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変動のマグマ [Column Ansicht]

変動のマグマ

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■ 会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリボ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

 (2012年ウルグァイのムヒカ大統領リオ会議スピーチ/訳:打村明)



 世界のあらゆる処で色々な対立が表面化して、それは治まるどころかこれから益々大きくなってゆくような気がする。ぼくらの足元に得体のしれない変動のマグマが溜まっていて、それが噴き出す機会をうかがっているみたいだ。20世紀の終盤にぼくらが思い描いていたような明るい新世紀は実体のない蜃気楼のようなものだったのだろうか。

 ぼくには経済学やイデオロギーみたいな難しいことはよく分からないけど、世の中にこんなに頭のいい人たちが沢山いるのに、次から次へと矛盾が噴き出すということは、今、根本的な部分で今までの仕組みや考え方ではすまなくなってきているのかもしれない。つまり今までの○○主義とか△△システムとかに無理やり収めるために、それに合わないものを考えの外に置いたり、見ないふりをしてきたのがそれではすまなくなってきているということなのかもしれない。

 そういう問題の中で、ぼくは一番根本的な問題として迫ってくるのは、昔は無限と思われていたこの地球が、ほんとうは当たり前の話なのだけど、有限だということが数字的にも表れてき始めたということだと思う。ゼロサム社会というものを前提として世界も動き出したということかもしれない。ゼロサムというのは総量が決まっているから誰かが10取れば、誰かが10失うということだとされている。

 それは世界経済のイメージからすれば、競争の熾烈化、早い者勝ちや弱肉強食の時代の到来のようにも解される。相田みつをの言ったような「奪い合えば足りぬ、譲り合えば余る」というような悠長なことを言っている余地はないように思える。人によっては弱肉強食こそ自然界の真理で人間だってその例外ではないという人もいる。

 しかし、少し生物学をかじったことがある人なら弱肉強食は決して自然界の真理などではなく、生き残るという自然界の節理からいえば適者生存、つまり力が強いというより環境に適合していくことが「種」としての生き物の生き延びてゆく基本戦略なんだと教わっているはずだ。弱肉強食は一対一で「個」が向かい合った時の論理でしかないかもしれない。それだってヌーがいつもライオンに負けているわけではないらしい。そろそろ種としての人類全体の生き残りを探って行かなければいけない時代になっているのだと思う。

 で、ムヒカ大統領の演説は一読して割とすんなりとぼくの心に入ってくる。ぼくも昔から感じていたのだけれどアメリカの、そして今では日本も景気後退から抜け出す時の言われ方として「消費が上向けば…」という表現が頻繁に使われるけど、その消費の中身がどうなんだろうかということ。

 矢継ぎ早に出る新商品への買い替え需要喚起や低価格大量消費に支えられる商品サイクルの短いファスト・ファッション、TVコマーシャルを通じての物質的渇望感の演出など等、一昔前の消費を体験しているものからすれば、それは浪費スレスレの消費にも見えなくもない。それは食の世界でも起こっていると思う。ぼくはもちろん流通の専門家ではないから、そのへんの実態をちゃんと知っているわけではないけどモノが売られている現場と、モノが棄てられいる状況をつぶさに見れば、その間で起こっていることはあらかた想像がつく。

 でも、それを直ぐにやめることはぼくらには殆ど不可能に近いし、それは消費の「成熟化」したといわれる国々においては経済の崩壊を意味するに近いかもしれない。演説の中でムヒカ大統領はなにも石器時代に戻れと言っているのではない、と言うけれど、そこまで行かなくったって生活レベルを今よりも大きく後退させること自体がとても大変なのだと思う。

 一方、心のどこかでこのままではまずいなぁと思っているからこそ彼の演説は心情的には心に響いてくる。と言ってもぼくはなにも彼の演説にすべての点で賛成というわけではない。統制経済や計画経済は闇市場を形成したり、計画破綻の隠ぺいのための情報統制、そして社会にもあらたな不平等を生み出すこともぼくらは歴史的に学んだし、何よりも幸福の中身と価値は国ではなくあくまでもぼくら自身が決めるものだと思っているから、そこら辺は国家というものに余りいじくり回してほしくはないと思っている。

 しかし、それもこれもあった上でやっぱり彼の演説は無視するわけにはいかない。彼の演説はぼくら自身が変動のマグマを踏みつけていることに気付かせてくれている。どうしたら良いかはすぐ答えが出ないのだけれども…。

 

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 *とは言っても自分のレベルで出来ることといったら取り敢えずは消費スタイルを見直すくらいしか考えが及ばないんですが…。ぼく自身は前から自分なりの消費三原則を作ってなるべくそれに沿って生活するようにはしているんですが、何とも心もとない策かもしれません。

①それは長持ちするか…ドイツ時代にしつこく言われたのは商品の堅牢さと耐久性でした。それがまた見直される時代が来ていると思います。また、長持ちすると言うのは堅牢さだけでなくてデザインや機能の陳腐化などにも当てはまると思っています。現在ではスマホやPCなど陳腐化のスピードが極めて速い商品が多く悩ましいところですが、それだからこそ商品を選択し、見る目が要求されてくると思います。多くのプロセスを経て世に出たモノをすぐに遺棄してしまうのをぼくらの先祖は「もったいない」と表現していました。

②貪るから味わうへ…消費の初期段階ではとにかく量が確保されることが重要でしたが、マーケットの成熟化が進んだ国においては量・質ともに様々な選択肢があるのでその権利をうまく使うことが大事だと思っています。貪るように消費する様をぼくらの先祖は「はしたない」と言っていました。

③買う前の一拍…とびつく消費、踊らされる消費から選択消費に。これが結構難しいですね。消費はある意味では楽しみの部分でもあるわけで、それを完全に無視しても長続きはしないのではないかと思うので、買う前に欲望のクーリング・オフ期間を置くようにしていますが…。Amazonもダイレクトにワンクリックではなくて、一旦ほしいものリストに入れておくようにしています。

  う~ん、こんなんじゃだめじゃん。


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mimimomo

こんばんは^^
消費スタイルを変えることには賛成ですね。特に日本って捨てている「ムダ」が
多いように思います。
by mimimomo (2014-10-13 18:26) 

Silvermac

美しく、且つ使い勝手の良いデザインは中々ないですね。
by Silvermac (2014-10-13 21:02) 

Beer Man

生物資源も同様でしょう。
特に、まぐろ・うなぎの資源が危うい。
日本人の貪欲さが大きな要因でしょう。
by Beer Man (2014-10-14 11:22) 

engrid

こんなのだめじゃん、なんておっしゃってみえますが
私には、先ずそこから始めなさい
そういわれているようです、
はしたないことは、したくない、その思いは強くあります
by engrid (2014-10-14 18:35) 

女王猫

そうですよね・・何が正しくて何をよしとするかは
国によっても家庭によっても違うし、長いこと一人暮らしをしていると
あたしが法律だ!的な生活もしてしもてたり。。。
節約とケチの違いをいつも考えてるのに結局無駄遣いやったって思うこともあって~はぁ~難しいです私には。。
by 女王猫 (2014-10-18 20:49) 

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