が決まって大見得を切ると、客席から「まってましたーっ」とか「いよっ、あさかーっ」とかの掛け声がタイミングよくかかる。舞台は大抵日本舞踊と女剣劇の二部構成になっていてどちらにも浅香光代が出ていたように思う。ぼくもその頃は日本舞踊を習っていたこともあって剣劇の方よりも踊りの方が面白かった。

 永井荷風は以前からあった浅草のチャンバラ劇が殺伐としているといって余り気に入らなかったらしい。荷風はそこら辺をこの「裸体談義」の中でも苦々しい心もちで書いている。女剣劇も主人公はほとんどが渡世人で、人情を絡めた彼等の出入りが題材になっているものが多い。そういう意味ではこれらの女剣劇も荷風の好むところではなかったかもしれない。

 … 浅草の興行街には久しく剣劇といいチャンバラといわれた闘争の劇の流行していたことは人の記憶している所である。博徒無頼漢の喧噪を主とした芝居で、その絵看板の殺伐残忍なことは、往々顔を外向(そむ)けたいくらいなものがあった。チャンバラ芝居は戦争後殆どその跡を断ったので殺伐残忍の画風は転じて現代劇に移ったものとも見られるであろう。…(裸体談義)

 荷風の好みは、どちらかと言えばペーソスと色気のある寸劇やバアレスクとよばれるようなものだと思われたから、やっぱりそれは奥山劇場ではなくて浅草ロック座なのだと思う。子供だったぼくにはその頃の浅草の猥雑な雰囲気は理解できなかったけれど、その頃目にした浅草の街の様子は今でも目に浮かぶ。雨が降るとぬかるみになってしまう伝法院通りやそれに沿ってズラッと並ぶテント作りの古着屋、広い路の両側に映画館や劇場のノボリが林のように立っていた六区界隈。そんな光景の中を伝法院通りを水たまりを避けながら蝙蝠傘をさして歩いている荷風の姿が浮かんでくる。


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 *ぼくがまた浅草に行くようになったのは大学時代で、学校から電車一本で行けたので授業が早く終わる日や、時にはさぼって浅草にでることもありました。行き先は映画館かフランス座。当時フランス座にはビートたけし等も出ていたらしいですが、ぼくらの目当てはそこにはありませんでした。ぼくは演芸の方はコントよりも当時はもっぱら落語で上野の鈴本や、当時盛んに行われていたラジオ局が行う落語の公開録音を渡り歩いていました。

 映画の後は、お金のある時には田原町にいまもある「あらまさ」に寄ってちょっと呑むか、金の無い時は北千住の立ち呑みでした。ぼくの大学の頃にも浅草にはフランス座の辺りにまだ猥雑感が残っていたような気がします。今はちょっと毒が抜かれた街のようになった感じがしますが、それは浅草が時代の風を感じ取りしたたかに生き残ろうとしていることの証でもあると思っています。

 **荷風の随筆にでてくるショーは当時「額縁ショウ」と言われたものだと思います。額縁をかたどったフレームの中で、セミヌードのモデルが名画のシーンよろしくじっとしているというものです。それでも随分と話題になったらしいですから、ある意味では鷹揚な時代でした。しかし、その理由はモデルが動く形でのショーが禁止されていたからです。そんな背景で台頭してきたのが女剣劇でした。そこには風俗をとりまく複雑な時代背景があったのだと思います。その後のぼくが大学時代の頃の浅草フランス座ではミュージック・ホールという触れ込みでショーダンスとその合間にコントが行われていました。



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Halumi

「日本人のへそ」というお芝居のミュージックホールの様子は、こちらに書かれている通りでした。小曽根真さんのピアノ生演奏という豪華な舞台でした。
by Halumi (2012-07-08 22:23) 

engrid

スカイツリーの頭がのぞくあたりは、今の時代ですね
この景色が、今の子供の懐かしい思い出になるのでしょうね
by engrid (2012-07-09 14:36) 

としぽ

浅草と言うと色々なものが混ざって、とてもバイタリティーの有る町と言う
イメージになりますね。古いものも残されていて良いところですね。
by としぽ (2012-07-12 11:44) 

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